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『自己中心的律法主義に抗する』(マルコ福音書7:14-23)

2016.08.02(07:30) 317

『自己中心的律法主義に抗する』
(2016/7/31)
マルコによる福音書 7章 14~23節

初めに
 先回、マルコによる福音書7章1〜13節をテキストにいたしましたが、今回は後半14〜23節を扱います。1〜13節での議論は、弟子たちが食事の前に手を洗わなかったことに対して、ファリサイ派の人々が「口伝律法」に違反している、ということについて、イエスがファリサイ派の人々が行っていた律法の解釈、父母を敬う代わりに神殿に捧げ物を捧げること、を批判した、といった内容でした。イエスの議論も極端である、と感じます。そして、様々な捉え方が出来ますが、私なりの結論としてはこのような話をさせていただきました。ファリサイ派の人々が、自らがまたは自分たちが律法において正しくされることを求めていて、そうした理解(口伝律法)を広げていった。しかし、それに対してイエスは、隣人愛や神への愛に基づいて、律法を実践しようとしていた、といった内容です。そして今日は後半の14〜23節を取り上げます。

見た目の捉え方
 イエスは、手を洗わなければ律法的に汚れてしまうというファリサイ派の人々に対し、7章14節15節において、このような言葉を語ります。
「…「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」」
 このファリサイ派の人々に対する言葉を弟子たちに説明するために同じような言葉を繰り返し述べています。18節から19節。
「「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
 
しかし実は、イエスのこの発言、律法に照らし合わすと間違っているということが出来ます。レビ記11章と申命記14章には「汚れたもの(動物・生き物)」についての規定があります。それらの生き物はまったく食べてはならない、とされています。イエスは今の箇所で、「外から入るものは、(人を)汚すことができない」と言っており、これらの規定を破ることになります。
 また、イエスはこのような発言もしております。ルカ福音書12章22節から27節。(P.132)
「12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。12:25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 12:26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。12:27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
 カラスとは、いわゆる雑食であり、汚れたものとされた動物の死骸を食べる生き物です。イエスは、そんな最も嫌われている生物であったとしても、神さまは守っていると言っている。こうしたイエスが持っている神への思い、考え方は、この世を創造した存在への絶対の信頼感が根底にあると言えます。そして同時に、あらゆる被造物は神によって作られたのだから、律法的に汚れている、と言われているとしても、その存在は認められている、という思いがあったと考えられるのです。
 イエスは、おそらく律法的に食べて良い食べ物かどうかということを論点としていなかったのではないか。そして汚れについては、ある考えがありました。それは、イエスの言葉によれば15節や20節の言葉「人から出て来るものこそ、人を汚す。」であったと考えることが出来ます。
 人から出てくるものとは何でしょうか。21節から23節の言葉に基づけば、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」ということになります。しかし、これらの言葉は、本当にイエスの言葉だろうか、という課題があります。そして、その糸口となるのが、パウロの存在であります。

パウロの影響
 今日の箇所を読むとき、長い間、聖書や教会に親しんできた人ほど、パウロの影響から逃れられないということを感じます。パウロは、今日のイエスの言葉に基づいているかのように、いわゆる悪徳表を記しています。
 ローマの信徒への手紙1章28節から32節。(P.274)
「1:28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、1:30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、1:31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。1:32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」
 また、ガラテヤの信徒への手紙5章18節から21節。(P.350)
「5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」
 これらの箇所、悪い事柄のリスト(悪徳表)を記しているということで共通しています。また、このような悪徳表は、ヘレニズム社会(ローマ帝国)におけるユダヤ教の特徴的なあり方でした。そして、それらはユダヤ教的に悪とされていた価値観「性的な罪」「貪欲」「偶像崇拝」に分類される、ということです。
 例えば、ローマ書1章28節からの箇所は、性的な不品行の文脈において語られています。そして、ガラテヤ書は霊肉二元論の文脈で語られています。そうした意味で、パウロはキリスト教の福音を宣べ伝えるため、自らが親しんできたユダヤ教において、よく用いられてきた悪徳表を用いて、キリスト教の正しさを伝えようとしていたわけです。
 ですが今日の箇所での用いられ方は少し違います。律法の議論におけるイエスの言説の正しさを示すために用いています。そして、ある可能性が出てきます。この箇所、あくまでイエスの言葉ではなく、イエスの言葉の解釈として、説明として加えられたのではないか、という可能性です。

あくまで律法の議論として読んでみる
 最近、『ユダヤ教の福音書』という本を読んでいたとき、この箇所が用例として出てきました。このような記述がありました。「この箇所は、解釈上、一冊の本が出来るほど難しい」と。そして興味深く読んだのは、現代のユダヤ教のラビが「イエスは、あくまで律法の議論として、ファリサイ派の人々と相対して可能性が高い」という解釈をしているという記述です。その上で、律法の議論として読むとき、ある可能性が出てきます。マルコ福音書7章15節をもう一度、お読みします。
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
 この言葉を聞いて、おそらくユダヤ教徒以外の一般の人々はこう捉えるでしょう。人の中から出て来るもの、とは、いわゆる排泄物を指す、と。しかしユダヤ教徒そして律法において、重要な人の体から出て来るものとして、血液といわゆる生殖に関わる分泌液も当てはまり、汚れに関して言えば、排泄物よりも比べものにならないほど、重い罪になるものです。
 律法において、血液や性に関する分泌液は、命に関わるものとして、とても重要なもの、神の領域に関わるものとして、とても重んじられていました。と同時に、忌避されるもの、避けられるものとされています。律法において動物の血液を口にすることは避けられてきました。また、一般の人でも祭司であろうとも、生殖活動に関わる漏出があった場合は、神殿祭儀に関わることはあってはならない、とされていました。

神による義と自己義認
 ファリサイ派の人々は、手を洗うことと同様に、食器を洗うことなども重んじていた、ということです。なぜ、そのようなことを重んじたか。それは、間違って律法で汚れた物質を口にしないためであります。7章の4節などに記されているように、チリやゴミを間違って口にしないため、と言えるでしょう。しかし、イエスの視点は異なっていた可能性があります。先ほど、カラスに関する聖書のテキストを紹介しましたが、イエスはこの世に存在するあらゆる物質、自然に関して、とても肯定的な発言をしています。
 ファリサイ派の人々は、自らが汚れないために「手を洗うこと」「食器を洗うこと」を重んじており、これらは「言い伝えの律法(口伝律法)」に基づく発想でした。しかし同時に、それらを重んじることは、自分を義とすること、自らを正しい者とすることに繋がります。そして同時に、同じようにしていない人を「不義とする」「悪とする」ことに繋がります。
 イエスは、こうした有り様を批判していたのではないでしょうか。パウロが語ったことの一つに「信仰義認」があります。神は律法によって人を義とするのではなく、神への信仰によって義とする、という言葉です。ファリサイ派の人々の姿勢を、この言葉にかけて言うのであれば、「自己義認」と言えるのではないでしょうか。

イエスの視点(神中心的律法主義)
 一般に、法律とは何でしょうか。様々な表現の仕方があるでしょう。誰もが守らなければならないルール、悪いことをした人に対する罰を示すもの、人に対して、良いことと悪いことを判断させるための指針、などなど様々な捉え方が出来るでしょう。しかし、その法律を恣意的に、自分の思い通りに決められる人がいるとしたら、どうでしょうか?ファリサイ派の人々、そのような形で口伝律法を理解し、「律法を実践している」と自負していたのではないでしょうか。
 最近の日本の情勢を見ていて、感じることは法律や世のあり方に関わる責任ある人々があまりに恣意的に、自己中心的に、世の中や法律を動かしている、ということです。本来、法律というものはどのような人であったとしても、平等に取り扱わなければ、どんな法律であっても、人を迫害するものとなり得ます。また、責任ある人が恣意的に法律を扱うのであれば、それは人と人の平等が保証された民主主義国家とは言えず、封建主義国家や独裁国家ということができます。
 ファリサイ派の人々の律法理解は、「自己中心的律法主義」と言えるのではないでしょうか。自分たちの都合の良いように、律法を解釈し、重んじたり軽んじたり、守ったり守らなかった、という具合です。それに対し、イエスはあくまで「神中心的な律法主義」でなければならない、という思いを持って彼らに相対したのではないでしょうか。イエスは自然に対しても、人に対しても、神の被造物として重んじていました。また、神の領域に関わる「血や命」に関わる存在を重んじるという姿勢を持って、すべての存在を捉えていたのではないでしょうか。そのような立ち場からファリサイ派の人々やすべてのユダヤ人たちと向かい合っていたのではないか、と思います。
 誰もが、神に義とされること、またより自分を良く評価されることを求めています。しかし、そうした思いが神の目から見て正当であるかどうか、イエスは常に意識していたのではないでしょうか。ファリサイ派や律法学者の人々、永遠の生命を求め、神の戒めをすべて守っていると語った金持ちの若者(マルコ10:17-22)、イエスの弟子たち。これらの人々は、誰もが、「自らこそ、神に喜ばれる存在である」という姿勢で、イエスに対しました。しかしイエスは、それらの人々の問いに対して問いで返す、という姿勢でありました。こうしたイエスの姿勢は、あくまで神中心な義のあり方、神中心の律法主義に基づいて相対したのではないでしょうか。
 私たちも同じではないか、と思います。自らが正しいかどうか、また自らが神に近いかどうか、ということを自分の尺度、自分の思いで計ります。しかし本当の尺度は神のみにこそ委ねられている。そんな思いをもって、あらゆる人と向き合い、また神とも向き合っていたのではないか、と感じます。


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