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相模原市の「津久井やまゆり園」の事件を受けて

2016.07.28(09:51) 316

相模原市の「津久井やまゆり園」の事件を受けて

 この事件は、どんな影響をもたらすだろうか。様々な角度からこの事件について語られてはいるが、その当事者の思いにどれだけの人が寄り添っていただろうか、ということを考える。日本には1億2000万人人以上の人々、そして世界には、70億人以上の人々が生きており、縁もゆかりもなく、空間においても離れてしまっていては、その存在に寄り添うことなど不可能であろう。

 しかし、ずいぶんと解説的な言葉を耳にする。そして、それらはすべて当たっているかもしれないが、それらの言説で、こうした事件を繰り返さない力になるだろうか、ということを考えさせられる。「障がい者に対する意識に問題が…」「労働条件が悪かったのでは…」「精神障害者としての対処に問題が…」たしかに一つ一つ、問題がある課題ではあっただろう。そしてより良く改善されるべき課題である。

 私が暗い気持ちになった事例として、犠牲者の名前が公表されなかったことにある。家族の希望である、ということであった。それがこの世の中の現実をとても明確に表しているのではないか、と思う。「誰でも命の重さは同じ」「誰もが大切にされるべき」とは言いながらも、障がい者に対する差別意識や、その家族に対する圧力(プレッシャー)は存在する。

 私は重度の身体的にも知的にも障害を負う妹の兄として育った。そして彼女は、20年前の1995年に亡くなったが、今はそんな妹と同じ障がいを負っている人々の介助を仕事として生きている。そうした立ち場で、今回の事件を通じて、うことは、障がいに対する差別意識における「本音と建前」である。

 誰もが同じ命の重さである、とは言う。しかし実際、そうした人との生活を営んだことがあるだろうか、という思いを持つし、軽々しくそうした言葉を使って欲しくない、と感じる。例えば、多くの障がいを持つ人は、よだれを垂らしたり、トイレのコントロールも上手くはいかない。そうした人と空間を共にするということは、好ましくない状況も当然ありうるわけである。そうした状況をどのように受け取るだろうか。

 私は妹と3歳の年の差であった。彼女が1歳前後、私が4歳か5歳のときに百日咳にかかったことから呼吸停止に陥り、小児脳性麻痺という傷がいを負った。寝たきりであり、しゃべることも見ることも出来ず、食べることもトイレも自分ではすることは出来ない。しかし、幼心にこう考えていた。自分たちが成長して、いろいろなことが出来るようになるのと同じように、スピードは遅いながらも、妹も出来ることが増えていくのではないか、と。しかし、あんまり状況は変わらなかった。妹も、様々な訓練というか、経験を重ねていく中で、感情を表すことが出来るようになっていった。それはとても大きなことではあったが、それだけ?という人もいるであろう。

 そして、私も成長し、中学生ぐらいになったとき、そんな妹のことが疎ましく思うことがあった。妹がいなかったら、自分はどんな生活をしていただろうか。もっと違っていたのではないか、もっと自由ではなかったか、もっと幸せではなかったか、と。しかし、そんなことは言ってはいけないこととして心の中にしまっていた。また、高校生になる頃には、そんな妹を守るためには、強くならなければならない、と考えるようになっていた。今から考えてみれば、それも差別意識の一種であろう。

 が、そうした考えや思いに持つのには、周囲の妹に対する態度や目が影響を与えていたように思う。避けるようなまなざし、目障りだ、といった態度。車イスを押して、散歩に行ったときや出かけたとき、視線を受けたのは妹であるが、その脇に立つ自分たちもそうした目にさらされてきた経験がそうさせたのであろう。

 そして今、妹と同じような障がいを持つメンバー(会社の利用者さん)たちやその家族と節しながら、日常的に感じるしんどさにどのように寄り添っていくのか、ということを考えている。世の中もずいぶん変わったと思う。しかし、本質的な部分では、どうだろうか、と考えさせられる。

 今回の事件において、加害者となった彼は「意思疎通ができない(障害者)」を対象とした、と報道されている。が、様々な人が語っているように、どのような障がいを負った人でも感情や意志はある。それは伝え方や関係性の問題ではなかろうか、と感じる。たしかに、意志を表現することを好まない人もいる。が、どうだろうか。考えてもみて欲しい。健常者同士の関係においても、信頼関係がなかったら、正直に自らの思いを表すだろうか。ましてや、対話の相手が、自らの敵意や恐れを抱いているとしたら、自分の思いなど明らかにはしないのではないだろうか。一般的な意味において健常である人と人の間においても、そうなのだから、様々な障がいを持つ人とのコミュニケーションについては、より丁寧な配慮が必要と考えるべきだろう。

 現代社会において、「障がい」というものを考える意味で興味深い例がある。
「感動ポルノ」という言葉がある。(詳しくはリンク先『障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される–難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは』⇒http://logmi.jp/34434
 アメリカのコメディアンが自らの経験を語っているのだが、障がいを負った人は、一般の人から感動を求められる、というお話である。加害者となった彼は、障がい者に対して、「感動」を求めていたのではないだろうか。しかし、それはあくまで「障がい者」を自らに隷属する存在としてしか捉えていない、という態度の表れであろう。

 だが、どうだろうか。一般の日本社会においても、同じではなかろうか。私は、パラリンピックに対して複雑な思いを持っている。がんばる障がい者、努力する障がい者が賛美されることがあまり好きではないかである。何故か?と言えば、その逆に努力できない障がい者、頑張れない障がい者はどうしたら良いのだろうか。健常者に対して、感動も与えられず、何も貢献できず、毎日を淡々と生きていくこと。別にそれで良いのではないだろうか。

 障がいを負ったら頑張ることを強制されなければならないのだろうか。加害者となった彼が、殺そうとしたのは、「がんばれない障がい者」だったのではないか、と思う。加害者の彼自身もがんばってはいたのだろうか、と思う。しかし、どこかで何かが間違ってしまった。どこかでボタンを掛け違えて、狂気を持ち、こんな事件を起こしてしまったのではなかろうか。

 この事件、この世の中の有り様を良く表しているのではなかろうか。あらゆる立ち場の人が、「がんばり」を求められる空気。「がんば」らなければ価値がない、と判断されてしまう空気。また「がんばりという尺度」「努力という尺度」は、自らとは違う存在を排除するのに格好の材料となる。いつの頃からか、日本社会は頑張らなければ生き残れない社会になってしまった。

 そんな空気がこんな事件をもたらしたのではなかろうか。「こんな時代になった」「こんな社会になってしまった」と嘆きたいこともある。が、同時に、社会全体として「生きる」ということを、立ち止まって考えなければならないことがあると感じる。

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