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『美味しいワインを飲むために』(ルカ福音書5:33-39)

2016.06.19(16:14) 314

『美味しいワインを飲むために』
(16/06/19)
ルカによる福音書 5:33~39

美味しいワインの尺度
 美味しいワインとは、どのようなワインでしょうか?今時ですと、誰もが古いワインというのでしょうか?良いぶどうをつぶして、実の中に含まれている糖分を発酵させ、アルコールになり、樽や瓶に詰めてから、より長い時間が経ったものこそ、美味しい、と言うのが一般的ではないでしょうか。それに産地や作り方など様々な要素が加わりますが、一般的には、新しいものよりは古いものの方が良い、と誰もが感じている、と思います。
 私など、お酒は好きな方ですが、ワインの味はあまりよく分かりませんので、詳しい人に教えてもらって、これが美味しいのか、これは美味しくないのか、などと教えてもらっているレベルですから、そういうことを論じる資格はない、と思うのですが、自分の思うような味が納得できる値段、価格で飲むことが出来たら、満足する、というタイプです。
 ヨハネ福音書の中に、カナの婚礼という記事が収められています。ヨハネ福音書2章1節から12節の記事です。婚礼の途中、ぶどう酒が無くなってしまいます。イエスは母マリアに諭され、大きな水瓶6つの中に入っていた水をぶどう酒に変えてしまう、という奇跡を起こします。そして、そのぶどう酒を飲んだ世話人が花婿にこう言います。ヨハネ福音書2章10節。(P.166)
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

ワインの味とイエスの確かさ
 イエスの奇蹟行為によって出来たワインは、最初に客たちに振る舞われたワインよりも美味しかった、それは確かなようです。そして、その良さは共有されるものだったのでしょう。どのような違いがあったのでしょうか?最初のワインはあまり樽に詰めてからあまり時間が経っていなかったのに、イエスのワインはとても時間が経っていたものだったのでしょうか。当時のワインの作り方は、実を取ってきて、それを酒ぶねと呼ばれる石や木によってできた道具の上にのせ、足で踏んでつぶして、瓶にいれる、といった作り方です。そして、その瓶の中に入れたまま、熟成がすすむのを待ちます。
 瓶に入れてすぐのワインは、甘みが多いただのぶどうジュースです。しかし、ぶどうのみと一緒に踏まれたぶどうの皮についている酵母によって、甘みの元である糖分がアルコールに変化する発酵、熟成が進み、ジュースからぶどう酒へと変わっていくのです。現在、わたしたちが口にしているワインというものには、一定のアルコール度数で作られたものです。しかし、当時のワインはアルコール度数も一定でなかったでしょう。また、当時のワインは、ぶどうをつぶしたまま発酵が進んだものですから、とても濃く、アルコール度数もとても高く、水で三倍ぐらいに割って、飲むことが当たり前だったそうです。
 改めてどうでしょうか?最初のワインとイエスのワインの違いは何だったのでしょうか?熟成の違いだったでしょうか?それとも、質の違い、産地や作り方の違いでしょうか。

福音は新しいのか?古いのか?
 今日の箇所、イエスは、服と布きれの関係と、ぶどう酒と革袋の関係をたとえの材料にして、新しいものは新しいもの、古いものは古いものと組み合わされなければ、ダメになってしまう、ということを述べています。たしかに、古い衣服に新しい布を当てて、アナを塞いだとしても、その新しい布の持つ強さやしなやかさによって、古い衣服を破いてしまいます。また、古い革袋に新しいぶどう酒を入れても、発酵が進む過程で古い革袋の皮を劣化させて、破いてしまいます。
 このたとえは、何を伝えようとしているのでしょうか?イエスの新しい教えの正しさでしょうか?それとも古い律法が間違っている、ということでしょうか?どちらでもありません。そうした捉え方ではなく、あなた方は私の教えである福音に従うのか、律法に従うのか、どちらかキチンと決めなさい、と述べているのです。イエスが伝えた教えは、ユダヤ人たちが大切にしていた律法とは異なる教えでした。そして、律法はユダヤ人たちにとって、遙か昔モーセを通じて伝えられたものであり、先祖代々、古くから守られてきたものです。それに対してイエスが伝えた教えは、初めて耳にする新しいものです。
 イエスは、こんなことを伝えようとしていると考えることが出来ます。古い考え方のまま、新しい教えを、一部、実践しようとしても、うまくはいかないよ、と言っている。さらにだめ押しだと思われるのは、最後の言葉です。今日の箇所の最後の言葉、ルカ福音書5章39節です。
「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
 イエスも古いぶどう酒の方が美味しい、と考えていたのでしょう。しかし、自らが述べている福音は新しいものです。そして古い律法とは対立します。新しいぶどう酒は、あまり美味しくないかもしれない。まだアルコール度数も高くなく、甘いだけかもしれない。古いぶどう酒である律法の方が、昔から馴染んだ味でもあるし、お酒としても美味しいにに決まっています。そんな違いがある律法と福音です。それでも、あなたは福音を選びますか?というたとえなのです。

律法と福音
 イエスは福音書の中で、様々な形で律法について触れています。そして多くの場合、当時当たり前のこととして、形づけられていた律法に対する態度に批判的な言説や態度を明らかにしています。しかし、そのイエスの態度については、様々な捉え方がされていると言えます。たとえば、マタイ福音書は、この言葉にその姿勢が現れています。マタイ福音書5章17節をお読みします。(P.7)
「5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
 マタイ福音書において、イエスは、未完成、不完全であった律法を完成する者、また新たなモーセとして、最高の律法の教師(ラビ)として描こうとしています。ですから、福音書の冒頭に、山上の垂訓に始まる教えを列記し、さらに山の上でイエスに語らせているのです。また、パウロもイエスと律法の関係について、パウロにおいては、信仰と福音の関係ですが、そのことについて記しております。ガラテヤの信徒への手紙3章23節から25節。(P.346)「3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」
パウロは、キリスト者の中で、民族的な差別を生み出す律法について、否定的な言葉を多く記してはいます。
 しかし、まったく必要ない、というわけではなく、イエスが示した福音の確かさ、イエスへの信仰の正しさを示すため、そして人が神によって義とされるために必要な「養育係」であるというのです。マタイにおいても、パウロにおいても、共通しているのは、時間軸においてイエス、また福音が現れる前の段階の存在、として律法が神から人へ与えられた、という立場です。どちらも「古い」律法を「新しい」福音を準備するもの、前段階として必要なものとして捉えているのです。

宗教学的な視点から見たとき
 そして、今日のテキストであるルカ福音書とマルコ福音書においては、イエスと律法の関係で言えば、ルカにしても、マルコにしても、「イエスはキリストである」とか「イエスは神の子である」と捉え方で、律法を乗り越えています。古いとか新しいとか、関係ない。
イエスは神の子なのだから、またイエスはキリスト(メシア・救い主)だから、「正しいのだ」という捉え方です。あまり時系列なこだわりがない姿勢です。
 そして逆に、もっと時系列にこだわっているのが、ヨハネ福音書と言えます。ヨハネ福音書の冒頭は、このように始まります。ヨハネ福音書1章1節、2節。
「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。」
 まったく律法という言葉は、出てきません。しかし、ヨハネの視点は、時系列的な点からイエスの正しさを示そうとしています。先にマタイとパウロの視点から律法と福音、律法と信仰の関係を紹介しましたが、あくまで時系列的には律法が先にある、という立場でした。しかし、ヨハネ福音書においては、イエスはこの世の始まりから神と共にあった、という言説で律法を乗り越えているのです。

古い律法の働き
 イエスは、新しい布と新しいぶどう酒が、古い布と古い革袋を破いてしまう、というたとえが語りました。新しい衣服に古い布ではありません。新しい革袋に古いワインではありません。たとえとして、逆であれば、衣服が破れたり、革袋が破れたりすることもありませんから、たとえとして成立しない、とも言えます。しかし同時に、イエスが生きた状況を反映にならないので反対の関係ではたとえにはならないのです。
 あの時代、ユダヤ人はローマ帝国の支配、エルサレム神殿を中心とした宗教組織の腐敗という二重苦を抱え、新しい時代、新しい歩みを求めていました。ファリサイ派と呼ばれる人々も、律法学者と呼ばれる人々も同じで、新しい時代を求めるからこそ、より強く律法を重んじる姿勢を求めたのです。彼らの姿勢は新しいのですが、求める形は律法への集中という意味では「古い」ものでありました。そして彼らの言葉、教えを聞く、一般のユダヤ人としても、それらの勧めは受け入れやすいものであったと言えます。今風の言葉で言えば、それは「復古主義」「懐古主義」「民族主義」といった言葉が当てはまるかもしれません。そして、それは万人が美味しいと感じるぶどう酒のような香りを持っていたと言えるのでしょう。

美味しいワインを飲むために
 それに対し、イエスの語った教え、福音とはまったく新しいものです。まだ甘いだけのぶどう酒です。万人の舌に好まれる味ではありません。古い革袋に入れたら、その革袋を引き裂いてしまうような未熟なお酒です。また誰でも受け入れられるようなものでもなく、人によっては飲むことができないようなものかもしれません。では、どうしたら、その新しいぶどう酒を受け入れられるか。イエスは、まったく新しい存在になれ、新しい人間になることによって、新しいぶどう酒を受け入れることができるといっているのです。
 イエスは、こういうことを言おうとしているのではないでしょうか。福音というもの、また律法に従うというのは、頭の中で受け入れるものとして、理屈の中で受け入れるものであると考えていないでしょうか。イエスは、律法を信じるにしても、福音に従うにしても、頭の中の問題として捉えていないか?そうではなく、生きる上での課題として、身体全体で福音を生きる、ということが必要なのだ、と述べているのではないでしょうか。
「新しい革袋」とは、私たちのことです。「新しいぶどう酒」とはイエス様から与えられる福音のことです。常に新しい福音を注げられるためにも、常に新しい革袋となることを恐れてはならない、ということをイエスは今日の箇所で述べております。そして、わたしたちの中に注がれたぶどう酒は、日々を積み重ねる中で、最初は甘いだけだったものが、深みのあるより美味しいワインへと変化していくのではないでしょうか。
 その途上の中で、時に渋みを感じたり、甘さを感じたり、また味に飽きたり、時に悪酔いしたりすることもあるかもしれません。
しかし、そうした日々を積み重ねることによって、より深くそのワインの味、福音の味を知ることが出来るようになるのではないでしょうか。また同時に、そのワインを受け入れるに相応しい革袋となることが出来るのではないでしょうか。

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