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『神の意志とイエスの意志』(マルコ7:1−13)

2016.06.06(21:11) 313

『神の意志とイエスの意志』
(2016/6/5)
マルコによる福音書 7章 1~13節

初めに
 マルコによる福音書7章は律法に関するイエスの姿勢を記した箇所であります。そして同時に、ファリサイ派や律法学者たちとの対決の場、違いが現れる場面であります。7章の前半(1〜13節)、今日の箇所にあたる箇所は、律法と「言い伝え」と記されております、「口伝律法」に関する箇所であり、食事の前に手を洗うかどうか、ということが課題となり、意見が交わされております。
 そして14節から23節は、食物規定に関する箇所です。具体的には記されておりますが、律法に細かく記されている、どういった植物、野菜や動物、魚類、水の中で暮らしている生き物を食べて良いのか、いけないのか、といった議論に対するイエスの姿勢が記されております。(今日は触れません。次回かな…)
 おそらくこれら二つの逸話は、もともとはまったく別のお話として伝えられたのでしょう。しかし、この福音書をまとめた人がファリサイ派と律法学者との議論にイエスが勝ったということを強調したいがため、またユダヤ教とキリスト教が律法に関して、より正しい解釈を持っているということを説明したいがためにこのようなお話になったのだ、と考えられます。

言い伝え(口伝律法)
 そして、この箇所を読むと、こう感じるのではないでしょうか。ファリサイ派や律法学者の人たちは、「父母を大切にすること」を「神殿に捧げ物をすること」によって、やったことにしようとしていて、自分の正しさのみを求める自己中心的な人たちだ、思いやりのない人たちだ、と。しかし、そういった見方自体、捉え方自体、イエスに言葉が正しい、解釈がすばらしい、という理解に基づいた捉え方、解釈と言えます。口伝伝承で、たしかに父母を大切にすることが出来ない場合、神殿や聖所に捧げ物をしなさい、といった口伝伝承があり、善いこと、とされていました。しかしなぜ、このような伝承が生まれたのでしょうか?考えたことはないでしょうか。
たとえば、どうでしょうか、父母を大切にしたい、と願ったとしても、物理的な距離があったらどうでしょうか?
 「父母を大切にしなさい」という教え(戒め)は、十戒にも含められている、大切な教えです。しかし日常的に触れ合うことが出来ないような距離があるとき、どのようにして、父母を大切にすれば良いのか、実践すれば良いのか、と。神殿や聖所において、その思いを表そうとするという行為、攻められるでしょうか。キリスト教会においても、献金というものは、ただ教会の維持、信仰生活の維持に使われるだけではなく、隣人愛や社会正義の実践に使用されることがあります。(無い教会もあるでしょうが…)そうしたあり方も否定されるということでしょうか。そういったあり方を受け入れるのであれば、あらゆる福祉や社会正義は体を動かして、その場に行って、実践しなければ、神さまは喜ばれない、ということになるのでしょうか。そうではないでしょう。そうした意味で言えば、私たちのある種の「神の勧め」「神の戒め」の変換、変更を行っていることになるのではないでしょうか。そうすると、ファリサイ派や律法学者たちを批判する資格があるだろうか、ということになってしまいます。

口伝律法と神の意志
 また、イエスは神の子であるから、キリストであるから、正しいことを言っている、真理である、という理解があります。しかし、イエスも一人のあの時代、紀元1世紀、ユダヤ民族がローマ帝国に支配されており、ピラトという提督がいたあの時代の一人のユダヤ人であります。そのように考えてみて、さらに彼も一人のユダヤ教の改革者の一人だと考えてみたいと思います。ファリサイ派の人々や、律法学者の人々も、同じ時代を生きた人々であり、彼らも従来のユダヤ人のあり方、ユダヤ教のあり方ではいけない、と思っていた熱意を持っていた人々です。そして、どのようにしたら、主なる神はユダヤの民を救われるだろうか、とそれぞれの立場で必死になって考えていた人たちです。イエスとは立場こそ違いますが、ユダヤの民の平安を一般のユダヤ人たちより強く求めていた、というところでは一致していたと言えるのです。
 彼らはこう考えていました。ユダヤの歴史を振り返ってみたとき、間違いばかり犯してきた。だから、こんなにもユダヤの民は苦しんできた、様々な帝国、民族に支配されてきた、そして今はローマ帝国に支配されている。その状況を変えたい、そのためには、今まで以上に律法を守らなければならない、実践しなければならない。そのためになすべきこととして、主なる神の教えである「律法」をよりよく実践するためには、どのような生活をなすべきか、どのようなことに気をつけて、毎日を過ごせば良いのだろうか。このような思いを持った人々でありました。
 想像してみてください。いろいろと難しい問題があります。聖書に書かれている事柄、今の時代を生きる私たちにとっては、同じように遠い昔の話であります。しかし、イエスの時代とモーセの時代、シナイ山にて、石版に十戒が記された時代、律法(トーラー)が表された時代から、1000年以上は経っています。どうでしょうか?そのような時代の隔たりの中で、当然に同じ律法、戒めとしても細かくは変わっていくのではないでしょうか。そうした状況の変化に基づいて、過去に対する反省に基づいて、口伝律法は深められてきた、と言えます。

律法の解釈という作業
 そして、いわゆる「手を洗う」という行為そのものについて考えてみたい、と思います。以前読んだ本に興味深い指摘がありました。映画監督でジャーナリストでも森達也さんという人がいます。彼は松本・地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教のその後をドキュメンタリー映画として取った監督として知られていますが、「トイレを出たとき、私は手を洗わない」といった内容で、こんなことを記しておられました。
『「オートで水が出る仕組みなら洗う。でもそうじゃなければ洗わない。どこの誰とも知れない大勢の人が、それぞれの○○を触った直後の指先で触れた蛇口に、わざわざ触るということは、自分の○○は他人のそれより汚いという前提が必要になるからだ。』
 実際に、一般的なトイレを出るときに手を洗う作業によって、水で手を洗う前と後で測ってみたら、大きな違いはないという調査結果もあるようです。律法において、ユダヤの人々は食事の前に手を洗うということを守ってはいたようですが、その水の清潔さは考えられていただろうか、という疑問も出てきます。
 また、律法を守るという行為は、何のためになされるのか、ということ、とても大きな課題であります。先日、NHKスペシャルで、『天使か悪魔か羽生善治(はぶよしはる) 人工知能を探る』という番組がやっていました。
最近の人工知能の進化と課題についてまとめられていました。その中で、インターネットの検索エンジンで知られているGoogleが開発した「アルファ碁」という囲碁のソフトに触れていました。チェスや将棋はすでにプロにコンピュータが勝利しています。が、囲碁だけは、まだまだ年月がかかるのでは、と考えられていました。しかし、そのソフトが、囲碁の世界チャンピオンに勝利したということでした。
 また、イギリスにあります「人類未来研究所」というところがあり、その所長が、人類滅亡の12のリスクとして、気候変動や核戦争と共に、新たな危険として「人工知能」を上げていました。その所長が、そのことに触れて、インタビューでこう答えていました。
「人工知能の本当の恐ろしさは、人間を敵視することではなく、人間に関心がないことです。(それは大きな脅威です。人工知能の中には、邪悪で私たちが望まないものもできるはずです。今のうちに人工知能を管理する方法を考えておくべきです。)」

神の意志の実践という作業
 ファリサイ派や律法学者の人々が、律法の実現による正しさ、またはユダヤ人としての正しさ、そして、そうした「正しさ」に基づいた神の救い、神の御旨を求めていました。律法の実現によって、ユダヤ人の救いを、あるいはローマ帝国からの解放を求めていたのかもしれません。そして、それがユダヤ人たち、一般の人々の幸い、幸福につながる、と考えていたからです。しかし、そうした思いがあったとしても、1人1人のユダヤ人への思い、隣人愛としての尺度はどうであったでしょうか。あくまで自分たちの尺度、自分たちの持つ価値観で物事を捉え、また裁き、1人1人の有り様を踏まえて、物事を捉えるということはしていなかったでしょう。
 それに対してイエスは、そうした杓子定規なあり方とは違い、律法の解釈、捉え方においても、隣人愛、他者への思いやりに基づいて、受け取らなければならない、と考えていたのではないか、と感じます。イエスは、もっとも重要な二つな掟として「心を尽くして、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」という神への愛、と。「隣人を自分のように愛しなさい」という隣人愛をあげています。それらは律法の中のたった二つの条項ですが、イエスは神の言葉である律法を、これらの二つの指針、補助線、道しるべを使って読み解いていた、と説明できるのではないでしょうか。

イエスが大切にしたこと
ファリサイ派や律法学者の人々は、間違いを犯していました。彼らの誤りは、なんであったか。様々な表現でその間違いを指摘することが出来ますが、二つの視点からその間違いを指摘して最後にしたい、と思います。一つは、イエスの言葉にもありますが、ファリサイ派や律法学者の人々が、他人のことをよく見えるけれども、自分のことは見えていなかった、ということです。まさに「自分の量る秤で量り返され」(ルカ7:37~)、「(兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ)自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7:3)とイエスに指摘されるようなあり方です。神中心ではなく、自己中心になっていた、ということです。他者を裁くのみで、自らを律する姿勢が足りない、ということ。また他者を導くのには、そうした姿勢で良いのか、ということ。イエスであったらどうだろうか、と言えば、罪人といわれる人であっても、共に食卓に着き、共に旅したでしょう。そうした他者との生き方の問題がなっていない、隣人への愛がない、という説明も出来ます。
 またもう一つは、全体のための個を犠牲にする全体主義に陥っている、ということです。さきほど、彼らがユダヤ人のため、ユダヤ教のために、律法を重んじ、言い伝え(口伝律法)を発展させてきた、ということを触れました。それは何のためか、と言えば、ユダヤ人たちの幸福のため、救いのためですよね。しかし、理想的なユダヤ人ではない人はその救いの中に入らない、とし、一部のユダヤ人だけが救われる、という形に変わってしまっているのです。ユダヤ人だけが救われるという考え方が、選民思想とすれば、この捉え方は、それをその対象をさらに限定したセクト主義とも言える捉え方。ユダヤ人の中でも、さらに救われる人は限定される、という捉え方です。また、ユダヤ人の仕事の中において、血液に触れる仕事は非常に汚れた仕事として捉えられていました。しかしそうした仕事も神殿祭儀や日常生活のために必要な生業です。そうした指摘をしてみますと、非常に滑稽な在りようではないでしょうか。
 この二つの点は、国家のあり方においても、問われるべき事柄です。国民を守る、と言って何がなされるのか、また、国民を豊かに、と言って何がなされるのか。現在の日本の政治、沖縄の課題や様々な社会制度にも言えることです。

最後に
 先に、人工知能の話を紹介しましたが、ファリサイ派や律法学者の人々、ユダヤ人を救いに導くために律法を重んじていたのに、いつの間にか、律法だけを重んじるようになり、人への興味、隣人への興味を失っているのです。こうしたあり方、私たちも常にそうした誘惑に襲われる、と言えます。イエスへの信仰、自らの信仰生活、正しさを追求することによって他者に対する視点が失われていないだろうか。
 そしてこれは考えてみると、とても難しいことと言えます。教会や家族、会社、友人たちといった集団の中において、全体ばかりに目が行って、その中に生きる個々人への思いやりを失っていないだろうか。全体のために誰かを犠牲にしていないだろうか、また自分を犠牲にしていないだろうか。考えてみれば、非常に難しい課題です。人によっては、そんなめんどくさいことを、と思う人もいるかもしれない。しかし、それこそがイエスが大切にされたあり方であり、とても大きな問いではないか、と感じます。


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