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「罪人にこそ救いがある」(ルカ5:27-32)

2016.04.21(09:23) 310

『罪人にこそ救いがある』
(16/04/17)
ルカによる福音書 5:27~32

徴税人レビの召命
福音書におけるイエスのキリストとして、神の子としての活動は、バプテスマのヨハネからの洗礼(受洗)、サタンからの誘惑、ガリラヤにおける一人での活動の開始、ペトロと兄弟のアンデレ、そしてヤコブと兄弟ヤコブという弟子たちの召命という順序で記されております。その間、幾つかの癒しの物語が続きますが、今日の箇所は、最初の弟子であったペトロたちに続く、二つ目の弟子の召命記事に当たります。イエスは徴税人として収税所に座っていたレビに対して声をかけます。「わたしに従いなさい」と。
この文章だけでは、レビのそのイエスの言葉に何の疑問も持たずに従っていったように思われます。ですが、イエスの一言に対して、考えることもなく、躊躇することもなく従ったような書かれ方です。ペトロとアンデレは漁師である彼らの仕事の途中、網の手入れでもしていたまさにそのとき、そこにいた父や雇い人たちを捨ててイエスに従っています。ここでのレビも同じようにその場ですぐに立ち上がりイエスに従っています。そこに至るまでには何らかの出来事があったはずですが、それらのことは記されていません。が、今日の箇所を読み解いていくことから、徴税人レビが、そのような決意に至った思いの一端を知ることが出来るかもしれません。

罪人と呼ばれる人たちとの会食
 レビの召命の直後、イエスに従ったレビの家で会食の準備がなされ、多くの人たちが同席します。(わたしは「何もかも捨てて」とあるのに家に戻ったんだ、と感じますが、何かを取りに行った最後の時とも言えますね)そして、そこには多くの徴税人やほかの人々がいました。そしてそれらの人の中には、ファリサイ派や律法学者たちも含まれていたのでしょう。そして、その食事の席において、イエスに対し、ファリサイ派や律法学者たちがイエスに言うわけです。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」(おいおい、家の中にいてそんなことを言うなんて、どんなKY!と感じますが…)
おそらくこの場面というのは、イエスの次の発言を言わせるために準備された場面であり、それをアポフテグマというのですが、そのためにこのような違和感がある状況が準備されているわけです。
 しかし、考えてみたいことは、イエスはこのような食卓の席を当たり前のこととして、行っていたであろうということです。そして、それはおそらく徴税人といった当時のユダヤ人たちからは罪人され、さらに嫌われていた人々、阻害されていた人々と食事を共に取っていたであろうし、ここにおける敵対者、反対者である、ファリサイ派や律法学者の人々ともそうした場所を持っていたであろうということです。

罪人とは?
 ところで、罪人とは、どのような人々のことを指すのでしょうか。一般的に、福音書の中に現れる『罪人』とは、おそらくイスラエルの歴史の中で受け継がれてきたユダヤ教の律法に従わない人々、言い方を変えれば、律法の教えを守ることができない人々、律法を慣習・道徳とする社会で差別されていた人々を指していると考えられます。
 しかし同時に、その観念は、重層的であった、様々な尺度にまたがっていたと考えられます。一側面として職業でいえば、徴税人は、律法における理由から言えば、誰が触ったのか分からない貨幣に触れるという理由で嫌われていました。貨幣が外国人や汚れを帯びている危険性が高い、という理由です。また違う理由がありました。それは徴税人たちが納めていた税金がローマ帝国のために利用されるかもしれない、という理由です。しかし、たとえユダヤ人のために使われる税金であったとしても嫌われる、というのは世の常でしょう。
 また、イエスの弟子のペトロたちの生業であった漁師も汚れた仕事とされていました。なぜなら漁を行うこと、魚を干物にする作業、など生き物に触れる職業は、必ず「血」に触れることになります。そして考えてみれば、そうした要素は、あらゆる一次産業に広がることになります。農業にしても、大工にしても、羊飼いにしても、血にふれる可能性や汚れる恐れがある荒野や土に触れる仕事でありますし、安息日なども守れる保証がありません。そうした存在は、ファリサイ派や律法学者のようなインテリというか、富裕な都市生活者から見れば、汚れた存在、罪人である、と見られる要素がいくらでもあったということです。
 また、地域的な要素もあったと思います。受難物語において、ペトロがイエスの仲間である、と指摘されたとき、ペトロに対して、「ガリラヤの者だから」と指摘しているのですが、何故ガリラヤ出身者であったか、分かったのか、というのは、おそらく言葉使いに方言のような違いがあったのであろう、と考えられています。そして更に、エルサレムの住民のユダヤ人にとってガリラヤとは、イエスが活動した時代、ファリサイ派の人々やローマ人たちが定住する地域の向こう側にある場所です。同じユダヤ人であるとしても、自分たちとは同じではないという差別意識を持って考えられていたはずです。(山向こう、川向こう…)

罪について-的を外す
 しかし、イエスが考えていた罪とは、また罪人とは、どうやら違うことではないか、ということを考えることが出来ます。罪という言葉、ギリシャ語で「ハマルティア」と発音しますが、「的をはずす」「正しい道から離れる」という言葉がもとになって生まれた言葉であります。そして、罪とはキリスト教の枠内で言いますと、本来的な人間の姿は「神に向かうこと」「神に従うこと」であるが、それが行われていない状態のことを指すと言うことが出来ます。
 しかし、ファリサイ派の人々や律法学者の人々は、罪とは「法」を破ること、律法を破ること、律法を守ることが出来ないことを「罪」と考えていました。似ているようで違うのです。罪というものを考えるとき、旧新約聖書を通じて、根本的なこととして言えることは、罪が神と人との「関係概念」である、ということです。「神と自分」「我と汝」というM・ブーバーというユダヤ思想家の作品もあります。アダムとイブの楽園追放は「エデンの園」において、ある意味、人格的な信頼関係があったはずなのに、「食べてはいけない」という約束を破ったことが原因です。が、その約束は神との間のものでした。
 イエス時代の律法も基本的には、同じ考えに立っていました。しかし、それがどんどん変わっていってしまった。神との契約を守るのか破るのか、という尺度では無く、律法に書かれていること、律法には書かれていないが、言い伝えられていたルールが守られているかどうか、という視点に変わってしまっていた、ということです。

ファリサイ派と律法学者について
ファリサイ派の人々、律法学者の人々は、イエスに問いました。ルカ福音書5章30節。
「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
 この質問から彼らの2つの考え方、思いが見えてきます。1つは、この時点において、ファリサイ派の人々や律法学者の人々は、イエスのことを味方だと考えているということ、イエスのことをある程度は評価していた、ということです。でなければ、このような質問は出てきません。徴税人や罪人と呼ばれる人々とイエスが仲間だとすれば、こんな質問は必要がないでしょうし、するような動機もないはずです。イエスのことをある程度評価し、イエスの行動や言葉に惹かれているからこそ出てくる質問、視点であるということです。
 そして、もう一つは、自分たちだったら、そういうことはしない、という意識です。ファリサイ派の人々も律法学者の人々も自分たちだけは正しい、と思っている人たちです。そして同時に、従来のユダヤ教のあり方では間違っていると考えていた人たちです。ですから、イエスに対しても、思いとしては、「君は話も立派だし、病人をいやす力を持っているみたいだから、仲間にしてあげるよ。でも、こんな人たちと食事をしているんだったら、僕たちの仲間にはなれないなあ」といったような思いをイエスに持っていたと考えられます。
 ユダヤ人の中におけるファリサイ派と律法学者の人々、イエスと弟子たちは最終的には、ユダヤ人にも彼らにも敵対し、命を狙われるようになるわけですから、同一視してしまいそうですが、この時点では、ファリサイ派の人々も律法学者の人々も、イエスに対して、今までのユダヤ教とは違うことをしよう、という同じ思いを持つ仲間かもしれない、と考えていた、ということの現れとして、この発言を捉えることが出来るのです。

罪人の招き
しかしイエスのそんな思いを持った彼らに対して、自らの返答によって、彼らとの違いをはっきりと言い表します。ルカ福音書5章31節32節。
「イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」」と。
 様々な捉え方ができる言葉であります。実は、この同じ対話の発言では、ある言葉が削られています。そのことを確認したい、と思います。マルコ福音書2章17節。(P.64)
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 マルコ福音書では、最後の部分が、「罪人を招くためである」となっており、ルカ福音書にある「悔い改めさせるためである」という言葉がありません。マルコ福音書の意味するところは、さきほど触れましたような、イエスが生きた当時、社会的な立場、職業や生まれた場所によって「罪人」とされていた人々を「招くため」、救うために私は現れたのだ、ということを意味しています。
 しかし、ルカでは、「罪人を招いて悔い改めさせるためである」と変わっています。この違いは、視点の違い、と理解することが出来ます。ルカ福音書において、「悔い改める」というのは、いわばキリスト者、クリスチャンになる、ということです。そして「罪人」とは、キリスト者、クリスチャンではない人のことなので、「悔い改め」という言葉を加えた、ということでしょう。マルコの言葉は「罪人」とされている人の前で語られた言葉、そしてルカの言葉は、「教会」の中に語られた言葉ということが出来るでしょう。

イエスの律法理解
またイエスの律法に対する理解から、この発言を捉えてみたい、と思います。イエスは、ルカ福音書においてある人から「永遠の命」について質問されたとき、このような発言をしています。ルカ福音書18章19節。(P.145)
「18:19 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」
 おそらくイエスは、律法について、その人が罪人であるかどうか、区別するための道具とは考えていなかった、神に近づくための道しるべのように捉えていたのではないか、と思うのです。よく誤解されることですが、イエスは律法を否定したわけではなかった、と考えられます。また言うなれば、ファリサイ派の人々や律法学者の人々が、律法を神に「善」とされるための関所として捉えていた、すべてを守らなければならない、と考えていたとすれば、イエスは律法を「善」とされるための道しるべと考えていたと喩えることが出来ます。
 たとえばイエスの有名な言葉、ルカ福音書では善きサマリア人の例えが出てくるやり取りで出てくる言葉、もっとも重要な2つの律法として、神を愛することと、隣人を自分のような愛すること、を勧めています。その徹底の実例として、罪人と呼ばれる人との食事や罪人と呼ばれる人たちを弟子としたことも捉えられることができます。そして、どのような人でも神に愛されているのだ、と考えていた現れと捉えられるのでは無いでしょうか。

罪人への招き
 旅の途中、徴税人レビに声をかけたイエス。イエスは何を考えていたのでしょうか?あえて収税所に座っていたレビに声をかけたのでしょうか?あえて律法で凝り固まっている人々に対して「私は病人のための医者だ」という意識で、ユダヤ人社会の中で嫌われている、差別されている徴税人であったレビにあえて声をかけたのでしょうか?少し違うのではないでしょうか。イエスはまったくそういったことを意識せずに、確信を持って、レビという人を自らの同労者として歩みたい、という思いを持って声をかけたのだと考えることが赦されているのでは無いでしょうか。
 わたしたちの意識にも彼は悪いことをしている人だから悪人だ、とかこの人は良いことをしているから善人だという意識は当然あります。一般社会の中ではそれは至極当たり前のことで誰も文句を言うことはないでしょう。それこそが生きる上での知恵である、と。しかし、そういうことで大切なことを見逃してしまう場合があるのでは無いでしょうか。ここに起こっているファリサイ派や律法学者たちが罪人と呼ばれる人たちに対する態度とは、まったく異なる新しい出会いを見逃していることになるのではないでしょうか。
 イエスの弟子として、徴税人や罪人と呼ばれる人々、そしてエルサレムにおいては、「ガリラヤ人」とは異邦人、そして律法の縛りの薄れた「半ユダヤ人」扱いを受けるような人々でした。そのような人々が「律法」そして「神殿」の権威の中心であるエルサレムに上っていきました。周囲からは、エルサレム入場の際、背を借りたロバの行進のように捉えられたかもしれません。しかし、たしかにそれは多くの人の救いであり希望でもあったのです。
 当時のユダヤ教徒の多く、ファリサイ派などや律法学者たちが自分自身や神さま中心を物事の中心におき「救われる存在」となることを目指しました。しかし、イエスの活動は、「隣人」や「罪人と呼ばれる人」に向かいました。イエスの最初の弟子たちは、そのイエスが向かった対象であると同時に、そのイエスの向いた方向の人々の解放、そしてすべての人々の解放、救いへとつながっていると思います。


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※写真は、10年前に行った阿蘇の写真。想いを寄せる意味でアップ。

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