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『人間のピスティスに基づいて』(ルカによる福音書5:17-26)

2016.02.21(20:39) 308

『人間のピスティスに基づいて』
(2016/2/21)
ルカによる福音書 5:17~26

癒しの物語として
 今日の物語は、癒しの物語でありながら、外枠としては、律法の議論がなされているエピソードです。イエスがある家の中で、いやしを求めている人たちをいやしていた。そしてそこには、律法学者やファリサイ派の人たちもいた。そして建物が入りきれない人がいる状況の中、ある人たちが、屋根をはがして、「床ごと」と記されていますが、タンカのようなものに載せられて中風の人をおろした。そして、イエスの言葉「あなたの罪は赦された」という言葉をかける。そして、その言葉に対して、ファリサイ派と律法学者の人たちの怪訝な顔に対して、イエスはその心の中の思いを読んで、「人の子」が罪を赦す権威があることをのべ、この中風の人をいやします。
 当時のユダヤ人の考え方によれば、人の病はすべて、その人の罪によるものです。そして、その罪は、神殿に捧げ物を献げることによってのみ、癒されることはありません。ですから、律法学者やファリサイ派の人々の考え方とすれば、イエスにも「赦す」権威はないし、自分たちにもないのだ。神によってのみ、癒されることが出来るのだ、ということで、イエスの行動を戒めているのです。そして、そういった言葉や行動は、神を冒涜することになる、と。極端にいえば十戒の第一戒「神の他に神を作ってはならない」と関係することとして考えられているのでしょう。そういった意味でこの物語には、いくつかの要素が複雑に絡まっているといえます。

四人か五人か
 この物語の原点にあることは、イエスがこの病人をいやした、ということです。イエスは誰の信仰を見て、この病を負っていた人を癒そうと思い至ったのでしょうか。誰もが、この病を負った人を助けた人(4人と一般的に捉えられている)と考えるのでは無いでしょうか。しかし、こうした4人に集中する読み方は私たちのある価値観、力学によるのではないだろうか、と感じることがあります。それは、「力ある者」「行動する者」「働きかける者」が優位である、ということによってもたらされるのではないか、ということです。
 聖書においても、わたしたちの日常においても、「行動する側」に注目すること、より大きく力を発揮した側に注目し、力が弱い者、いやされた者はあくまで「受け手」として、価値が低い者として捉えることが多いのではないか、と思います。そういった意味で、中風の人、四人の人に運び込まれてきた人の心には目が行かない。四人の友人たちの行いにイエスは注目し、この病を負った人をいやした、と受け取られることが多いでしょう。

癒やされた人の立場にたって
 中風の人の立場にたって考えてみたいと思います。この人は、中風という病を負っており、体を動かすことが不自由でした。ですから、床に乗せて運んでこられたのでしょう。そして、4人によって屋根の上まで運ばれ、屋根の穴から担架ごと、ヒモによって下ろされる。子どもの頃から絵本などでも昔から慣れ親しんだお話です。しかし、ずっと見落としていたなあ、ということを最近気がつきました。それは、下ろされる、という行為はとっても怖いのではないか、ということです。
 想像してみてください。この病人もこの4人も普通の男性だとして、体重は、それぞれ60キロぐらいから80キロと考えてみます。4人で軽めに考えても、体重60キロの人を屋根の穴から担架に乗せて下ろしていく、というのはとっても大変なことです。4隅をロープで止めて下ろすとしても、結構大変なのではないでしょうか。くだらない話かもしれませんが、どちらかといえば、板のような担架よりは、シーツや布のような形にくるまれた方が怖くないかもしれません。担架や板のようなものであれば、バランスを崩せば真っ逆さまに落ちてしまうかもしれません。
 そういった意味で、この患者もイエスに対するギリシャ語でいうところの「信仰」「ピスティス」、イエスさまは絶対に自分をいやしてくださるという確信を持たなければ、その状況を受け入れることは出来なかったでしょう。そして、そうした怖い状況を受け入れるあり方も能動的な行為であると言えます。そして、もう一つの「ピスティス」が無ければ、実現しなかったのではないか、と思うのです。ギリシャ語の「ピスティス」には、信仰とともに信頼、という意味があります。この中風の人が、この四人への「信頼」「ピスティス」を持っていなければ、このいやしは実現しなかった。また、イエスもこの中風の人と四人との間の「信頼(関係)」「ピスティス」を見て、いやしを行ったのではないでしょうか。

ユダヤ人社会が集約した場において
 また、ここの集まっていた人たちの立場で考えてみたいと思います。例えば、この礼拝に突然、ある人がやってきて、わたしのために祈って下さい、とやってきたとしたら。また、この屋根をはがして入ってきたとしたら、屋根をはがさないまでも、壁を崩してきたらどうでしょうか。誰もが怒りを持つのではないでしょうか。誰もが何らかの違和感、そして嫌悪感を持つのではないでしょうか。
 この物語の一つの狙いとして、教会批判として、そのような対立関係をつくった、という可能性があります。礼拝をしている。誰もがイエスの方を向いて、教え、祝福、いやしを願っている。しかし突然、教会の屋根をはがしたり、壁を壊して、入ってきた人がいた。そして更に、誰にも先んじて、その人が癒やされたとしたら。
 また、違う立場の人もいます。そのいやしが間違っている、という議論を始めた人たちです。もう一度、今日の箇所の冒頭、ルカ福音書5章17節をお読みします。
「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。」
 この家には、ある意味、小さなユダヤ人社会が形成されていた、と言えるでしょう。そして、「ファリサイ派の人々と律法の教師たち」は、イエスがいやしを行った後、21節で、「「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と考え、いやし物語が律法の議論、また神義論、神とはどのような存在であるかという議論という枠付けがなされることとなっています。

立場主義としての律法主義
 私たちは誰でも、様々な集団の中に属しています。そうした状況の中で、自分の意見ではなく、集団の意見を重んじること、心の中で、そうは思っていなくても、その集団の意見を代弁することはないでしょうか。個人としての意見ではなく、集団としての意見を自らの意見として、評価されようといったことです。このようなことは、会社の世界、学校、地域社会(自治会)、幼稚園や学校のお母さんたちの集まり、友だち同士でも、あり得るのでは無いでしょうか。そして人間というものは、そうした関係の中でがんじがらめになっているのかもしれない。そして、イエスの時代においては、律法主義と言いますが、言い換えれば、「立場主義」といえるもので、がんじがらめだったのではないか、と思うのです。たとえば、病気が癒やされるためには神殿に行かなければならない、また、何らかの不幸があったとき、あの人は神を背くことをしたのではないか、神殿にあんまり行っていなかったからではないか、と考えてしまう。また、ただ自分が気に入らなかったという動機から律法を使って、人を裁くということも行っていたかもしれない。自分はずっとイエスのいやしを待っていたのに、なぜあの人から、といった思いから。
 律法学者やファリサイ派の人々は、イエスの態度を問題としました。おそらく律法学者やファリサイ派の人たちにとって、中風の人が癒やされるかどうか、また屋根がはがされたこと、その中風の人たちの友人の行動など問題では無かった。ただイエスの言動が問題だった。自分たちの尺度や自分たちの業界(仲間たち)にとって、イエスの行動や言葉がどのような影響をもたらすのか。とりあえず、良いことは無い、この人はつぶすしかない。だからこそ、神を冒涜する者だ、と攻撃した。もしかしたら、「神を」「神は」と口にする彼らではありましたが、神様の存在などどうでも良かったのかもしれません。

ピスティスとは? —信仰か信頼か—
 そして最後に致しますが、もう一度、今日の箇所ルカによる福音書5章20節をお読みします。
「5:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。」
 「その人たちの信仰をみて」と記されていますが、その言葉はギリシャ語で『ピスティス』という言葉であります。ここでは信仰と訳されておりますが、「信頼」とも訳される言葉です。パウロは、「ピスティス」(信仰)の重要性を様々な手紙で記しています。もっとも知られた言葉として、ローマの信徒への手紙3章28節があげられます。
「人が義とされるのは行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(3:28)。
 そしてこのような理解が広くされています。人は、行いではなく、信仰によって人は評価される、という信仰義認論を述べたもの、と。しかし、最近わたし、そうした説明は間違っているのではないか、と考えています。パウロは、「行為・行い」は自分たち自身で評価できるものだが、信仰は自分自身で評価できないもの、神のみが評価できるものだ、そして、更に人は自らを自分の力で、「義(よし)」とすることは出来ず、ただ神のみが、人を「義(よし)」とする権威があるのだ。また、どれだけの神さまのために働けるかどうか、が問題ではなく、どれだけ神へ信頼を寄せることができるか、どれだけ神に身をゆだねることが出来るのか、が問題なのだ、と考えていたのではないでしょうか。そういった意味で、今日の箇所でも、どれだけ神へ信頼を寄せていたのか、ということをイエスは見ていたのではないか、と感じるのです。

ピスティスとは? —人(ひと)か人間(じんかん)か—
 そして最後に、今日の説教題から「人間のピスティスに基づいて」ですが、一つの読み方は、「『にんげん』の『ピスティス(しんこう)』に基づいて」です。が、もう一つ読み方があります。それは「『じんかん』の『ピスティス(しんらい)』に基づいて」であります。
人間という言葉、もともとは、人そのものを指したわけでは無く、現代でいうところの「世間」「人の世」「世の中」を指す言葉であったそうですが、江戸時代以降、人そのものを指すようになったそうです。その名残ですがことわざの「人間(じんかん)万事塞翁が馬」の冒頭は「人間(じんかん)」と読みます。また、部落差別の人間宣言というものがあり、そのスローガンとして、「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」というものがあります。(1922〔大正11〕、水平社宣言)
 先ほど、律法主義は「立場主義」である、ということも述べさせて頂きました。立場主義にしろ律法主義にしろ、多くの場合、自らの立場を守るためのもの、誰かを攻撃するためのものとして使われることが多いと思います。3.11の東日本大震災によって起こった原子力発電所の事故、甚大な放射能汚染をもたらし、今現在も汚染水を垂れ流しているという状況があります。しかし、原子力行政を進めた政治家にしても学者さんたちにしても、事故直後は「ただちに人体に影響はありません」という言葉によって、事故が起こった責任の本質から目を背け、まるで自然現象によって事故が起こったかのようにのたまい、今現在も福島県内やその近辺に居住する子どもたちの「甲状腺ガン」の増加について、「原子力発電所の事故がその原因だと特定できる客観的データはない」と言った言葉をはきます。誰のための言葉でしょうか?自らの立場を守るためだけの言葉であり、その被害に実際に苦しんでいる人に寄りそう気持ちなど、まったく感じることが出来ません。今日の箇所の律法学者やファリサイ派の人々の態度に重なります。そうした立場主義とまったく逆の立場に立つあり方が、その人の存在自体、苦しみ自体に寄り添い、隣人として「信頼」を寄せるあり方ではないでしょうか。
 今日の箇所の最後、イエスに「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(5:24)と述べられ、癒やされた人は、「皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った」(5:25)そうです。その家の中には、神にもっとも近いと思い集ったファリサイ派の人々、律法学者の人々、が全ユダヤから集まっており、そこには当時のユダヤ人社会が凝縮された形で存在していたのでしょう。しかし、病を癒やされたその人は、その人たちに交わるのではなく、神を賛美して、自らの家へと帰っていきました。そこには彼の存在、彼の痛みに思いを寄せる人がいなかったのでしょう。彼のような存在に寄り添うことができる信仰が与えられれば、と願っています。

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 T教会で行われた食事会でのミニお好み焼き

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