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「共感共苦共同体」(ローマ12:9-21)

2016.02.14(18:50) 307

『共感共苦共同体』
(2016/2/14)
ローマの信徒への手紙 12章9~21節

エロス・フィレオー・アガペー
 キリスト教において「愛」という概念は特別な意味があると思えます。そして、よくこのような説明をされることがあります。新約聖書が書かれている言語であるギリシャ語、そのギリシャ語において「愛・愛する」を意味する言葉として、「エロス」と「フィレオー」と「アガペー」があります。そして、「エロス」は男女の愛、「フィレオー」は一般的な人間の愛、「アガペー」が神の愛である、と多くの場合、説明され、聞いてきたのではないか、と思います。
 しかし、まったく違う視点を与えられる説を聞いたことがあります。それは大阪にあります釜ヶ崎において野宿者の支援のための活動されている本田哲郎神父の講演によってでした。神父は現在日本のキリスト教会において広く使われている新共同訳聖書の翻訳にも関わっておられ、その彼の講演を聞きに行った時です。本田神父はこのような説明をされました。
「愛には三種類があり、エロスが性愛、フィレオーが友愛、アガペーが神の愛、という説明がされる。しかし、それは間違っているのではないか、と考えている。このような分け方が正しいのでは無いだろうか。「エロス」とは「家族愛」(秩序)、「フィレオー」は「友情」、「アガペー」は「人を一人の人として大切にすること」と考えられる。」
 日本語における「愛」という言葉は、キリスト教が入って「愛」という言葉を広げる以前の「愛」は、男女間の愛、好色(色を好む)、「強い欲望」など、どちらかと言えば、否定的な感情として、捉えられてきました。
しかし、キリスト教における「愛」の観念が入ってきますと、このように変わってきました。これは広辞苑における愛の説明の箇所です。
 『愛』「キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと」
また、ついでにアガペーという項目もありましたので、そこも紹介したいと思います。
『アガペー』「神の愛。神が罪人たる人間に対して一方的に恩寵を与える自己犠牲的な行為で、キリストの愛として新約聖書に現われた思想」。
広辞苑において「愛」と「アガペー」に共通し、神の愛の特徴として、現われるのは、「一方的にあたられる」「見返りを求めない」「(自らを)犠牲として」ということです。これらのことがキリスト教で語られる「愛」である、と言えます。

パウロの活動の二つの柱
 今日のテキストは、パウロの書簡を選びました。その中でも、わたしが特に心惹かれる言葉は、12章15節です。
「12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」。
この手紙を記したパウロ、ローマ帝国に数多くの教会を建て、私たちが目にすることの出来る教会の記録、手紙として新約聖書に数多くの書簡が収められている使徒であります。パウロの活動は、二つの柱があったと説明できます。一つ目は、教会を建て、主イエスを「救い主」として、「キリスト」を神の子と信ずる人々を広げること、「宣教」「伝道」と言われることです。そしてもう一つは、数多くの教会の間をつなげる活動であり、それは貧しい教会のために献金を集める活動であり、現代において当てはめれば、様々な献金活動、経済的な支援活動がそれに当てはまるでしょう。
 パウロはエルサレムにある教会を支えようとして多くの教会で献金を集める活動をしていました。エルサレムにある教会は、イエスの直接の弟子がいた教会です。しかし、とても貧しい状況であり、その教会に献金を送る活動をしておりました。そして、エルサレムと他の教会だけでなく、横のつながり、様々な人の往来をさせること、弟子たちを派遣したりもしていますが、それらもそうした活動に一つでありますが、多くの都市に立つ教会を「一つの教会であること」を示していくこと、証していくための活動をしていた、ということです。

パウロの思い
 パウロは、コリント教会に送ったコリントの信徒の手紙Ⅰにおいても、同じような言葉を記しています。Ⅰコリント書12章26節。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(P.316)
 第一コリント書は、パウロが教会の中に様々な違い(階級や宗教的信仰心)によって、分裂状態であったコリント教会の人々が和解へ向かうために記したものです。そして、この箇所自体は、教会とは、キリストの身体である、ということ。そして、そこに集う人々は、いわば一つ一つの身体の部分である、ということをのべ、さらに13章13節には、このような言葉があります。「13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
 宣教者として、多くのキリスト教会を起こし、牧会者として、手紙を用いて、教会を良き方向へと導きました。パウロが記した手紙は、それぞれの教会が持っていた課題や問題でありました。また、今日の箇所のローマの信徒への手紙は、訪ねたことがないローマの教会に対するパウロの信仰の自己紹介と言える内容です。しかし、共通するテーマがあると思えるのです。それは、今日の説教題にもしました「共感共苦」、ロマ書12章15節の言葉「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」ではないか、と感じています。

共感共苦
 教会という場所は、キリスト教に基づいて立てられた場所であります。誰もがそれぞれのキリスト教信仰、またキリスト教、教会に対する思い、期待に基づいて人々は集っています。しかし、信仰心は現れ方が異なるように、1人1人、違いがあり、時に同じキリスト者であっても、クリスチャンであっても、同じ教会の仲間であっても敵対してしまったり、憎み合ってしまうことがあります。
 憎み合う関係とは、どのような関係でしょうか?自分とは価値観、考え方が違う人。また、曖昧なものですが、性に合わない、という人もいます。そして、仲間や友だちであれば、パウロの言葉のようにその人の「喜びを共に喜び」、その人の悲しみを「共に泣く」も関係のこととなります。しかし、敵対する関係というのは、どんな関係か、と言えば、その逆になります。その敵対者の「喜び」を憎み、その敵対者の「悲しみ」を喜ぶ関係のことではないでしょうか。
 パウロは、教会の中にあるそうした状態、教会の間にあるそうした状態を嘆いていました。たとえば、日本基督教団の中にも、いろいろな信仰の形や考え方があって、なかなか合意が見いだせない課題や、お互いにここは許せないということもあったりします。また、それは教会内に限らず、多かれ少なかれ、あり得ることで誰もが、歩み寄りながら、その日々を過ごしていくものです。人の多くが悩んでいることといえば、人間関係のことではないかなあ、と思います。
 ただ、教会の中、またキリスト者同士において、こういうことは言えないでしょうか。教会において、怖いなあ、と思うことは、教会なり信仰の名の下において、違う考え方の存在、隣人を裁いてしまってはいないだろうか、ということです。

教会の歩むべき道として
 パウロは、コリントやガラテヤの教会に起きていた問題、そしてローマの教会において、起こっていた問題は現代の教会にも起こりうる問題です。考え方や立ち場の違いによっても起こりうるでしょう。パウロの時代は、教派やカトリック、東方教会、プロテスタント教会といった違いもありませんでした。ですから、現代においてその違いを乗り越えていくことは困難なことと言わざるを得ないかもしれません。
 また、愛といっても、最近では、夫婦の間におけるDVや子どもに対する暴力も課題になります。夫婦の間であれば、思っているからこそ、執着だったり強制が起こってしまう。それは愛ではなく、単なる支配ではないだろうか。また親が子どもに対して、「しつけ」のためとして一方的な暴力やネグレクト(無視や不干渉)が肯定されたりしないでしょうか。信仰も同じ過ちを起こしてしまうかもしれません。
 最初に、本田神父が紹介しました「愛・アガペー」の意味として、「一人の人として大切にすること」という意味を紹介しました。パウロは、そんな思いを持って、コリント教会やガラテヤの教会、そしてローマの教会といった多くの教会、多くのキリスト者に対して、手紙を記したのではないか、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という言葉を編んだのではないか、と感じます。またパウロは、1コリント書13章の「愛の賛歌」において、「愛の無い信仰は無に等しい」(1K13:2)といったことを述べております。
 「共感共苦」という言葉は、ただ人の思いに寄り添うだけでなく、共に苦しむ、という内容を含んでいます。そして、自分とは違う価値観や信仰をもった存在であっても、それは可能かといえば、難しいことかもしれません。しかし、実は、そうした葛藤が、教会という場でなすことであり、宣教活動、伝道活動とは、そうした愛の実践の積み重ねと言えるのではないでしょうか。イエスは、二つの戒めとして「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を進めました。
 もっとも簡単な「隣人愛」の実現の方法とは、その隣人の「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」ことではないでしょうか。私たちはそれぞれの経験や能力といった個性を持っています。その個性をもって、主なる神を信仰しています。しかし、それだけでは隣人への視点がかけてしまっている、と言えます。私たちの毎日とは、新たな隣人との出会いの連続、隣人の新しい側面の発見の日々と言えるかもしれません。

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