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「奇跡が起こった場所」(マルコ6:30−44)

2016.02.07(21:50) 306

『奇跡が起こった場所』
(2016/2/7)
マルコによる福音書 6章30~44節

イエスと弟子たちの活動
 今日の箇所、6章の6節に始まる弟子たちを宣教に派遣する箇所があり、その宣教の業から、弟子たちが帰ってきた場面より始まります。弟子たちは、イエスに自分たちがしたこと、教えたことを報告しました。イエスは、そんな弟子たちに対して、「人里離れたところで休みなさい」と言っています。おそらく、その弟子たちの顔色を見て、とても疲れていたことを感じ、そのようなことを命じたのでしょう。当然といえば、当然でしょう。弟子たちも、イエスについてきて、様々な教えを聞き、またイエスの行ったことを見ていたでしょうから、ある程度のことは、イエスの真似といえば、真似ですが、神の国の教えをのべ、奇蹟を行ったのかもしれません。しかし、初めてのことはなんでも緊張するもの、疲れを感じるものです。そのような状況を見て、イエスは弟子たちに休むよう、促したのでしょう。
 しかし、そんなところに大勢の人が押し寄せてきました。33節をお読みします。
「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に付いた。」
 ここに集まってきた人々は、イエスのお話なり何かを求めて集まってきたことが表現されている、と言えます。ここでまず考えてみたいのはこの人々がイエスに何を求めていたのか、ということです。このお話の結論である「食事」でしょうか。また「教え」でしょうか。実は、なかなか難しい問いであると思います。

集まってきた群衆の思い
 結果的にイエスの力に基づいて、満腹したのですから、彼らはお腹をすかせていたことは間違いないと思います。しかしイエスのところに集まってきた理由というのは、人それぞれであったと思われます。たとえば現代日本においても、様々な理由に基づいて、老若男女が将来について不安を抱えている状態があると思いますが、それぞれの直接的な理由、健康的な不安とか、経済的な不安とか、何らかの危険や戦争といったものに対する不安だとしても、その根本の原因が一つかもしれないという状況があります。
 同じように、当時の人々もそれぞれ違った形の不安を持っていたとしても、何らかの一つの原因によって、それらの不安が生み出されていたのかもしれません。そうした有り様が、おそらく、これらの人々を「飼い主のいない羊」という表現につながったと考えることが出来ます。また、たとえば「平和」が欲しいとは思っていたでしょうが、まさしく飼い主のいない羊が何処に行けばいいのか、どこに進めばいいのか、わからない状態、何をすればいいのか、また、どうすれば自分たちの状態が少しでも良くなるのか、わからない状態にあっただと思います。
 何をすれば自分たちが「幸せ」になれるか、また、どうすれば、「平和」に暮らせることができるか、ということが見えない。まったく希望がないのです。そうした状況をイエスのお話を求めて、そこに集まってきたのでしょう。そうした人々が集まってきたので、イエスも弟子たちも疲れていたでしょうが、話を始めました。そして、時間がたち、弟子たちが心配して、「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べ物を買いに行くでしょう。」弟子たちはこう考えていたのではないでしょうか。食べ物を与えることは自分たちの役目ではない、と。
 イエスの教えが人々の間に広がるように配慮すること、この場合は集まった人々に話しが伝わりやすいように、人々を静粛にさせたり、人々の座る場所は立つ場所を配慮したりしていたでしょう。しかし、ご飯を準備することは自分たちの役割では無い、と。また、奇蹟や病人の世話をすることは自分たちの役目だとは思っていたかもしれません。しかし、食事は違う問題だ。また、パンを用意するために「200デナリオン」必要であったと記されていますが、1デナリオンは丸一日働いた日当分と計算されますから200日分働いた賃金を払えるわけがない、ということがあったでしょう。

弟子たちの意識
 おそらく、群衆はご飯を食べにイエスのところに来たのでは無いでしょう。たしかに、空腹であったかもしれません。喉も渇いていたかもしれません。しかし、何よりも求めていたのは、生きていくための「希望」「道」を求めて、「渇き」を感じていたのでは無いでしょうか。しかし、弟子たちは、群衆に対して、どこか信頼を寄せていなかったと考えられることは出来ないでしょうか。
ある意味、生きる上での「希望」や「道」を求めるということは、とても知的な作業と言えます。弟子たちは、集まってきた人たちをある意味、見くびり、また見下していたのではないでしょうか。そして、イエスによって「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(6:37)と言われ、自らの手元に五つのパンと2匹の魚しか無い、ということから奇跡的な出来事でしか、この人たちを食べさせることは出来ない。そんなことは出来るわけがない。そんなことが出来るとしたら奇蹟だ、と弟子たちも他の人たちも考えたのではないでしょうか。また読者である人々、キリスト者、私たちも奇蹟として捉えるでしょう。

奇蹟は「場」に起こった
 五つのパンと二匹の魚で5000人もの人々が満腹するなどあり得ない話であります。どんなに小食の人が集まったとしてもせいぜい5人の人が満腹するぐらいの食料なわけであります。しかし、次のように考えてみますと本来起こらないような奇蹟が起こったと言えるのではないかなと思います。6章41節をお読みします。「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。」(6:41)。
 イエスが手に持ったパンと魚が、手品師が物を増やすように増えたのでしょうか。もしくはパンと魚が細胞分裂のように分かれ始めたのでしょうか。そんなことが起こったら、まさしく奇蹟と言えます。39節で「イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった」とあります。集まった人々は「100人、50人ずつまとまって腰を下ろ」し、イエスが裂いたパンと魚を受け取りました。
 それぞれの場所に座っている人たち、悩んだと思います。五つのパンと二匹の魚で5,000人の人々が満足するなどとても不可能です。しかし100人か50人ずつのグループになったら、満足することが出来るでしょうか。計算してみると、100人のグループが30個、また50人のグループが40個あると、5,000人になります。グループの数としては、70になります。5つのパンと2匹の魚を5000に分けることは難しいかもしれませんが、70だったら分けられるのでは無いでしょうか。まあ、それでもとてもわずかな量でしかなく、ほんの一欠片ずつ、パンと魚が分けられた。小さな欠片でしょう。みんなが満腹するなどあり得ません。しかし、ここで、ある奇蹟が起こったのではないでしょうか。グループのひとりの人が懷から自分のためだけに隠してあったパンを出して、「みんなで食べよう」と言い出した。そのようにして一つのグループで、食事が始まりました。するとそれを隣で見ていたある人も自分が持っていたパンを出してみんなで分け合い食べ出しました。そして、そういったことが全グループに広がっていったのではないでしょうか。ある人は自分たちのグループで残ったパンや魚を隣にグループの人に分けたでしょう。また、ある人はそうして分け合ったパンや魚をまた足りなさそうなグループに持っていったりしたでしょう。
 そうしたことが、イエスの勧めによって、パンと魚を裂いて、分け与えたことによって、起こったのではないでしょうか。イエスがイエスの所に集まってきた人々に与えたのはそういったことを起こさせる心の動き・切っ掛けであり、それは奇蹟といっても過言ではない出来事だったではないでしょうか。このお話ついつい、イエスの神的な力によって、魚とパンが増える奇蹟が起こったと受け取りがちであります。が、そうではなく、100人や50人が集まった場、人々の間において、イエスの促しによって、それぞれの人の心に奇蹟が起こったのだ、と言えないでしょうか。

宣教のモデルとして
 弟子たちは、この出来事をどのように受け取ったでしょうか?また、私たちはこの物語をどのように受け取るべきでしょうか?イエスの奇蹟物語として読まれることが多いお話です。しかし、この物語を、宣教のモデルとして捉えることは出来ないでしょうか?教の箇所の冒頭、弟子たちは、イエスのところに来て、自分たちの「行ったことや教えたこと」(6:30)を報告した、とあります。何を報告したかと言えば、6章6節からの箇所において、弟子たちは宣教のたびに、二人ずつ派遣されています。その結果を報告しに、30節において、戻ってきたわけです。
 そんな始まりのこの逸話、奇蹟物語ではなく、イエスが弟子たちに対して、神の国をどのように伝えるべきか、という教会的にいうところの伝道方策、宣教の方法を教えようとした物語と考えることは出来ないでしょうか。イエスが大切にしたもの、隣人愛、「隣人を自分のように愛せ」(ルカ10:27)、また「敵を愛せ」(マタイ5:43)という命令です。しかし、いきなり5000人を愛せ、と言われたら、どうでしょうか?最初からのハードルの大きさに誰もが恐れをなしてしまう、またそんなの不可能だ、と考えます。しかし、100人だったら、50人だったら、どうでしょうか?また、あの場において、いきなり100人、50人でなくとも、隣の人だったら愛することが出来るかもしれない。

福音の実現した場として
 そしてさらに、この逸話を、宣教モデル、宣教方針として、考えてみますと、いろいろなとらえ方が出来ます。100名とか50名とかのグループを、一つ一つの教会と考えてみたらどうでしょうか?顔と顔が見える関係として、100名ぐらいが限界ではないか、と思いますが、隣人愛の実現する場として、イエスはそのぐらいの人数を考えていたのかもしれません。また、現代的な課題に引き寄せて考えてみることも出来ます。平和の問題、いきなり5000名、世界の平和のこととして、考えてしまうと難しいかもしれませんが、その50分の1、100分の1の人数から考えてみる。国よりは、県や市、さらに小さい町のレベルで、平和を考えてみる。また、格差の問題でもそうかもしれません。身近な問題として考えてみる。自分たちの足下にある格差や貧困の問題。東京の山谷、大阪の釜が崎とか遠い場所ではなく、身近なところから考えてみる。
 弟子たちは、宣教の場を出かけていくところ、また何かをしてあげること、と考えていたのではないでしょうか。ですから、食べ物がない、というところから、食べ物が足りない、それを増やすことが奇蹟と考えてしまう。しかし、持っている物を分け合うという視点、上と下という関係ではなく横の関係、一本の線ではなく丸の関係というあり方をイエスは求めていたのかもしれません。そして、それは私たち今を生きるキリスト者においても、求められている姿勢ではないでしょうか?この五つのパンと二匹の魚の逸話において、奇蹟はどこに起こったのでしょうか?パンと魚にでもなく、一人一人の心の中でもなく、人と人の関係に奇跡がおこったのだ、と言えないでしょうか。そして、それこそがイエスが求めた「神の国」の広がりと言えるのではないでしょうか。

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