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Xmasメッセージ「赤子は飼い葉桶に寝かされた」(ルカ2;1-7)

2015.12.24(22:30) 304

『赤子は飼い葉桶に寝かされた』
(2015/12/24)
ルカによる福音書 2章1~7節

イエスの生まれた場所
 イエスの生まれた場所とは、どこでしょうか?日本においては、当たり前のように、「馬小屋」と誰もが答えるのではないでしょうか。幼稚園や保育園、そして教会における降誕劇には、登場人物としては、生まれたばかりのイエス、マリアとヨセフ、三人の博士と羊飼いたち、羊そしてロバや牛などの動物たち、そして天使などが登場人物として現われるでしょう。そして、場所はどこ?と問われれば、「馬小屋」と誰もが答えるのではないでしょうか。しかし、ヨーロッパやイエスが生まれたとされているベツレヘムに行ってみますと、少し様子が違うことがあります。
 あのモナ・リザを描いたことで有名な画家レオナルド・ダ・ビンチが描いた「岩窟の聖母」という作品では、文字通り岩穴の中にたたずむ誕生直後のイエスとマリアが描かれています。15世紀の作品なのですが、当時のヨーロッパ世界において、イエスは木で建てられた馬小屋ではなく、岩穴で生まれた、と広く考えられていた印である、と言えます。〔『ヤコブ原福音書』(福音書に先行する物語)〕
 しかし、なぜこのような違いが出てくるのか、と言えば、もともと、クリスマス・イブのこの日に読まれる聖書(福音書)の中に、たしかにイエスさまは誕生したとき、「飼い葉桶」に寝かされたのですが、その飼い葉桶がどこにあったのか、ヨセフとマリアがどこに泊まったというのは、記されていないのです。確かに文脈上、どこにも泊まる場所がなく、「飼い葉桶」がある場所に泊まっていたのですから、「馬小屋」というのは当たり前のことかもしれません。しかし、昔からそう考えられていたわけではなかったのです。

プレゼピオ(Presepio)とフランチェスコ
日本においては、イエスは馬小屋に生まれた、というようにほとんどの人が思っていることでしょう。が、この置物のように洞窟の中で産まれた、と考えられている地域もあるのです。そして、いろいろ調べてみましたら、この「イエス様は洞窟で生まれた」というお話の始まりには、中世ヨーロッパのイタリアで活躍した「アッシジのフランシスコ」という司祭の思いがあったことを知りましたので紹介したいと思います。彼はもともと、大変裕福な商人の家に生まれたのですが、すべてを捨てて修道士になり、現在も続くカトリック教会の「フランシスコ修道会」を作った人であります。
 その彼が1223年イタリア中部の町グレッチョで、イエスが人の泊まる宿屋ではなく、周囲の人々からないがしろにされ、最も貧しい者として、生まれたことに思いを巡らせて、洞窟でクリスマスを祝ったそうです。生きた牡牛やロバ、敷きワラを用意し、飼い葉桶を祭壇として、洞窟で祝ったそうです。現在では広く世界中でヨセフとマリアとイエスの人形を飾ることが行われ、それをイタリア語では「プレゼピオ」、英語では「クリスマス・クリッペ」と言いますが、その起源は、このフランシスコの出来事でした。
 なぜフランシスコは、わざわざ洞窟へ行き、イエスの誕生を祝ったのか、と言えば、イエスの生まれた場所の「貧しさを示すため」でありました。町の中にある大きな教会の中で、盛大に祝われるクリスマスの中にイエスは生まれたわけではない、何もかも用意された町にイエスは生まれたわけではない。雄牛や山羊、羊飼いがいるような人気のない寂しいところ、貧しいところ、人も寄りつかない洞窟で産まれたのだ、というのがフランシスコの思いでした。
 キリスト教の伝統、とくにプロテスタント教会の伝統において、クリスマスの飾り付けやページェントは、とても珍しい、奇異な位置にある行事です。なぜなら、このように飾り付けをすることは、偶像礼拝に繋がること、として、キリスト教会、特にプロテスタント教会においては、嫌われる事柄であるからです。カトリック教会などでは絵や像が崇拝の対象ではありませんが、信仰においては大切なものとして造られる伝統があります。しかしプロテスタント教会においては、絵であっても、像であっても日本の多くの教会においては、積極的に飾られることはない、と思いますが、クリスマスだけは例外なのです。そして、共通していることとして、言えるのではイエスが生まれた場所が、馬小屋であったにしろ、洞窟であったにしろ、飼い葉桶だけは欠かせない存在として描かれている、準備されているということです。

マリアとヨセフの思い
 小さな生命(いのち)が誕生するとき、親にしろ、周囲にいる人々は、その赤ん坊(生命)に最高の物を準備してあげようと思うのではないでしょうか。しかし世界で最初のクリスマスの夜、旅の途中であったヨセフとマリアが準備できたのは、「飼い葉桶」だけでした。ヨセフとマリアがどのような場所で生んだにしろ、自分たちに与えられている状況の中で最高のものをイエスに与えたかったと思います。
 旅の途中、場所はどこかわかりません。泊まるところもなく、追いやられ、苦しい状況の中での出産であったでしょう。ベッドもなく、イエスさまをくるむ布にも困ったかもしれません。しかし、そのような状況であったにしろ、精一杯の思いやりを持って、誕生したばかりのイエスさまを「飼い葉桶」に藁を敷いて寝かせたと思います。様々なモノが揃っていながら、あえて「飼い葉桶」に寝かせたのであれば、どんな親か、と攻められるかも知れません。ですが、最初のクリスマスの夜、マリアとヨセフは、精一杯の愛を込めて、「飼い葉桶」を準備しました。その気持ちを誰が攻めることができるでしょうか。

神の意志の現れ方
 私たちの生きる社会、現代は、物質にあふれ、「豊かな」ものにしろ、「貧しい」ものにしろ、選択にあふれています。赤ん坊の着る衣服にしても、高価なものから安価なものまで選択にあふれています。しかし、「高価」なものだから、親の気持ちは本物だ、といいうことは言えません。その逆も言えることでしょう。たとえ「安価」なのものであっても、とても心のこもった物であることもあります。なぜ、イエスは「飼い葉桶」に生まれたのでしょうか。それは私たちに、人を思いやる気持ちの大切さを示すためではないでしょうか。私たちは、愛や思いやり、またあらゆるものの「価値」を測りたがるものです。
 私たちは誰もが、この世に様々な思いやり、愛を受けて、この世に生まれてきました。その愛のあり方、形に価値をつけることはできるでしょうか。人の生命や思いに値段がつけられません。そういった意味において、現代の有り様はどんどん、変わってきているのではないでしょうか。どんどん余裕が無くなっていく世の中において、人と人の間に線が引かれることが多い世の中において、物の見方や価値もどんどん固定化していってはいないでしょうか。そうしたことによって見失っていることがあるかもしれません。
 マリアとヨセフがイエスのために準備した飼い葉桶に値段はつけられません。イエスさまの誕生は、神さまがこの世に救いをもたらすために、与えられたプレゼントです。私たちも人からいただいたプレゼントを、これはいくらだから?気持ちがない、とか、気持ちがとってもこもっている、ということを考えてはいないでしょうか。また、誰かにプレゼントをもらったとして、この人の気持ちはうれしいけど、あの人の気持ちは要らないと気持ちを区別することはないでしょうか。クリスマスという出来事は、このように、あらゆる尺度でも、はかることにできない人の思いやりというものの大切さを、私たちが思い出すために与えられた神さまからのプレゼントかもしれない、と感じています。そしてそうした気持ちや思いの積み重ねが私たち一人一人の幸せや、世界の平和につながっていくことなのだ、ということを示してくださっているのではないでしょうか。


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※ このクリスマス・クラッペは、時々よせてもらっている東海教会のものです

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