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切り株から新しい芽が/イザヤ11:1-5

2015.06.22(20:57) 291

切り株から新しい芽が(イザヤ11:1-5)
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」(イザヤ11:1-2)
 「エッサイの株」というのは、大木が切り倒された後に、再び若枝が育ってくるというのですが、過去のつながりはどの程度、あるのだろうか。同じ株から出たのだから、同じ血脈からという受け取り方が自然であろう。
 先日、NTV特集の「小さな命のバトン」という番組を見た。熊本県にある慈恵病院という病院のお話でした。全国的には、「赤ちゃんポスト」を始めた病院として知られている。赤ちゃんポストを始めたことからか、数多くの望まれない妊娠をしてしまった女性たちの相談を受けるようになり、そのことを扱っていた。若すぎる妊娠や経済的な理由から育てることが出来ないという妊娠、そして生まれてくる子どもたちの生活の相談。
 そうした流れから、出産直後に新しい家族への子どもを預けるという活動が始まったのか、そうした活動から、「新生児特別養子縁組み」「赤ちゃん縁組」という働きが始まり、そのドキュメントであった。そして、これまで200組ほどの実績があるという話であった。
 新しく里親になる夫婦の多くは、それまで子どもを望みながらも与えられなかったカップル。病院が開く学習会などに通います。そして、あらかじめ組み合わせが決められた妊婦の陣痛が始まると連絡があり、病院へ駆けつけ、新しい生命の誕生を待ちます。ちなみに妊婦さんと、新しい生命の両親となる人は顔を合わせることがありません。
 番組の中である子どもの誕生が追いかけられていた。おぎゃーと赤ちゃんが誕生し、すぐに新しいお母さんのところへ、赤ちゃんが運ばれてきた。新しいお母さんも自らの子ども(養子)となる子どもの誕生ですから、妊婦さんが着るような服を着ています。そして子どもの誕生を喜び、涙します。そして、その子を産んだ母親は、その話を聞き、また涙したそうです。その2つの涙の意味は、同じでは無い。しかし、涙によって繋がることがあるのではないか、ということを考えさせられた。そして、この聖書の箇所における若枝のことを考えさせられた。断ち切られた木から若枝が育つ、というが、キリスト教の土壌でいえば信仰的につながること、ユダヤ民族的にいえば、血脈などを超えて繋がることを示しているのではなかろうか、と思わされた。更に言えば、民族も宗教も、「記憶」を共有するという点においては、共通するのでは無かろうか。

「11:4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。」
 先の例で、「産んだ」母親と「育てる」母親が「涙」で繋がるように、思いが違ったとしても、人の持つ「弱さ」によってこそのみ、民族や宗教を超えることができるのではなかろうか。申命記7章7節には、このような言葉がある。
「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」
 「エッサイの株」から出てくる「若枝」に示されていることは、ただ断ち切られたものが繋がる、ということではなく、切り落とされた「痛み」によって神は救いを示すということではないだろうか。「強さ」ばかりが求められる時代である。その「強さ」に乗っていけなければ、疎外が起こり、分裂となる。そんな疎外や分裂を乗り越える働きとして「弱さ」があると感じる。

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