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『痛みを神の招きとして』ヨハネ福音書9:1-5

2015.03.23(21:08) 288

『痛みを神の招きとして』
(2015/3/22)
ヨハネによる福音書 9章1~5節

信仰と神義論

 信仰生活とは何なのか?様々な形で考えさせられることがあります。例えば、聖書研究会においても、テーマにしましたが、神さまがこの世に存在するのであれば、その神さまを信仰する人には、苦しみなどないのではないか?祈りが聞かれないとするのであれば、その神さまの存在には意味がないのではないか?何故、信仰深い人や正しい人が病気や様々な不幸によって苦しまなければならないのか?
 これらの問いについて、誰もが一度は考えたことがあるのではないでしょうか。また、信仰を持つにしても、持たないにしても、同じであれば、わざわざ忙しい毎日なのに、貴重な休みの時である日曜日の朝に時間を作って、教会に行って、礼拝に出るなどというめんどくさいことはしなくても良いのではないか?さらに当番、さらに役員、そんなことをやっているより、のんびり家でソファにでも腰掛けて、テレビドラマで格好いい俳優の顔でも拝んでいる方が、教会で長々とした説教というお話を聞いているよりマシと考えるひともいるでしょう。
 また、こんなことも言えます。キリスト教の神さまは、愛の神さまと言われている。そして、ですからイエスさまが罪人を訪ねたこと、また罪人と呼ばれた人々と一緒に食事をしたりしたことから、考えてみたら、礼拝に行くとか行かないとか、洗礼を受けるとか受けないとか、そうしたことで神さまは差別しないのではないか。だったら、礼拝に行くよりは、家でのんびりしていた方が良い…。
 こうした問いのことを神義論と言い、旧約聖書が記された古代イスラエルの時代から、このような問いが常に行われていたことがその内容から理解することが出来ます。例えば、コヘレトの言葉1章2節3節。(P.1034)「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。/太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。」
口語訳聖書においてはこのように訳されていました。「…空の空、空の空、いっさいは空である。/日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」(伝道の書1:2-3)
 コヘレトの言葉には、他にも、良いこととしたとしても、何も変わらないのであれば、生きる上で何の意味があるのか。また、悪人たちがとっても幸せそうに暮らしているのではないか。神さまは本当にいるのだろうか。また、そうした不義、理不尽を赦す神さまであれば、神さまとしての意味があるのだろうか。また、ヨブ記に記されておりますヨブと友人たちとの対話、サタンの試みによって、不幸が訪れたヨブに対して、友人たちは、「何か罪を働いたのではないか?」と、ひたすらにヨブに対して厳しく問いかけます。さらに詩編や箴言もそうした詩や言葉に溢れています。

痛みと信仰
 もう一度、ヨハネによる福音書9章1節から3節をお読みします。(P.184)
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
先週の礼拝説教で、クイズにしましたが、今日の聖書の箇所。どちらが好きか、と言えば今日の箇所、現在、私が一番嫌いな聖書の箇所であります。ある人が病気になりました。そして、それは生まれつき目が見えない、という病いです。しかし、それはイエスさまがやってきて、「神の業」が現れるため、「神の奇跡」が現れるための病いでした。そして、神さまの計画通りに、イエスさまがこの人のところにやってきて、この人は癒されました。良かった。やっぱり神さまは本当の神さまで、イエスさまは本当に神さまの子どもだった、と。喜べるだろうか、というのが、この箇所に対する私の一つの疑問です。

契約信仰と創造信仰の間で
 神学的に言って、この箇所を論述しますと、様々なことが言えます。一つは、信仰するという行為は、その人が持っている民族や血統や家族といった関係ではなく、一人の人と神との関係が問題なのだ、ということを、この箇所は明らかにしています。
 旧約聖書のエゼキエル書18章1節から3節には、このような箇所があります。(P.1321)
「主の言葉がわたしに臨んだ。「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酢いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。」
 いわゆるイスラエルの民、イスラエル民族と神さまの関係は、民族と神との契約であり、信仰的には、神と民との契約における信仰、また宗教の形としては民族宗教ということが出来ます。この箇所は、そうした宗教のあり方、信仰のあり方を乗り越えている、と言えます。
 また、こういうことも言えます。創世記の始めに記されているように、この世にあるものすべて、この世に生きる者すべてを主なる神が創造し、この世のすべてを神さま人の歩みにおける始まりから終わりまで、すべてが主なる神の意志によって動かされているとする信仰のあり方。こうした信仰の形を創造信仰と言いますが、すべてが神の支配の中にあるのであれば、どんな苦難の中にあっても、不安があっても、安心できる、でしょうか。

聖書における空白・信仰における空白
 今日の箇所が、嫌いな理由ですが、誰でも信仰に至るには、それなりの葛藤があると思うのです。が、この箇所には、そうしたことが書かれていない、ということが嫌いな理由です。そんなに単純なものだろうか。また、たとえ神さまご自身であったとしても、イエスさま自身に言われたとしても、それは踏み込みすぎではないか、というように感じるからです。その間には、誰にも触れることが出来ないような何かがあるはずです。それを、そんなに簡単に言ってしまっていいだろうか、ということです。信仰に至るには、また洗礼を受けたりすること、自覚的に教会に通うという歩みに至るには、誰もが言葉に表すことが出来ない時を過ごすことがあるのではないでしょうか。
 例えば、聖書でも考えてみれば、そうした信仰的な確信に触れるような事柄、中心的な事柄は、空白が多いように思います。このようなことを聞いたことがあるでしょうか。旧約聖書は、イエス・キリストの前ぶれの書であり、新約聖書はイエス・キリストがこの世を歩んだ記録集である、と。言い換えますと、旧約聖書はイエスの前、新約聖書はイエスの後である。そうしますと、旧約聖書と新約聖書の間にイエスさまはいることになる。で、聖書を開いてみますと、旧約聖書と新約聖書の間には、真っ白なページが1枚挟まっている。これがイエスさまだという事ができるかもしれません。またその一枚のページこそが信仰の難しさを示していると言えないでしょうか。

痛みを神の招きとして
 聖書の中には、イエスに付き従っていった弟子たち、またイエスの教えに導かれて、信仰の道に至った人々、イエスに病いを癒されてイエスを神の子として証した人々、様々な人が記されております。が、信仰に至ったのには、誰にしても、現すことが出来ない空白の部分があるのではないか、と思うのです。わたし自身も、先ほどのような数々の問いにおいて、答えが出たわけではありません。しかし、聖書において記されているイエスの歩みに従いたいと思い、洗礼を受け、また牧師として歩む意志を与えられたわけです。しかし、今でも、神さまに対しては、疑問と確信の間にいるように思います。そして、信仰を持つ、というあり方は、それで良いのではないか、と感じています。
 信仰のあり方として、疑問と確信には違いがあるように思ってはいないでしょうか。自らに起こる様々な出来事を完全に神さまの意志によるものとする信仰のあり方と、主なる神に対して様々な疑問を投げかける信仰のあり方。違うようには考えていないでしょうか?また、神に対して疑問を持つあり方は、不信仰である、という考え方をしてはいないでしょうか。しかし、先に紹介したように、旧約聖書の中にも、神に対する疑問の言葉は記されています。またイエスさま自身も、このような祈りを献げています。(P.92)
「「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」」(マルコ福音書14:36)
 ゲッセマネの祈りに見られるイエスの信仰のあり方。ここでイエスは自分の運命を拒否しながらも、受け入れています。そうした意味で言えば、最初に問いかけた問い、神義論という言葉を借りるのであれば、神が正しいか正しくないか、信仰を持つか持たないか、という二元論をイエスは乗り越えて、両方の地平に足をつけて、立っていると言えます。そして、私たちの信仰のあり方もイエスのように、確信と疑問または信仰と不信に、足をつけて歩む信仰の道ということがありうるのではないか、と思うのです。

隣人と共なる信仰・イエスと共なる信仰
 今日の箇所、最初に嫌いな聖書の箇所であるということをお話しさせていただきました。わたしが嫌いというか、好きになれない理由は、これまでお話ししたように、あまりに神さまに、またイエスさまに対する信仰的確信に基づいた箇所であるからです。人がその人生を歩む上で、様々な患難に襲われることがあります。そして、確かにあらゆる苦しみや痛みを神の計画として、神の招きとしては、受け取ることが出来たら、それはとても幸福なことかも知れません。嫌いな讃美歌だったら「来たれ、来たれ、苦しみ」(21-483)をあげますが、そんなように苦しみのすべてを受けとめられたら、幸せかもしれません。
 「神を畏れることは信仰の始まり」という言葉があります。同じように、神に対する疑問から信仰の道は始まるのではないでしょうか。それは、また自らの信仰の有り様に対する疑問ではないでしょうか。誰しも、私たちは確信を持って、強く歩みたい、というように願います。しかし、その強さとは、何の助けもいらない、ということを示していないでしょうか。信仰を持つとは、神と共に歩むこととするならば、強い信仰とは間違った信仰であるということにはならないでしょうか。また一人きりで歩むことが出来る強さが信仰とするのであれば、隣人と呼ばれる他者の存在はどうなってしまうのでしょうか。イエスさまは、神を愛すること、また自分と同じように隣人を愛することを命じました。それは隣人と共に歩むことではないでしょうか。そして、それが教会に必要なあり方ではないでしょうか。
 ただ神に集中することによって、イエスに集中することによって、他者の存在、隣人の存在をないがしろにしてはいないでしょうか。教会という場所が自らの自己実現の場所になってはいないでしょうか。そうではなく、様々な違いを超えて、また信仰のあるなしも超えて、そこに集う人々と歩もうとする場所が教会ではないかなあ、と思います。そして、そうした歩みこそが、宣教であり、伝道と呼ばれる業ではないでしょうか。私たちは、主なる神の前においては、主イエスの前においては、相応しくない者の集まりであります。しかし、イエスさまは私たちと共に歩んでくださっています。今日の聖書の箇所をもういちどお読みします。ヨハネ福音書9章3節。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
 わたしが大嫌いな箇所です。しかし、いつかは、そうした信仰の地平に至りたい、という思いもあります。わたしたちは常に、主なる神へ対して疑いを持ちながらも、良き歩みへと導かれたいと願っています。また、疑いを持ちながらも、願いを持ちながらも、神により頼む存在であります。そして、そうした歩みは、ただ一人の歩みではなく、隣人と共に手を取り合っての歩みではないか、と感じています。また山登りに喩えるのであれば、1人ではない歩みであり、助け合いながら、いつか、その頂上に手をかけ、両方の足で立ちたいと願い続けることではないか、隣人と助け合いながら、その頂を、めざし続けることが信仰の道ではないか、と感じています。

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