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『静かにささやく声』列王記上19:1-12

2015.03.16(09:30) 287

『静かにささやく声』
(2015/3/15)
列王記上 19章 1~12節

エリヤという預言者
 エリヤという預言者。新約聖書においては、イエス・キリスト自らの言葉を通して、バプテスマのヨハネこそ再臨したエリヤである、と語られる預言者であります。新約聖書、マタイによる福音書11章13節から14節にはこのようにあります。(P.20)
「11:13−14 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。」
神の子イエス。イエス・キリストがこの世に誕生する準備を果たすため、「道を準備する」(Mt11:10/Ml3:23)ために現れたと新約聖書に証しされております。主イエスの前触れとして登場したバプテスマのヨハネ。主イエスはこのヨハネから洗礼を受けています。さらに一時期は、イエスは弟子としてヨハネに使えていたのではないか、と思われているような存在であります。主なる神の救いの象徴、しるしであった洗礼を特別な者だけのものではなく、誰にでも開かれた者として示した人であり、多くの人の尊敬を集めました。しかし、時の権力者によって厭われて、捉えられ、最後には処刑されるという不幸な道を歩みます。
 そして、エリヤも不幸な歩み、困難な歩みを歩んだ預言者でありました。エリヤが活躍した時代の王であったアハブに命を狙われ、隠れながらの預言者としての歩みでした。時のアハブ王は偶像礼拝に、バアル神やアシェラ神を信仰しました。それには、アハブの王妃であったイゼベルの影響があったと捉えられます。アハズの王妃イゼベルという人は、もともとフェニキアのティルス(シドン)の王の娘でありました。異なる国の王家の結婚は、同時に、お互いの神が同一視される道、異なる神と神が同時に崇拝される道を開いた、と言えるでしょう。

偶像崇拝とは?
 エリヤが活躍した時代、ソロモンの死後、イスラエル民族の王国は南北に分裂しており、その北側の北イスラエル王国においてでした。そして、7代目の王となったアハブが王位にいた時代、おおよそ紀元前570年から550年頃でした。北イスラエル王国と南ユダ王国は、もともと同じ国だったのですから、時代によって関係が良かったり悪かったりしたのですが、この時代は、関係がとても良い時代でした。当時アラムという国と北イスラエル王国は、戦争をしていたのですが、南ユダ王国と同盟関係を結んでおり、一緒に戦争をするような状況でありました。また、アハブ王の妻であるイゼベルはフェニキアのティルスの出身です。王家同士での結婚とは基本的に政略結婚ですが、とても良い関係を持っていました。そうした要素を全体的に眺めるとアハブ王は、国際政治的にも内政においても、非常に安定した関係を築いていた、と言えます。
 しかし、宗教的にいった時、非常に低い評価を受けております。列王記を記した人、もしくは集団は、その王が、この世的に成功したかどうかよりも、宗教的に主なる神により正しく従っていたか、で評価を下す人々でした。その評価の中においては、このアハブは、北イスラエルにおいて最も低い評価を与えられた王でありました。その評価に関する記述に触れてみます。列王記上21章25節26節(P.571)
「21:25-26 アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼は、その妻イゼベルに唆されたのである。彼は、主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリ人と全く同じように偶像に仕え、甚だしく忌まわしいことを行った。」
 「その妻イゼベルに、そそのかされた」とあります。しかし、本当にそうでしょうか?アハブは、たしかにバアルを崇拝したでしょう。しかし、それは彼の信仰心の問題ではなく、政治的な駆け引きとして、イスラエルを安定させるための政略として捉えることは出来ないでしょうか。たしかに列王記や歴代誌においては、宗教混交状況を作り出した王として、宗教の乱れを生み出した王として、とても低い評価を受けているアハブですが、北イスラエルは南ユダが、ほぼユダ族単独の王国であったのに対し、内部に多くの民族を抱えていました。また周囲の多くの国々と国境線を接しており、常に戦争の危機も抱えていたと言えます。そうした状況の中において、隣国との政略結婚や隣国の神、宗教の導入は政治判断として行ったことと理解することができます。
 が、そうした彼の姿勢は、宗教的に言えば、宗教混淆(シンクレティズム)、宗教の混合を生み出す要素となります。それは、従来のイスラエルの宗教の中心であったヤハウェに対する唯一神信仰を否定することであります。そうした状況に対して、エリヤなどの預言者たちの反発し、王の側としては、彼らに対する弾圧、迫害を進めることとなります。そして、そうしたエリヤたちヤハウェ側の預言者たちの姿勢は、一般の大衆、人々からも理解が得られていなかったようです。そしてさらに、もしかしたらエリヤの指摘、または怒りが一般の人々や王たち、バアルの預言者たちには伝わっていなかったかもしれない、と思わせる要素があります。

無理解な人々
 列王記に18章に収められております。列王記18章18節19節をお読みします。(P.562)
「わたしではなく、主の戒めを捨て、バアルに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている。 18:19 今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者と共に、カルメル山に集め、わたしの前に出そろうように使いを送っていただきたい。」
 北イスラエルの首都であったサマリアは、ひどい干ばつに襲われ、酷い飢饉に陥っていました。それをエリヤは王国の不信仰、異教崇拝によるものとして弾劾し、王妃イゼベルが使わしたバアルの預言者たちとカルメル山において対決することになります。カルメル山というのはイスラエルとフェニキアの国境線にある山で、主なる神への祭壇もバアル神への祭壇も置かれていたのでしょう。その場において、エリヤは主なる神に祈り、バアルの預言者たちはバアルの神に祈って、どちらが最初に神の力によって、薪(まき)に火を付けられるかどうか?という戦いをすることになります。
 結果は、バアルの預言者たちは朝から晩までバアルに祈り、また自らを傷つけたりもしました。これもバアル神への儀式のあり方です。しかし、バアルの預言者たちの祈りは通じず、エリヤの祈りにより、主なる神の力により火はつけられ、バアルの預言者たちはエリヤによって示された主なる神に従いバアルの預言者たちを殺した、という物語になっております。このお話だけでしたら、神の力が証明されたお話としてだけ、読めばいいと思います。しかし、ここにとても興味深いやり取りが含まれております。
 列王記上18章21節をお読みします。「エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。」
 「民は一言も答えなかった」とあります。なぜでしょうか?エリヤの言葉に心からの反発があったからでしょうか。同意して、エリヤの言葉を受け入れたからでしょうか。痛い指摘を受けて、無視しようとしたのか、とか。いろいろ考えてみましたが、わたしなりにたどり着いたのは、民衆はエリヤの質問の意味が分からなかったのではないか、ということです。

静かにささやく声
 今日、私が選ばせていただいた箇所は、列王記19章1節から12節です。国家による迫害や民の無理解の中で、エリヤは逃亡生活を継続します。列王記上19章11節12節をお読みしました。
「19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」
 神がこの世に顕現した場面であります。「山や岩を裂くような風、地震、火」。私たちが神に求めるであろう力、また神を感じるであろう力の中に神はいない。その後に訪れる「静かにささやく声」その中に神がおられる、という記述です。
 しかし、この箇所、とても翻訳が難しい言葉であり、ヘブライ語の原典を忠実に訳しますと、英語では「Sound of Silence」「沈黙の声」となり、どの翻訳であっても、苦労していることが見えます。今およみしましたように新共同訳では、「静かにささやく声」となっております。たしかに、13節以降、主なる神がエリヤに言葉を語りかけているので、「声」は声として発せられなければおかしいこととなりますので、「沈黙の声」と訳すわけにはいかなかったのでしょう。ギリシャ語訳の旧約聖書(七十人訳LXX)では、「かすかなそよ風の音」。日本語訳の中では、文語訳では「静かなる細微(ほそ)き聲(ごえ)ありき」。口語訳では、「静かな細い声」、カトリック教会が最近だした校訂口語訳「かすかにささやく声」、フランス語の聖書では「さざめきのようなかすかな音」となっているようです。そして、名訳と呼ばれる関根正雄訳では「火の後で、かすかな沈黙の声があった」と訳されていました。

内村鑑三の歩みから

 話は変わりますが、今日の聖書の箇所。日本の高名なキリスト者に、無教会を開いた内村鑑三という人がいます。彼はこの箇所をずいぶんと大切にしていた、ということを知りました。いわゆる不敬事件によって教師という立場を負われ、様々な形で迫害を受けた内村鑑三。彼の歩みに関する著作を読んでおりましたら、新しい発見がありました。それはただ単に、迫害にあったというだけではなく、キリスト教会に対する絶望も伴っていた、ということです。
 よく知られている不敬事件に至る前の学校において、内村鑑三は、きまじめすぎるということで他の教師たちから嫌われていた、ということでした。ご真影に対して頭を下げなければならないことを糾弾されたとき、そうしたもともと関係が悪かった人々からも糾弾され、さらに同じキリスト教徒だった人たちは、拝礼が求められる日はあえて休んだ、ということでした。真面目に足を運んだ内村鑑三のみが憂き目に遭ったわけです。
 教師としての職も負われ、職も負われた上、自宅まで迫害者が現れ、内村鑑三自身、体調を崩したのですが、その影響によって自分の妻が病に陥り、命を落としてしまうという状況。ただ単に、画一的な国家主義に痛めつけられた、というだけではなく、助けを求めた教会からも排斥され、同じキリスト者からも捨てられてしまった、という状況。まさにこの箇所のエリヤのような思いであったのではないでしょうか。同じ預言者たちも頼りにならない。同じ民族のものも頼りにならない、同じ信仰を持っている者も頼りにならない。まさに主なる神の「沈黙の声」のみを求めた日々であったのではないでしょうか。

神の意志とは?
 神の意志とはどのような形で訪れるのでしょうか?たとえば、神の恵みや裁きなど、どれが神の意志に現れであるのか、ということは、とても難しい課題と言えます。例えば、自然現象に求めるのでしょうか。「風」とあります。台風や突風や竜巻に神の力、意志を感じるでしょうか。また「地震」とあります。先週、東日本大震災から丸4年を迎えました。大きな地震によってもたらされた津波、多くの人々が地震や津波に突然に今までの生活や命を奪われ、また現在においても、福島原子力発電所の事故は収束しておらず、放射能汚染の被害は計り知れないものがあります。
 また、「火」とあります。バアルの預言者たちと主なる神であるヤハウェの戦いのことを思い出させる言葉(キーワード)であります。しかし、その火の中にも神はいなかった。何の形あるもの、また人の力の中にも、超自然的な現象の中にもない、ということを示している。そして、神の力は、「静かにささやく声」、関根正雄が訳出した「沈黙の声」として現れたというのです。
 ここに示されていることは、神の力とは「わたしたちの思い、想像、また希望を超えて」現れるということではないか、と感じます。イエスも同じようなことをいっていたのではないでしょうか。マルコ福音書8章28節から30節。(P.77)
「8:28-30 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」
 最後にある「戒められた」とは、とても強い否定であったということが知られています。また、同じマルコ福音書13章21節から23節。(P.89)
「13:21-23 …「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」」
 今日の箇所に収められている「静かにささやく声」英語における「Sound of Silence」、関根正雄における「沈黙の声」。今という混乱の時代にこそ、耳を傾ける言葉、意志を差し向ける言葉ではないでしょうか。大きな声や衝撃の大きな事件によって、政治や意志が動かされてしまうことが多いように感じます。そして、キリスト教においても、教会においても、そこにこそ時代の流れや神の意志があると受け取る人がいるでしょう。しかし、そうではない、ということを「静かにささやく声」は示しているのではないでしょうか。どのような時代や状況において、主なる神の意志に思いを向けて、しっかりと神の道を目指して歩んでいきたい、と思います。

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