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『時の到来を迎えて』マルコ福音書13:32-37

2015.02.02(06:15) 285

『時の到来を迎えて』
(2015/2/1)
マルコ福音書13:32~37

現在という時

 現在という時は、どのような時でしょうか。今、日本を賑わせているニュースは、そうしたことをとても考えさせられる問題と言えます。今の日本の状況の中において、とても大きな課題であろうということは誰もが何となく感じていることなのではないか、と思います。そして、10年前の2004年に起こった一連のイラク人質事件が思い出される人も多いと思います。最初にある武装グループに、3名の方が誘拐されましたが、解放されました。さらに2名の方が誘拐されましたが解放されました。が、2004年の10月、「イラクの聖戦アルカイーダ」という組織に、日本人青年1名が誘拐され、殺害されてしまう、という事件が起こりました。そして、その事件を巡って様々な批判が投げかけられ、その最たるものが、「自己責任論」です。
 しかし、そうした非難を投げかける多くの人々が、国の責任に対しては何も批判をしない、ということを感じますし、すでに欧米ではそうした日本の風潮に関して、疑問を感じる言説が報道としてなされています。欧米人には、自国民が暴力的なテロリストに拘束されて、殺されるかもしれない状況に対して、それはその人自身の問題、責任じゃないのか、ということが理解できない、というのです。また、この自己責任論、ただ単に、人質事件の問題だけではなく、身近な私たちの生活の中にも存在しています。近代国家の中における共同性とは、例えば納税とその再分配といえる社会保険による福祉政策や保険制度による動きが大きいと言えます。
 しかし財政悪化に伴い、生活困窮者への生活保護費の削減や高齢者福祉や子どもの教育などへの支援が削減されていく。そうした中で、社会的弱者の困窮や痛みは「自己責任」である、という雰囲気が強まっていく。その先にあるのは、ただ弱者であるだけで、国民の義務を果たしていない、「非国民である」と言われてしまう。あの事件は、そうした現在の日本の姿、そうした苦浮くより強まる未来をあぶり出す機能、役割を持っているように感じます。

サン・テグジュペリの歩みから
 今という時はどのような時か、ということで1人、サン・テグジュペリという人のお話を紹介したいと思います。最近、友人たちと開催している読書会でサン・テグジュペリの『星の王子さま』を読んでいます。絵本というには、なかなか深い内容を持った本でいろいろな翻訳を比較してみたり、様々な関係する書籍を読んだり、著者であるサン・テグジュペリについて、書かれている本を読んだりしました。
 サン・テグジュペリという人、ちょうど1900年生まれです。サン・テグジュペリは落ちぶれた貴族階級、いわゆる没落貴族の人でした。飛行機のパイロットになることに憧れ、民間航空便の会社へ勤めます。パイロットとしての活躍しながら著述活動を続けていました。彼の作品は、フランスのみならず、アメリカでも広く読まれて、アメリカに渡り、「星の王子さま」を書き上げました。元貴族階級でありながら、1人の労働者として働き、技術革新の象徴ともいえる「飛行機」にあこがれたサン・テグジュペリ。命がけで航路(飛行機の道)を開拓するという作業。エジプトの首都カイロから200Kmの砂漠に墜落してしまい、5日間飲まず食わずでさまよい救助された、という経験もしました。「星の王子さま」のお話の中に登場する「ぼく」と同じ状況です。『星の王子さま』はサン・テグジュペリの最後の作品なのですが、その不思議な内容から現在でも多くの読者を獲得しています。その中で、特徴的な人々、「おとなの人々」が登場します。
・ 「何もしない王様」。王子があくびをしたら、あくびを命令する。座ったら、「座れ」と命令する。
・ 「うぬぼれ屋」の人。王子がやってきたら、自分を何でもかんでも賞賛してもらうことを求める。その星には1人しかいないのだから、何でも一番です。それでも何でもかんでも賞賛されることをもとめる人。
・ 「呑みすけ」。ひたすらにお酒を飲み続けている。理由は、と言えば、恥ずかしいことがあるから、と言う。しかし何が恥ずかしいのか?と聞くと、「酒を呑む」のが恥ずかしい、と答える。
・ 「ビジネスマン」。ひたすらに星を数えて記録し、書類にまとめて銀行(金庫)にしまい込むだけ。毎日毎日、それを繰り返している。
・ そして、ガス灯の明かりをつけたり消したりする「点灯夫」。小さな星です。しかしそれなりに夜があり、昼があり、街灯をつけたり消したりしなければならない。
一分間が一日だと言う。考えてみれば、変なこと。1人しかいない星で外灯が必要だろうか。しかし王子の評価は高い。灯りをつけることは、他の人のことを考えていることだから、という理由でした。
・ そして最後は、「地理学者」。地図を見て、どこに何があるのか、を記録する仕事をしています。「王子は、この星にはどこに海があるのですか?」と聞きます。しかし学者は「知らない」と答える。自分は探検家の報告を聞くのが役割だから、と。また王子は、自分の住んでいる星のことを聞かれて、「花が一本咲いています」と自分が大切にしていた薔薇の話をします。しかし、この学者さん、そんなすぐになくなる「はかない」ものは地図には必要ない、と答えるのですが、王子はその言葉にとても傷つきます。
・ また、登場人物だけではなく、ゾウやバオバブの木が星を飲み込んでしまう、とその星を滅ぼすことになる、と記しているのですが、バオバブの木は、ドイツ、イタリア、日本を示していた、というように解釈することが出来ます。

生きている時を見つめる
 元貴族でパイロット、いつも命を落としてもおかしくないような状況を生きた人サン・テグジュペリ。航空機とは人類の文明の中でも、とても大きな影響をもたらしたものです。飛行機は世界をとても狭くしました。しかし同時に、戦争の道具としても、大きな被害をもたらす武器でもあります。そういった意味で、両義的な存在と言えます。またあらゆる技術の発展は「両義的」と言えるかも知れません。そんな「航空機」に憧れたサン・テグジュペリ。どんどん変化していくヨーロッパ世界の中で、労働とは何だろうか?人間の生きる意味とは何か?戦争とは何か?文明の発展とは?人間の幸福とは?、ということを考えていたのではないか、と感じます。そんな作業の中でこそ、見ることが出来た人間の姿といえます。そして、「星の王子さま」に登場した人物たちは、変化していく社会の中で、私たち人間のあたり前の姿の滑稽さを描こうとしたのではないでしょうか。
 そして、今という時代も技術の発展によって、世界はますます狭くなりました。20年前であったとしても、中東における人質事件、テロリストと呼ばれる人たちの「意見」があっという間に、インターネットを通じて、世界中に広がることなど、誰が想像したでしょうか。また、国境を越えて、「イスラム国」の働きに共感して、加わっていく若者がいます。それらの動きのインターネットという人が生み出した技術がもたらした動きと言えます。

目を覚ましていなさい
 今日の箇所、イエスが十字架への道を歩む直前の箇所です。今日お読みしました箇所を含む、マルコ福音書13章は小黙示と呼ばれており、イエスの死後、またこの世の終わりに備えて、弟子たち(キリスト者)に対して、呼びかけた導き、指針として捉えることが出来ます。今日の箇所、マルコ福音書13章32節33節をお読みします。
「「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」
 単純に言って、寝ていてはいけない、ということでしょうか。受難物語における弟子たちの姿に重ね合わせるのであれば、ゲッセマネの園でイエスが祈っている僅かな時間でも起きていることが出来なかった弟子たちはどのようにこの言葉を聞いたのでしょうか。また、世の中をするどく、そして冷静な眼で見定める、という意味が込められていると受け取ることが出来ます。
 続く34節35節「13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。 13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。」
 「目を覚ましていなさい」という言葉、私たちはこの後のイエスと弟子たち、それぞれの歩みをしっていますが、「鶏の鳴くころ」という言葉を思い出して、後からペトロは落ち込んだかも知れません。どのような時であっても、絶望しないことを進めたのでしょうか。そのイエス自身が、逮捕されたとしても絶望しない、また十字架刑の上、命を落としたとしても絶望しない、そんな意味で「目を覚ましていなさい」ということかもしれません。

今を生きる

 良くある宗教のあり方として、御利益宗教というのでしょうか、何かを捧げれば良いことがある、また祈れば良いことがある、求めれば良いことがある、という形があります。そうしたあり方というのは、常に「現在」の願うことが、「未来」に起こるわけです。そして、何か良い方向にいって欲しい事柄というのは常に「過去」の事柄です。同時に、私たちは現在のことを過去との繋がりの中で見ている。例えば、良いことをすれば(良い過去や良い現在を積み重ねれば)、良い未来がある。そうでなければ、良いこと(善行)の意味もないとも言えるでしょう。しかし、今日の箇所の言葉や、その前後の幾つかのイエスの言葉を眺めてみたとき、そうしたあり方を否定しているのではないか、と感じます。
 マルコ10章35節から42節に収められているヤコブとヨハネの願いの箇所(P.82)。「二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(10:37)という言葉の根にある思い。またそれに対するイエスの返答となる言葉「「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10:42-44)
 それに対してマルコ福音書14章3節から9節に収められている女性は信仰者の理想的な姿として対象をなしているように思われます。「イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。…はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」」(14:6-9)

「今」における決断

 あらゆる宗教の形が、過去における事柄が未来において好転すること、良き方向へと進むことを願う形で行われます。しかし、イエスはまったく異なり過去とも未来ともつながらない形での「今」における決断、生きるあり方をまず求められているのではないでしょうか。サン・テグジュペリを例に挙げましたが、彼は少々、人とは異なった立場において、眼において、与えられた「現在」を見つめ、するどい論述を残しました。また、彼が描いた5人の大人の共通するのは、孤立しており、「他者・隣人の不在」。隣人・他者の存在が見当たらない、ということでしょう。そうした描写は文明が進んだ人の姿を映し出しているのかもしれません。現代のによって、「星の王子さま」は「預言書」である、とも評価される力を持ちました。主なる神、そしてイエス・キリストも、そのような眼で、キリスト者が世界を眺め、それぞれが生きる時代を眺め、生きることを求めておられるのではないでしょうか。主なる神、そしてイエス・キリストが、今という時代において、わたしたちに対して、どの場に立ち、何を見つめ、どんな祈りを献げ、どのような行動を取るよう望まれておられるのか、これからも考えていきたいと思います。

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