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『一つの体としての教会』 第一コリント 12:21-26

2015.01.04(15:34) 283

『一つの体としての教会』
(2015/1/4)
コリント人の信徒への手紙 一  12章21~26節

コリントという都市の中における教会
 今日の箇所は、教会がキリストの体であるというパウロの教会の理想について、述べている箇所であります。「一つの体、多くの部分」と小見出しがついております。この手紙の受取手であるコリントの教会では、人種や文化など多くの違いなどから、教会内において、様々な争いがありました。パウロはそのような状況に関して、この手紙により、様々な状況に対して、具体的なアドバイスを送っておりました。コリントという都市は大都市であり、様々な文化、宗教が乱立する国際都市であり、様々な文化が入り交じっている。そうした点はあらゆる宗教から見て、不純であると見られても仕方がない、ということが想像できます。また、コリントの教会も、ユダヤ教のシナゴーグからはじまっています。ユダヤ人ではない異邦人もいたであろうと思います。そうした人々は、ユダヤ教やキリスト教が持つある種の生真面目さから改宗した人もいたでしょう。
 しかし、ある種のきまじめさは、日常的な生活の中で、不自由を得ることもあります。例えば、ちょうどお正月ですけども、まあ日本の風習と習俗ともいうべき食卓の席や儀式に参加せざるを得ないときがある。そんなときにどうすれば、良いだろうか。十戒の第一戒には、「(わたしの)ほかに神があってはならない」と書いてある。またそれを偶像崇拝とするならば、第二戒の「いかなる像をつくってはならない」にも抵触するかもしれない。では、どうしたら良いのか。しかし、この課題に、日本という場所では、少数派であるキリスト教徒では誰でもぶつかる課題ではないでしょうか。そして、パウロがそんな疑問に答えている箇所があります。第一コリントの8章1節から13節。〔P.309〕
「8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。/ 8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。/ 8:3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。/8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。/8:5 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、/
8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」」

 ここまでで何がテーマとされているかがわかりますでしょうか。
 要するに、違う神様や宗教の儀式に出会うときがある。そうしたとき、コリントという町において生活していくときには、そうしたものに触れざるを得ないときがある。そうした時にどうするべきか、コリントの教会の人が誰かに聞いたのでしょう。で、次の部分からパウロなりの答えが記されています
「 8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。/8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。/ 8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。/ 8:10 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。/ 8:11 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。/ 8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。/ 8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」
 要するに、個人的にそれを食することや参加することは、かまわない。なぜなら、キリスト教信仰に立つのであれば、その肉(食べ物)は、違う神様に捧げられていたとしても、それは偶像であって神様ではない、第一戒には違反しない。また心で「崇拝」していなければ、第二戒の「偶像崇拝」にも違反しない、という理屈でしょう。
 しかし、「弱い人」と記されていますが、自分が信仰に導いている人がいるのであれば、その人が見ている場所であれば、そうしたことはするべきではない、ということでしょう。言い方を変えれば、パウロはそうした事柄を、清浄規定からではなく、宣教的視点というのでしょうか。内心の問題として、また隣人への視点から、異教の文化との交流のあり方を捉えているのです。

パウロの理想と現実
 今日の箇所、パウロは教会のあるべき姿を記しています。パウロが言いたいことを一言でいえば、こうです。人間の体は、部分部分によって、違いがありながらも、一つに結びついて、それぞれの役割を果たして、互いに重んじられている。それと同じように、教会に集う者は、互いに違いがありながらも、互いに重んじるべきだ、ということです。
 しかし、なかなか実際には、それが出来るものではありません。たとえば、コリント教会の人々と私たちの教会の状況はまったく違うように、パウロが述べているこれらのような教会のあり方も捉え方によってずいぶん異なります。また同じ時代であったとしても違うでしょう。コリント教会の人々は、おそらく私たちのように1週間に一度か二度ぐらいの頻度で、だれかの家の一区画にあった教会に集っていたであろうと想像することが出来ます。形やあり方は違うとしても、私たちの教会生活のあり方に違いと言えます。しかし、エルサレムにある教会は、ほとんど共同生活に近い生活を営んでいたと思われます。ある学者は、エルサレム教会のありようを「原始共産制」という言葉で表現していますが、衣食住を共にするような生活であったと思います。
 そして、パウロはそのどちらも知っていたと思われます。そして、パウロの理想としては、エルサレム教会のような気持ちを持って、教会の人々が、まるで生活(衣食住)を共有するように、思いやりやって欲しかった、と思っていたのではないか、と考えられます。しかし、コリント教会に人々は違っていた。たしかにイエス・キリストの福音に触れ、救いの道を知って、神の意志に基づいて、神の教えを道しるべに歩みたい、と願っていた。しかし、それの具体的な形はパウロの思いとは違っていたかもしれない。キリストに従いたい、と考えていても、1週間に一度、教会に集うだけで精一杯であり、それで充分であった。パウロが食事は一緒に取るべきだ、と問題にしているテーマがありました。さきに食べてしまっていて、後から来て、空腹に悩んでいる人がいる、と(1k11:17-22)。が、お金持ちであったとしても、時間はなかったかもしれない。食事は一緒にとるものだと思っていた。さらに貧しい人が来るまで、待っているべきだ、と思っていたのに、それが出来なかった、ということもあるかもしれない。

教会とは?
 そんなことを考えてみますと、教会の現実というのは、どうでしょうか。今日のパウロの言葉から考えてみますと、ずいぶんと現実は違うと言わざるをえない、かもしれない。たとえば、キリスト教は「愛の宗教」と言われることがあります。しかし、教会に集まっている人たちが、自分の家族や恋人よりも、教会の人々を愛する、とか言うようになったら大変です。そんなことから考えてみますと、生活と教会というのでしょうか、どこかで聖書どおりではなく、教会の理想と言っても、どこかで離れているところがあるというのが現実ではないでしょうか。
 そして、パウロとしては、こうした言葉を通じて、分裂にしないことが理想的だ、ということを伝えようとしています。しかしパウロの時代から2000年近く経ってみて、どうでしょうか。現在の教会は、分裂ばっかりしていると言えます。カトリックと東方教会と聖公会とプロテスタントと福音派と呼ばれる諸派。そしてプロテスタントと福音派と呼ばれる教派などは、本当に数多くの教会があり、数え上げられないほどにあります。そして、私たち自身も、いろいろな形はあると思いますが、自分の信仰や教会生活に馴染んだ教会に通っていると言えるでしょう。
 しかし、改めてどうでしょうか。「なぜ、あなたはこの教会に通っているのですか」と聞かれてみたら、どうでしょうか。誰かに紹介された、とか、たまたま、最初に来た教会がここだった、とかが大多数ではないでしょうか。また、「あなたの通っている教会は、どんな教会ですか?」と聞かれて、どう答えるでしょうか。その教会の持つ伝統、それは集っている人々の共通理解とも言えます。また雰囲気とか、音楽とか、礼拝堂とか、牧師の人柄とか、そういったもので通う教会というのは、変わるでしょう。が、本当の意味で、長続きする教会のあり方で問われるのは、こういった部分だと思うのです。自分たちの教会のあり方は、なかなか見えにくいものです。

本音と建て前
 パウロは元ファリサイ派でありましたが、キリスト者となり、使徒と呼ばれるほどの宣教者となりました。パウロの活動がとても直接的であったと思われます。新約聖書に記されております数多くの手紙、イスラエルから小アジア全域までに至った宣教の旅、そしてそれに伴う先ほど触れましたエルサレム教会への献金を集める活動を進めておりました。パウロは、その最後エルサレムへ献金を届けたことによって、エルサレムにおいて逮捕され、ローマへと護送され、ローマにて最後を遂げた、と考えられております。パウロの信仰のあり方とは、とても実践的であったということが出来ると思います。そして、その歩みの根本には、今日の箇所にあるような、自分の一人の歩みでありながらも、一人の歩みではない、そのような信仰、思いがあったからでしょう。
 今日の最後の箇所、第一コリント書12章26節。
「12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
 パウロとしては、一つ一つの教会においても、また一つ一つの教会の枠を超えた形においても、12章26節のあり方、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」を実現させたかった、と考えていた、と言えます。そして、そのために各教会においても、各教会を超えた形で考えられるイエスさまの歩みに基づいたすべての教会においても、それらを一つの群れとして、使徒として活動していた、と考えられます。
 これらのパウロの活動の源泉にある信仰は、今日お読みしました箇所にあらわれております「教会はキリストの体」であるという信仰です。その立場が違いながらも、つながるという姿勢は、イエスが「十字架」という痛み、苦しみによって、私たちの罪を贖ってくださった、また愛を示してくださった、ということからでしょう。パウロの信仰も、イエス・キリストが十字架上の死というもっとも望まれない死を遂げたからこそ、様々な違いがありながらも、互いの「弱さ」によってつながることが出来たのではないかなあ、と思います。わたしの日常生活でも教会でも、やっぱり「強さ」を中心にしていると「争い」や「勘違い」「すれ違い」が多いように感じます。教会の強さは「弱さ」によってつながることではないでしょうか。もっとも弱き者としてわたしたちの罪を背負って、十字架への道を歩んでくださった主イエスを思い、また新しい週の歩みをはじめたい、と思います。

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