FC2ブログ

タイトル画像

『暗闇の中でこそ』ヨハネ福音書1:1-5

2014.12.26(09:09) 282

『暗闇の中でこそ』
(2014/12/24)
ヨハネによる福音書 1:1~5
マタイによる福音書 2:1〜12

暗闇の中で
 イエス・キリストがこの世界、わたしたちの世界に来られたことを記念する夜を迎えました。幼い頃、暗闇が怖かった思い出があります。また誰でも暗闇には、多かれ少なかれ「恐れ」を抱いているのではないでしょうか。博士たちは、遠い国から星を頼りに遠くユダヤの地、ベツレヘムまでやってきました。星はいつ見えるでしょうか?夜です。また、羊飼いたちも羊の番を夜通ししているときに、光に包まれた天使がやってきて、イエスの誕生を知らせました。
 昼間に星は見えません。太陽の光に隠されているからです。星は常に輝いているはずですが、太陽という強い光によって、見えなくなっている。ですから暗闇の中でこそ、星は輝く、というよりも、暗闇だからこそ、星を見ることができる、と言うべきでしょう。学生時代に、貧しいアジア諸国や地方に行ってから東京へ帰ってきたとき、羽田空港に降り立つ時の日本の明かり、東京の明かり、の強さに大変驚かされた経験があります。普段暮らしていた場所なのに、これほど明るいのか、と。またここ小田原でも、中心街においては、星の光も見えにくいものです。しかし、海岸や山の方に言ってみますと、星がとても綺麗に見えることに気付かされます。
 現代の文明の繁栄そして私たちの幸せとは、明かりの数や強さによって計られるものということが出来るかもしれません。なるべくならば、暗くないこと、を望みます。しかし、そのような便利さは、人間の深いところ、人間が神に作られた限界を持っているもの、誰かの助けがなければ、生きられない存在であるという事実を見えにくくしている、ということが出来るのではないでしょうか。日常生活においても、便利さや安心できることが求められています。また、なるべくならば、不便さに出会いたくない、と思うものであります。


東日本大震災によってもたらされた闇
 3年前の9月、東日本大震災の半年後の9月に、津波の被害が酷かった岩手県の沿岸部を訪ねたことがありました。わたしはそれ以前の5月に、被災地の海岸線を自動車で走ったことがありました。そこで目にした被害は、それは過酷なものでした。ひっくり返った家屋や舟や列車や防波堤…。そして町中を覆う火災の後、見たことはありませんが、まるで空襲が起こった後のように感じました。また、山のように積まれた自動車のスクラップや腐った海産物といったものの臭い…。それらの瓦礫を取り除くために動いていた重機が動く音。被害というものが目や鼻や耳を通じて、体に伝わってきました。
 しかし、その9月にボランティアをかねて、釜石市を訪ねたときは、その被害をまったく逆の違う形で、身に帯びました。9月何人かの人を引き連れて、釜石市でボランティア活動のために訪ねました。朝から夕方まで津波の被害を受けた民家の片付けをしました。その中の一日、割と早く作業が終わったので、被災地が初めての人もいたので、釜石よりも、もっと被害が酷かった町々を訪ねようという話になり、車を走らせました。出発したときは、まだ日も出ていましたが、被災地に向かうと共に闇が深まってきました。私がハンドルを握っていましたので、日が落ちてしまったら、何も見ることが出来ないという思いもあり、急ぎました。
 しかし津波の被害にまるごと襲われた町に着いたときには、すでに暗闇の中でした。これでは何も見ることが出来ない、という思いでいました。しかし、まったく逆のものを目にしたというより、目に入ってきました。まったく光がない町並みです。まったく灯りが無い暗闇に包まれた町です。その4ヶ月前に同じ場所を訪ねたとき、瓦礫や津波の後の臭いで一杯だった町並みは、一変した姿を見せたのです。まるっきりの無の姿、何もかもが無くなった姿です。まったくの漆黒の闇です。ただ、道路を走る自動車のヘッドライトだけが光っている町並み。同じ闇であれば、どこでも同じかもしれませんが、なんとも言えない感情がわき上がってきました。それは、一言で言えば、恐れということができるでしょう。
 津波で建物が奪い去られたからといっても、区画整理された土地と道路だけは残っています。そうした場にあったであろう生活、あるべきであった命が奪われてしまった、という事実を想像ではなく、見える形で目にしたことに対する畏敬の念、恐れとも言えるかもしれません。

失われることに基づく気づき
 また今から考えてみまして、それは、いわゆる便利さになれきった私(また私たち)にとっては、電気やガソリンや水道などと言った生活のインフラ(ライフライン)が奪われることへの恐れに近い感情かもしれない、という思いを持っています。今の世の中は、本当になんでもある、といって良い世の中です。日常生活の中においても、そうです。子どもたちのおもちゃやテレビ番組の数を考えてみますと、わたしが子どもだった頃とは、とてつもない違いがあるなあ、と思うことがあります。おもちゃにしてもテレビ番組にしても、数が少なかったと言えるでしょう。テレビもその時間を目指して、家に帰ってくる。見逃したら残念でした、で終わります。おもちゃもそうです。
 しかし、遡って考えてみれば、どうでしょう。おもちゃやテレビ番組では無く、食べ物でさえも、選択することができなかった時代がありました。あるかないか、食べられるか食べられないか、という時代。そういった意味で言えば、「選択できる自由」というものもとても贅沢なことかもしれない。

暗闇の中でこそ
 失われること、電気や水道やガスや生活物資が無くなる生活、不便さによって、その大切さを思い知るということ、良くあることです。しかし少しだけ、絞ってみる、ということでもわかることがあるかもしれません。が、なかなかそれができない。また、ついつい人々の性というか、癖というか、人という存在、私たちは、一度手にした物を手放すことを、とても恐れているのではないか、ということを感じます。それは力を失うことと感じるからでしょう。たしかに人の力とは、様々な道具によって、機械によって、情報によって、増大してきました。それがあることに慣れてきている。
 さらに日本においては、震災と同時にもたらされた原子力発電所の事故によって、その便利さには、危険が伴う、ということが知らされました。便利さと命は天秤にかけられるものか、という問いも成り立ってしまう状況は、とても良い状態とは言えません。「選択」できる自由は、必要ですがそれに危険が伴うことがある。また便利さが増えることがあっても、減ることはない。また、その便利さに逆に振り回されているかもしれない。そして、そうしたあり方に慣れてしまっている。しかし、それを一度、手放してみることから始まる何かがあるかもしれない。
また、ただ一度立ち止まることによっても、これからの歩みが変わるかもしれません。ただ立ち止まって、もう一度歩き出す。まったく同じ道かもしれませんが、たしかに違う希望に満ちた道があるのかもしれません。

希望としての光

 イエスさまの誕生は、何も無い場所、自分の家でも無く、旅先で、まともな寝床も無く、家畜小屋における、飼い葉桶における、父と母と、名も知らぬ動物や、見ず知らずの博士や羊飼いたちによって、何も選ぶことが出来ずに、ただ「あるもの」だけで祝われた誕生でした。「何も無い」という時と場での誕生でした。しかし、命の誕生がどのような時であっても、場所であったとしても、希望であるように、希望にあふれた瞬間でした。またマリアにとってもヨセフにとっても、イエスの誕生は、立ち止まるときであり、これまでとは違う歩みの始まりであったでしょう。
 このイエスの誕生という希望は、神の意志の現れではあります。また、こういうことも言えるかもしれません。この私たちの恵まれた日常、それらすべてが神の恵みなのだ。そして、それに慣れきってしまっているからこそ、神の意志がみえにくくなってしまっている、と。イエスの誕生は、暗闇の中でなければ、見えない小さな「光」のようなものでありました。が、たしかに私たちに届けられました。暗闇の中でこそ輝く光に、主イエスの姿を重ね合わせて、クリスマスを祝いたいと思います。

14122402.jpg 14122401.jpg
 ※写真はクリックすると拡大表示されます。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村地域生活(街)関東ブログ小田原情報へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

スポンサーサイト


周縁自体


<<『一つの体としての教会』 第一コリント 12:21-26 | ホームへ | 『狭間に生まれたイエス』マタイ福音書 1:18−25>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://nantaro3.blog119.fc2.com/tb.php/282-2e127d00
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)