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『イエスに招かれる資格』一コリント11:27-34

2014.12.07(12:58) 280

『イエスに招かれる資格』
(2014/12/7)
コリントの信徒への手紙 一 11:27~34

パウロの宣教
 今日の箇所は、パウロにおける教会の理想像の一側面が現れている箇所であります。パウロは、当時のローマ帝国の領土内における各都市を訪ね、イエスによって示された主なる神の福音を宣べ伝え、各地に教会を建てました。そうした彼でありましたから、各地の教会が地域や民族の差を超えて、一つの教会となることを目指し、求めていました。そうしたことの一つのあり方として、エルサレム教会への献金運動がありました。また、わたしたちが手にしている手紙もそうしたパウロの思いの表れかもしれません。例えばコリントに教会を建てて、他の場所、エフェソやローマに行って、またそこでも新しい教会を建てていく、伝道する、ということをパウロはしていたわけです。そこで新しい都市、新しい教会に移動したら、そこで前にいた教会との関係は終わるのか、と思いますが、パウロはそうはしてはいない。弟子を通して教会の状況を聞き、また具体的に手紙を書いて、導きを示している。パウロが記した手紙は、新約聖書に収められている27文書の半分ぐらいの数を締めています。そして、その内容としては、具体的な導きや牧会的な配慮、勧告、自己紹介といったものとなりますが、それら一つ一つがパウロの使徒としての活動の一環であり、教会とパウロ、そして地域を隔てた教会と教会を繋げる営みでもあったとも言えるでしょう。

コリント教会に起きていた課題
 今日、パウロが問題としているのは、教会の中における食事のことでした。今日の箇所、第一コリント11章27節28節をお読みします。
「11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」
 この箇所で、コリント教会の中で行われていた食事の席、現在でいう聖餐式もしくは愛餐会に関して注意した、と考えられます。
 そして、この記事が聖餐式を受けられるかどうかに関する基準としてあげられる箇所でもあります。しかし問題は、ちょっと複雑です。まず「ふさわしくないままで」と記されていますが、何が相応しくない行いであるのか、今日お読みした記事からはわかりません。それを知るために、ちょっと前の記事をお読みしたい、と思います。まず第一コリント11章17節から20節をお読みします。〔P.314〕
「11:17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。 11:18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。11:19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。11:20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。」
 具体的なこととして「仲間割れがあること」と記されていますが、それもしかたがない、とあります。しかし、「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」とあります。仲違いがある中で、食事をしても、主の晩餐にはならない、ということです。さらに21節22節をお読みします。
「11:21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。11:22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。」
 ここで言われていることは、ちゃんとみんなが集まってから一緒に食事を始めなさい、ということでしょうか。誰かが時間に遅れると言われて、先に来た人だけで食事を初めて、遅れてきた人がついたときには、酔っ払ってしまっている、といった状態が注意されている、ということでしょうか。その通りではあるのですが、そう物事は単純ではないと言えます。22節の冒頭、このようにありました。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。」パウロが問題としているのは、貧しい人々が恥じをかいている状態、推論するに貧しい人々は、奴隷の身分であったり、仕事が遅くまでかかるといった状況によって、教会における晩餐に遅れることがあったのでしょう。
 そして、教会に着いたときには、みんな食事を終えてしまって満腹して、へたをしたら酔っ払ってしまっている人もいる。これはおかしいじゃないか、と言っている。そして、どうしたあり方が理想的であったのでしょうか。そこで、今日のお読みしました11章最後の部分、33節34節にパウロとしての具体的な提案が記されています。
「11:33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。11:34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。」
 言われていることは、こうです。ちゃんと人がそろうまで待っていなさい。時間をキチンと決めなさい。さらに「空腹の人は、家で食事を済ませなさい」とありますが、これは食事を待っていられない人ということです。そしてむしろお金持ちのことでしょう。生活に余裕があって時間にも余裕がある人は教会にも早く来られて、早く食事を食べることができる。しかし、他の人が集まること、全員が集まることが待っていられないぐらいだったら、前もって家で食事を済ませてから教会に来なさい、ということです。

富んでいる者と貧しい者
 とっても簡単な話かもしれません。しかしパウロにとっては重大な問題でした。第一コリントの12章12節から26節には、有名な教会をキリストの身体(からだ)に例える箇所があります。その中の12節から16節までを読んでみます。「12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」
 パウロは、先ほどの11章22節で、「教会をみくびること」になる、と言っています。
 食卓の席というのは、現在の教会や家族でも同じだと思いますが、単に空腹を満たす行為、栄養を補給する行為ではなく、その家族や集団の親しさや和解の象徴でもあるでしょう。さらにパウロは、異民族とは食事をしないという教えを持っていたユダヤ人です。教会においてもたれる食事には、人一倍のこだわりがあったのではないでしょうか。そして、さらに奴隷であったからか生活のためだったのか、教会に来ることが遅くなってしまった人が食事にありつけないこと、「恥をかかせる」(11:22)とありますが、「疎外感」を与えてしまうことはおかしい、と述べているのです。

聖餐と愛餐
 当然この箇所、聖餐式との関係で触れられることが多い箇所です。今日の聖書の箇所に収められている状況は、単純に現在の聖餐式と同じものと捉えることはできません。主の晩餐という言葉で表されていますが、これは、いわゆる聖餐式と愛餐会とが別れる以前のものであったと言われています。教会で晩ご飯?と思われるのですが、皆が一日の仕事や作業を終えて集まってくる。そして、おそらく食事は持ち寄りです。そしてその食卓において、23節から25節に記されているようにパンを割くこと、杯を交わすことを行っていた。
「11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。」
 イメージで言えば、イエスと12弟子たちが、イエスが逮捕される前に守った食事、過ぎ越しの祭りの食事でありました。が、それを真似て行っていたということです。しかし毎回毎回、教会に集まるたびに食事を持つということも時代の流れの中で難しくなってきた。食事と離れた形の礼拝(ミサ)というものが形づけられるようになってきた。ある種の合理化です。また、洗礼を受けた人のみが聖餐に預かれるようになってきた。教会の組織化です。教会が長い歴史の中で、組織化と合理化が進む中で、今のような形になってきたのです。(話はかなり複雑ですが、とっても単純に言って)

誰と食卓を囲むのか
 洗礼を受けて、聖餐に預かれるようになる。いわゆる伝統的な教会の教義のあり方です。(すでに1世紀頃にはそのようになっていた)洗礼は教会の会員、メンバーとなることであって、そうでなければ聖餐に与ることが出来ない。洗礼は神さまとの契約で、聖餐は神さまの食卓だから、そこに座るには洗礼を受けてから。非常にわかりやすい理屈です。しかし、ここでパウロが言っていることは、私たちにとっての教会の教義とは違うことです。パウロが言っていることは、洗礼を受けていたとしても、どんなに儀礼に従ったに正しい聖餐式を行ったとしても、教会として誰かをないがしろにしていては、聖餐式を守ったことにはならない、というのです。
 また、こういうことも言えるのではないでしょうか。イエスさまだったら、どうするだろうか。福音書の中には、イエスさまがいろいろなところに行き、また誰かの家に行って、食卓の席についている記事があります。そうした人々は罪人と呼ばれている人たちです。揚げ足取りのようなことになりますが、そうした人々は洗礼を受けていただろうか。当然、受けていないわけです。
 パウロとコリント教会の話に戻ります。コリント教会の人々は、信仰というもの、教会生活というものを個人の事柄として捉えていました。一方のパウロは「教会はキリストの体」という言葉にも表れているように、集団の問題として、教会全体の課題として捉えていました。ふりかえって私たちの信仰のあり方はどうでしょうか。コリント教会の人々が陥ったような誘惑に陥ってはいないでしょうか。アドヴェントの時、自らの信仰を振り返って考えてみたい、と思います。

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   早朝の酒匂川より富士(左端にちょこっと)

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