FC2ブログ

タイトル画像

『使徒の権利、信仰者の権利』コリントの信徒への手紙 一 9:1-12a

2014.11.16(15:18) 278

『使徒の権利、信仰者の権利』
(2014/11/16)
コリントの信徒への手紙 一 9:1~12a

ジェンダー(性役割)という視点
 最初に、ちょっとしたなぞなぞを出してみますので、みなさん、考えて見て下さい。
「ドクターA氏は有能な外科医。午前中からのオペは大成功だった。教授室の椅子にもたれかかってふと見ると、時計は5時をさしている。着替えをすますと電話が鳴った。『先生、急患患者です。出血多量で血圧が降下しています。患者は18歳の男性』。指示を与えて手術室へ。カルテに目を通した瞬間、目の前が真っ暗になった。…彼とは今朝、元気な姿でいっしょに朝食をとって別れたばかりだったのだ。」
さて、問題です。この外科医(ドクターA)と患者は、どういう関係でしょうか?
参考:『ジェンダーとセクシュアリティー〈性〉と〈生〉を考えるー』(P.28)

 これは、「ジェンダー(性役割)とセクシュアリティー」というワークショップの質問なのですが、おそらくほとんどの人が父親と答えるのでは無いでしょうか?では、なぜ「父親」と考えるのでしょうか。まあ、このなぞなぞが狙っているのは、私たちの中にあるジェンダー意識(性役割)を明らかにすることです。「ドクターA」は、交通事故にあった18歳の男性とは朝ご飯を食べる関係です。まず家族であるだろう、という予測が立ちます。また、「有能な外科医」「ドクター」、医者である、という描写からある程度の年齢であることがわかります。そうした要素から「父親」であろうという予測が立ちます。しかし、他の可能性は無いのでしょうか?
 高い可能性として成り立つこととして、母親である、という選択枝は無かったのでしょうか?かなりの少数派と言わざるを得ないでしょう。そして、そういうふうに考えてしまう社会状況があり、私たちの意識の表れ、わたしたちの何となく共有している「あたり前」「常識」の現れであると言えます。が、一方で、こうした意識は、受け手にとっては、差別である、と受け取られること、またとてつもない傷を与える事、ダメージを与えることもあり得るのです。政治の世界では「女性が輝く社会」「男女差別の撤廃」などが叫ばれていますが、こうした意識に対する啓発や社会状況の変革など、女性が働きやすい状況を造っていくことが重要ではないでしょうか。

コリント教会とパウロ
 今日、選ばせていただきましたコリントの信徒への手紙は、使徒パウロが記したものであります。手紙の受取り手であるコリント教会は、パウロが立てた教会でした。しかし、この第一コリント書とその後に記された第二コリント書の内容から示されていることなのですが、コリント教会とパウロの関係が余り良い関係ではありませんでした。そうしたことの一端、またもしかすると一番の問題であったことが今日の箇所に納められております。
 第一コリント書9章1節2節をお読みします。
「9:1-2 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。」
 パウロは、コリントの教会の人々の一部の人々から、「使徒では無い」と考えられていました。そして更に、そうした考え方が、パウロやイエスの兄弟ヤコブなどたちとは違う扱いを受けるようになっていたのです。続く3節から7節をお読みします。
「9:3-7 わたしを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。」
 コリント教会を作ったのは、別に建物を建てたというわけではなく、イエスさまが神さまの子であり、主なる神が救いの神であることを伝え、その福音を受け入れた人々の群れとして、コリント教会があったわけです。パウロはコリント教会の創立者であったわけです。更にパウロは、教会からお金を受け取ることもしてなかった。パウロは自らの寝食、収入はテントを作ることによって、まあ動物の皮をなめして、それを売ることによって生活し、その上で教会のため、キリスト教のために働いていたわけです。そして、コリント教会も上手くいっていたわけです。が、おそらくペトロたちやイエスさまの弟であるヤコブたち、またそうした人々に近い人たちがコリント教会にやってきたことことがもとになって問題が起きてしまった。

ペトロとパウロ、その違い
 ある意味で、当然なことと言えます。イエスさまは神の子です。そして、イエスさまのお話、イエスさまの死、十字架刑について、復活について、聞きたい。それらの事柄に現れている神の御旨(ご意志)、意味について聞きたい。そんなとき、イエスが旅したガリラヤからエルサレムへの道行きを共に歩いたペトロと、もともとはキリスト教の迫害者で地上において人として生きていた頃のイエスさまを知らないパウロとどちらの話を聞きたい、と思うでしょうか。あたり前のことですが、ペトロの言葉を求めるでしょう。しかし、そうした意識、パウロにとっては差別によって、パウロは心を痛め、感情を害していました。
 パウロは、私たちにとって聖書に収められているような書簡を記し、私たちに連なる教会の礎を築いた人として広くイエスの直接の弟子である使徒として、イエスが伝えた福音の伝達者として、特別な存在として受け入れられています。そして、ペトロに対しても、あまり変わらない意識をもっている。しかし、それも一つのとらえ方といえます。マタイ福音書には、イエスの一番弟子であったペトロの特別性を示す箇所が納められています。マタイ福音書16章18節19節。(新約聖書 32ページ)
「16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。/16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」」
 読んだままで言えば、ペトロの特別性を示している箇所です。たとえば、ローマ・カトリック教会における法王、教皇という存在は、ペトロの権威を引き継ぐ存在であり、教皇を示すシンボル、マークは、2つの鍵を組み合わせたものです。そして時代時代における教皇は、ペトロの代理人である、と考えられています。が、今日の箇所におけるパウロの言葉は、そうしたペトロの特別性を真っ向から否定していると言えます。
 パウロとしては、直接のイエスの弟子で一番弟子でもあったペトロであっても、キリスト教を伝道する使徒としては、わたしと同じなのだ、と主張です。コリント教会の人々も当然のようにペトロを特別扱いしたのでしょう。ペトロは、妻を連れ、各地の教会を訪ねていた。そしてコリント教会にもやってきた。コリント教会の人々は、衣食住も用意して、歓待した。イエスさまの直接の弟子です。聖書(旧約聖書)に記されているメシアの一番弟子、話だけは聞いたことはあるけど、どんな人だったのだろう。
イエス様はどんな顔だったのか、どんなしゃべり方だったのか、聞きたいことは山ほどあったかもしれません。そして「そのイエスさまと旅をした弟子、それも一番弟子のペトロがやってくる」当たり前のことです。

パウロの問いかけと私たちの権利
 パウロはコリント教会を作った人です。どこか他の教会からやってきたわけでもない。創立者です。でも教会のための一生懸命に働いているけれども、やっぱり私たちと一緒でペトロさんたちだけが特別。だって、パウロはイエス様のお話もしているけど、テントを自分で作って収入を得ているから使徒ではない。さらに、ある意味でここにある言葉、差別的な言葉を言われていたかもしれませんよね。9章5節をお読みします。「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」パウロは独身者であったことは広く知られています。しかし、こんなことも考えられるのではないでしょうか。もしかしたらパウロ自身、宣教のため、伝道のため、教会のために結婚を諦めたかもしれない、そのために別れた恋人もいたのかもしれない。彼が記した手紙の内容から考えますと、そんなこともありそうです。
 また、いきなり手紙の中で、このようなことを言葉で書くというのは、具体的にコリント教会の人の誰かに結婚について、何かを言われたことがあったのかもしれないと想像できるのではないでしょうか。「あなたは使徒じゃないから、完全な伝道者じゃないから、結婚できないんだよ」と。ペトロは立派に家族を持っているけれども、パウロは独り身だから使徒ではない。現代で言えば、これは完全な差別発言ですよね。パウロも怒りますよ。また時々「牧師だとすれば、能力がないから、小さな教会で、アルバイトをしなければ生活できないんですよ」とかいうことを、平気で言う人がいますが、どうでしょうか。でも、考えてみてください。教会の始まりとはほとんどの場合、伝道者、牧師の開拓伝道です。そうした場合、ほとんどの牧師たちが自分たちで生活費を稼ぎながら、教会を立ち上げています。そうした人たちの働きをどのように捉えるのでしょうか。
 コリント教会が生み出されようとしているとき、教会としての規模も小さく、場所自体も定まっていなかった。おそらくこの手紙が記された頃には、どちらかの家の一角でしょうが、固定した場所を得て、固定した出席者を得ていたでしょう。そして、あたり前のこととして、パウロの献身的な活動をそのまま受け入れていた。教会を作り出したような功労者でありながら、使徒でありながら、経済的な支援をすることも無かった。またパウロ自身も教会のためと思い、求めることもしなかったのでしょう。こうしたパウロのあり方も、もしかしてコリント教会の人々から、半人前の使徒である、と見られる要因になっていたのかもしれません。

イエスさまだったら
 今日の説教題は「使徒の権利、信仰者の権利」としました。聖書の中には、紹介しましたように、ペトロを特別な存在として、天国への入り口の鍵を管理する存在として考える箇所があります。また同時に、パウロのようにペトロと自分の間に違いはない、と考えもあります。こうしたパウロの考えの先には、どのような人であっても、主なる神の前には、同じように大切で価値ある存在である、というところへ行き着くのではないでしょうか。
 またイエスさまであったら、どのように答えられるか、ということを想像してみます。イエスさまだったら、どうだろうか?わたしは使徒であろうと、一般の信徒であろうと、また教会に集わない人であろうとも同じであるべき、主なる神の前に同じ権利を持っている、と答えられるのではないでしょうか。最初にジェンダーに関するなぞなぞをしました。またパウロとペトロの違いについてのお話をしました。改めて、使徒とはどのような存在でしょうか?信仰者とはどのような存在であるべきでしょうか?改めて、捉えなおす中で、日々の信仰生活を歩んでいきたいと思います。

141116fuji.jpg
  富士山を探せ!!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村地域生活(街)関東ブログ小田原情報へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
スポンサーサイト


周縁自体


<<『十字架上の導き』ルカ福音書23:26-43 | ホームへ | キリスト教(教会)関係の映画 パート1>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://nantaro3.blog119.fc2.com/tb.php/278-66eb4554
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)