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『神と大地の契約』創世記9:8-17

2014.11.03(15:54) 277

『神と大地の契約』
(2014/11/2 永眠者記念礼拝)
創世記 9章 8~17節

東日本大震災の記憶
 今日お読みしました箇所に登場するノアという人物。キリスト教徒であろうとなかろうと、神さまの命令に従って、大きな箱船を作ったこと、そこにたくさんの動物のつがいを入れて、神さまの手によって起こされた大洪水から守った人物であります。そして、今日の箇所は、洪水が収まった後、神とノアの間で確認された契約について記されています。
 実はこの箇所、このように礼拝の中で選んだのは、おおよそ3年半ぶりでして、その前の機会というのは、2011年の3月20日のことでした。ピンと来た方もおられるでしょうが、あの東日本大震災から9日目のことでした。教会において選ばれる聖書の箇所というのは、説教者なり牧師が自らの意志で選ぶこともありますが、聖書日課という言い方をするのですが、あるカレンダー(『日毎の糧』)によってつけられており、さらに小田原教会ですと、2ヶ月か3ヶ月前には決めているものですから、変えることも出来ません。子どもにそのような震災について、神さまについて、どのように語るべきか、ずいぶんと悩ましいことでした。
 というのは、このノアの逸話、大洪水を起こしたのは、神さまであり、さらに、その理由として、創世記「地上に住む人に悪が広がった。…」と記されているからです。3年前の2011年の3月11日におきた大震災の被害、そしてその後に起こった福島原子力発電所の事故、今まだその影響を残しております。またさかのぼること1995年1月17日、来年の1月には、阪神淡路大震災から20年を数えることとなりますが、震災によって家族や身近な人を失った人々の悲しみは、長い時間が経ったからと言って、なかなか癒えるものではないでしょう。

『ノア』という映画より

 先日、今日の箇所に登場するノアを主人公とする映画を見てきました。アメリカで作られた映画ですから、当然キリスト教の考え方そのまま、聖書の考え方そのままなのか、と思っていたら、そうではないような要素がたくさんありました。例えば、キリスト教における神をアメリカまた英語では、「God」と言います。
が、その映画では「Creator」(創造者)という言葉で呼びかけられていました。また、聖書の中における箱船の記述には、ただ箱船を作っているノアたちをバカにした人たちが登場しますが、具体的な争いなどは記されていません。しかし、映画の中においては、雨が降り出し、洪水が激しくなっていく中で、周辺に住んでいた住民たちが、箱船に乗り込もうとして、壮絶な戦いが起こる、という場面が描かれていました。さらにノアたちと住民たちとの間でとても対照的な要素がありました。それは僅かな実り、食料にも感謝して大切に食しているノアの一家に対して、他の人々は、まさに「むさぼる」という表現が当たっていると思うのですが、動物の肉を食べるにしても、野菜などを食するにしても、無駄も多く、人と人とで奪い合い、殺し合いながらも、自分の食べ物を得ようとする。そんな姿で描かれていました。
 この映画を見ながら、感じたことですが、おそらく作者は、聖書に記されたノアの物語を単なる聖書の物語にしておきたくなかったのでしょう。ユダヤ教の正典に収められた物語として、キリスト教の正典に収められた物語として、良い物語として描きたくはなかった。現代を生きる視聴者たちに、問いを投げかけたかったのだ。と思うのです。例えば、環境破壊、エネルギー問題、放射能汚染、核戦争、経済格差、など。最近ですと、グローバル化の影響によって、新しい病気が瞬く間に世界中に広がっていく恐れ…。様々な恐れがあります。そうした中で、漠然と感じる不安、それはどのような形でしょうか。そんな危機にあるとき、混乱が来るとき、どのようなことが起こるでしょうか。わたしが共通して、想像するそうした危機に起こること、それは、人と人の分断されること。
人と人が別れて、争い合う姿ではないでしょうか。そして、それは先に挙げた危機を超えて、私たちを滅ぼす可能性を持っている、といえないでしょうか。環境破壊、食料や水を巡って、またエネルギーを巡って、戦争が起こるかもしれません。核兵器、経済格差、による争い、戦争、そしてそれはすでに始まっている、と言えるかもしれません。

神が改心した?
 今日の聖書の箇所は、主なる神が、ノアとその家族、その箱船に乗り込んだ動物たち以外のすべての生物が滅ぼした洪水の後、雨がやみ、水が引いた後にノアと神との間に交わされた契約に関する記事です。
 創世記9章12節13節をお読みします。
「9:12 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
9:13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」

 さらに14節15節をお読みします。
「9:14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
9:15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」

 神さまは、なんでこんな約束、契約をしたのでしょうか。それは、わたしの想像に過ぎませんが、何かの理由があったはずです。なぜなら全能の神であれば、また気に入らない人々が増えてきたのであれば、同じように洪水を起こして滅ぼしてしまえば良いのではないか、と思います。しかし、そんなことはしない、と言っている。なぜ、こんな約束をしたのか。
 聖書に記されております天地の創造物語、天と地は7日間で造られました。そして最初の人間である、アダムとイブという人が創造されました。そして、その人たちに「この世を支配しなさい」とおっしゃっています。ですから、洪水を起こしたときの神さまは、このように考えたのではないでしょうか。地上のことは、どんなに間違ったことであったとしても、自分の責任じゃなくて、人間の責任だよ、だから洪水が起こったこと、人間もすべての生き物も滅ぼされてしまったのは、人間の責任だ、人間の自己責任だよ、と。
 しかし「もう決してしない」という約束をした。それは神さま自身が、自分がやってしまったことに心を痛め、後悔し、悲しんだからではないでしょうか。そして神さまは、自分が作った虹を見て、天と地がつながっていることを見て、地上における悲しみは地上だけのものではなく、天の悲しみでもあるのだ。また自分が起こした洪水によって引き起こされた惨劇、多くの命が失われた姿を見て、後悔したのではないか、と思うのです。そして、ノアと一緒に洪水の後にかかった虹を見て、二度とこのようなことをしない、と誓ったのではないでしょうか。


繋がりの中で
 今日わたしたちは、永眠者、先に天に召された人々を記念するために、ここに集いました。身近な友人たち、家族、教会における友、それぞれ一定の時間を共に過ごしました。そして、ここに写真が飾られている人々、また写真が飾られていなくとも、それぞれの心の中にいる人々がいます。そうした人々は、この世において、命を与えられ、私たちと共にこの世における日々を歩み、そして主なる神へ招かれ、天へと旅立っていきました。
 しかし、虹が大地と天とを結ぶ徴であるように、私たちと旅立っていった人々もつながっています。こうした関係は言うなれば、親族や家族、そして今日のように先人たちのことを思い起こすことは、時間の考え方で言って、縦の関係と言えます。そして先人たちから思いやりを受けた。そしてそのことによって、人を思いやることを知ったということができないでしょうか。また、先に旅立っていった人々との繋がりを知っているからこそ、私たちは人を思いやること、また人の思いやりに感謝することが出来るということはできないでしょうか。
 人は、多くの人の間で過ごしています。また私たちの先人たちのことを思い起こすことは、過去のことかもしれません。また、繋がりがなければ悲しむこともない、とニヒリスティックに、無感動に言うことも出来るかもしれません。しかし、過去のことがなければ、繋がりがなければ、自分がどこに立っているのか、どこに生きているのか、どんな時を生きているのか、ということもわからないのではないでしょうか。そして当たり前のことですが、私たちには、必ずしも息子や娘はいないかもしれませんが、必ず両親はいて、必ず多くの人の思いやりの中で、繋がりの中を歩んできたのではないでしょうか。
 聖書を生み出した民族、神の子イエスが生まれたユダヤ人たち。時の流れについて、私たちとはまったく逆の考え方を持っていた、と言われています。わたしたちは、だいたい未来とは前にあるもの、過去とは後ろにあるもの、と考えがえるものです。しかし、ユダヤ人たちは逆であったそうです。未来が後ろ側、背中にあり、過去は前にある、と考えていたそうです。確かに言われてみますと、一理あるように感じます。わたしたちは過去のことは経験したことですから当然、知っています。見たことがある、と言えます。しかし、未来のことを知ることは出来ません。見ることは出来ません。わたしたちの歩みは、ずっと手こぎボートのように、後ろ向きに進んでいる、と言えるかもしれません。今日のような永眠者記念礼拝の日、すでに天に召された先人たちや家族たちのことを思い起こします。それは同時に、過去の自分自身を思い起こすことであります。その時どうであったか、たしかに繋がりの中に生きていた自分がいるはずです。
 わたしたちは未来を知ることは出来ません。しかし、いつでも過去を振り返ること、見つめることはできます。そんな自らの中にある過去の繋がりを胸に、先人たちとの思い出を基盤にして、私たちが先人たちの平安を祈っているように、先人たちも私たちの平安を願っている、ということを胸にして、それぞれの人が新しい歩みを平安の中で歩んでいかれることを願っております。

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