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『創造の主が来られる』(マタイ福音書3:7-12)

2012.11.15(18:27) 175

『創造の主が来られる』
(2012/11/11)
マタイによる福音書 3:7~12

神の子としての旅の始まり
マタイ福音書は系図に始まり、誕生物語があり、バプテスマのヨハネの登場によって、具体的なイエスの宣教の旅が始まりを告げます。と言いましても、正確にいいますと、ここからイエスの旅が始まっているわけではありません。今日の箇所のお話、小見出しで言いますと「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」という箇所から「イエス、洗礼を受ける」「誘惑を受ける」という事柄を終えて、4章の12節からの「ガリラヤで伝道を始める」という箇所から、文字通りのイエスの旅が始まります。ですから、この箇所は「宣教の旅・伝道の旅」のスタート前、その準備段階と表現することが出来ます。
 イエス・キリストは福音書を通して、自らが神の子であることを様々な事柄を通して伝えようとしています。が、その内容は、大きく3つに分けられるか、と思います。一つは、イエスが持っている一般の人が成すことができない奇跡的な力を持っていること。そしてもう一つは、イエスが語った教え、導きであります。そして、もう一つは、それらの事柄が、ガリラヤからエルサレムへの旅の中で起こったことだったということです。
 イエスの公生涯は長くても、3年ぐらいではあったと考えられております。そして、そのいわゆる公生涯、イエスさまが、神の子として、キリストとして、2000年前のユダヤの地で働かれたのは、バプテスマのヨハネによって洗礼を授けられることによって始まります。今日の箇所の直後にそのことが記されておりますのでお読みしたい、と思います。
マタイによる福音書3章16-17節。
「3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」



バプテスマのヨハネという存在

イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けました。そして一時期、イエスはそのヨハネの弟子として歩んだのではないか、と考えられております。「ヨハネの後にイエスが来る」ということ、そして「バプテスマのヨハネがイエスの前触れ」であるということは様々な形で福音書に記されております。まず、このヨハネの登場がイザヤの預言されていたことを証しする言葉があります。マタイ福音書3章3節。
「3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」」
また、他の箇所では、イエスとヨハネの弟子たちどうしの逸話によって、ヨハネという存在について説明されています。マタイ11章2節から6節。
「11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」
イエスさまの活動によって、多くの人の病いや負い目が癒されていること、また生き返っているということ、そして「福音を告げ知らされている」と、イエスの活動をまとめる形で語られています。さらに続く7節から14節には、ヨハネが預言者エリヤの再来である、ということが記されています。
 ここで、バプテスマのヨハネが、「エリヤの再来である」ということは、バプテスマのヨハネという人の特別性を説明するためではなく、イエスが約束されたメシア、救い主であるということにこそ、重きが置かれています。なぜなら当時のユダヤ人たちは、ユダヤ人としての国家もローマに支配されており、神殿中心に行われていた祭儀も堕落してしまっている状態の中で、神が直接的に介入する救いが来る、その救いを実現する救い主、メシアが来られる、と祈り求めていました。そして、その神が直接的な介入となるメシアの到来の前触れにエリヤが来る、という信仰があり、バプテスマのヨハネこそ、そのエリヤである、と信じられたのです。

契約の主
 わたしは以前より、主なる神の働き、イエスさまの活動は大きく三つの分けられるのではないか、と考えています。それは、「契約」「和解」「創造」という三つの働きであります。そして、それぞれ「契約の主」「和解の主」そして「創造の主」として、イエスさまがこの世において、行われた様々な業を、わけて考えられることが出来るのではないか。そして更に、それぞれにおいて、良い面と悪い面があり、良い面が他の働きの悪い面を補っている、というように考えていま。
 例えば、今日のテキストであるマタイ福音書の特徴の一つは、律法への傾倒、であります。不完全であった「律法の完成者」、正しい「律法の解釈者」、「律法の継承者」としてのイエス・キリストという面です。ここには「契約の主」としての神のあり方が現れています。そして、旧約聖書の約束、預言を受け継ぐ存在、メシアとしてのイエスもこの要素に含まれるでしょう。
 「律法」とは契約に徴に、モーセを通してイスラエルの民に与えられたものであります。そしてイスラエルの民、ユダヤ人たちは、契約をした人ですから当然守らなければならないものです。しかし、意地悪くいうと契約していない人が守っても意味がないものです。そういった意味で言えば、「契約の主」の要素である律法と旧約聖書に約束されたメシア、救い主という要素は、ユダヤ人以外には関係がない、という話になってしまいます。

和解の主
 しかし、イエスの活動はそうした「契約の主」としての働きに限りませんでした。「和解の主」である神としての働き、活動を進めました。和解の主というのは、いわゆる神学の世界では、人と神の和解を指すことが多いのですが、人と人の和解ということで考えてみたい、と思います。人と人の和解は、イエスの様々な教えの中において語られています。放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32)、見失った羊のたとえ(マタイ18:12-14)など、様々な形で語られていることは、人と人の関係の回復の大切さではないでしょうか。本来は、捨てられても良いような存在であっても、大切にしなければならない、そしてその回復、和解が適ったときには、それを心の底から喜ぶべきなのだ、ということです。そして、人とは、そういった神の愛に対して、放蕩息子のたとえにおける兄にように、「えこひいきだ」とか「不当だ」と起こってしまう存在です。
また、いわゆる様々な癒しの記事においても、同じだと思うのです。病やケガによって、一般社会や家族から卑下され、追い出されてしまった人々。また、律法も守れない人々も「罪人」とされていました。しかし、イエスはそうした「罪人」とされてしまった人々を訪ね求めて、神さまに立ち帰ることを促し、癒しを行いました。ここで重要なのは、ただ病気などを治した、治療したというのではなく、そうした人々を家族や地域共同体へと戻ることを促した、ということです。人と人の和解をもたらし、あらゆる人々に神の救いをもたらそうとしたということです。これが「和解の主」としての働きです。

創造の主(聖霊と火)
 今日私たちに与えられました聖書の箇所マタイ福音書3章の11節をお読みしたい、と思います。
「3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
 最後の箇所、イエス・キリストは、わたしたちに「聖霊と火で洗礼を授ける」と記されています。ヨハネの洗礼を「水」で行われた、しかしイエスの洗礼は、「聖霊と火」で行われる、ということ。どういった意味でしょうか?わたしもいろいろと考えてみました。たとえば、「洗礼」という言葉がありますから、わたしたちの教会で伝統的に受け継いできたキリスト者であることの証明となる洗礼を「聖霊」と「火」で行うということでしょうか。「聖霊における」ということは理屈としては理解出来ますが、「火」で行う、というと。意味が分かりません。
 いろいろ考えた末にわたしがたどり着いたのは、この「聖霊と火」というのは、人の創造とその死のことを指すのではないか、ということでした。要するに、この言葉は、わたしたちの主なる神こそ、私たちの誕生と最後をつかさどり、その運命の全てを握っているのだ、ということなのではないか、ということです。そして、この役割が「創造の主」なる神の働きではないでしょうか。

創造の主が来られる

 創造の主とは、創世記1章に記されておりますような形で、この世界が創造された、
ということを信じるかどうか、ということではありません。わたしたち1人1人が確かに神自身によって創造された、ということを信じる、ということです。私たちは確かに肉体的には2人の両親の存在によって誕生した、といえるでしょう。しかし、その深いところで、人の力では分からない所で、主なる神が働いてわたしたちを生み出して下さった、ということを信じることであります。
 そして、こうした「創造の主」の働きに対して、重要だと思うことは、私たち1人1人が無条件に神さまに愛されている、と確信をもって信じるということです。たとえば、この信仰が強いのは、たった1人の立ち場になってしまったとしても、たった一人の迫害の状況、たとえば虐められるような状況におかれてしまったとしても、わたしは神さまに愛されているのだ、ということを根拠に、その歩みを始められるという強さがあります。
 今日、障がい者週間として、この礼拝を守っています。そして考えてみたいのは、障がい者に限らず、様々なマイノリティーと呼ばれる人々を孤独にしたいための心遣いができればなあ、と思うのです。まず第一に多くの障がい者が不安なのは、将来のこと。そして、そのことをなかなか人と分かち合うことができない、ということです。どうでしょうか?「可哀想」や「がんばって」という言葉。「可哀想」という言葉の背景にある差別意識。「この子はこのままで神さまに愛されている」と言ったとしても、「可哀想な存在」として考えられ受け止められてしまう。この子も他の子と同じように笑ったり泣いたりして毎日を過ごしているのに、何が違うのだろうか。また「がんばって」という言葉。東日本大震災の被災地においても言われておりますが、「がんばってね」と言われて、これ以上何を頑張れば良いのだろうか、という思い。たとえ思いやりに満ちた言葉だとしても、受け入れることが出来ないような状況があります。
 そんなとき、隣にいるのは、「創造の主」なる神ではないか、と思うのです。「教えや関係」でもなく、「隣人との間」にでもなく、とてつもない孤独にあったとしても、わたしの気持ちをただ1人、理解してくれるのがイエスさまであり、主なる神なのだ、という思いでした。

様々な形で
 主なる神の働きについて、「契約の主」「和解の主」「創造の主」として触れました。
わたしたちと神さまの関係とは、これら三つの主の働きがそれぞれの状況に応じて、出てくるのではないでしょうか。「契約の主」は、わたしたちと主との間に教えや関係の特別性が立つとき。そして「和解の主」は、隣人との関係において、そして「創造の主」は、わたしたち1人1人と神の関係において、働きとして現れるのではないでしょうか。常に主が、私たちが必要しているときに働いて下さることを願って祈りたい、と思います。
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まとめ【『創造の主が来られる】

『創造の主が来られる』(2012/11/11)マタイによる福音書 3:7〜12神の子としての旅の始まりマタイ
  1. 2012/11/22(木) 16:32:39 |
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