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『命の基なる主』(マルコ8:31-9:1)

2012.06.10(21:09) 138

『命の基なる主』
(2012/6/10)
マルコによる福音書 8章31節~9章1節

受難予告

今日の箇所、マルコ福音書における最初の受難預言の箇所であります。もう一度、今日の箇所の最初の1節、8章31節をお読みします。
「8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」
 イエスさまが、ユダヤの長老たちや祭司長や律法学者たちに逮捕され、十字架の死を死んで、復活するということ。そして、そのことを初めとして、わたしたちの教会は始まりました。
 なぜイエス様は十字架上の死を死なれたのでしょうか?日本基督教団信仰告白においては、このように記されています。
「 子は我ら罪人(つみびと)の救ひ(い)のために人となり、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにえ)として神にささげ、我らの贖ひ(あがない)となりたまへえり。」
 人が侵した様々な罪、本来それを贖う、犯した罪に応じて償いを果たす役割、その人自身にあります。しかし、イエスさまは神のひとり子でありながら、その役割を果たして下さった。そのことによって、あらゆる人が神の守り、救いに至る道が示されました。

サタンと呼ばれるペトロ
 しかし、このことは、イエスの第一のペトロでさえも、信じられないこと、りかいできないことでありました。ペトロはイエスさまを戒めます。イエスさまが歩まれようとしている歩み、その目的を理解していなかったからです。そして、ペトロだけではなく、他の弟子たちもイエス様が、自分たちの王となってくださる。そして、理想の国家を創り出してくれる、そして自分たちは王となったイエスに仕えて、ユダヤ人たちを導く存在となっていくのだ、と考えていたでしょう。だからこそ、十二弟子たちは、皆で「誰が一番偉いのか」と議論し(マルコ9:33-37)、弟子たちの中のヤコブとヨハネは、自分たちを12人の中でも高い地位に就けて下さい、と頼むのです。
 そして、イエス様はそうした弟子たちに対して、自らが十字架への道を歩むという予告と共に、同じような内容を意味する言葉を述べています。一つはマルコ福音書10章31節です。「先の者が後になる、後になる者は先になる。」そして、もう一つはヤコブとヨハネの弟子たちが王座の隣に座りたい、という願いを投げかけたときの言葉。マルコ福音書10章44節45節です。「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

自分の命/自分の十字架を背負って
 わたしたち人の人生というものは、一日一日は単調なものかもしれませんが、とても長い道のりであります。何故わたしたちは自分自身なのでしょうか?様々な言い方がされます。記憶の蓄積によって自分を自分として理解している、記憶の集合体である、という言い方をすることがあります。最近、見たテレビによりますと、あるコンピューター学者が自らの経験をコンピューターにすべて覚え込ませて、自分と同じ人格をもったコンピューターを創り出そうと計画しているそうです。
 また、人は誰でも、自分というものに対する疑問が生まれるときが若い時期、思春期の頃に経験します。「なぜ自分は自分なのか?」。「なぜ他の人として生まれなかったのか?」誰もが多かれ少なかれ、こんな思いを持ったのではないでしょうか?私なども、本当の両親がいるのではないか?もっとお金持ちの生まれたかった、とか、こんな人生を歩むはずではなかった?なぜ自分はこんなに苦しい歩みをしなければならなかったのか?そんな思いを誰もが一度は経験しているのではないでしょうか。そして、たとえ主イエスを自らの神として、信仰を持ったとしても、「なぜこんな運命を、神さまは与えたのか?」「神さまは、わたしに何を伝えようとしているのか?」
 今日の箇所8章34節35節をお読みします。
「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」どんな意味でしょうか。わたしたちはどのようにしたら、イエスさま、主なる神さまに従っていることになるのでしょうか。
 誰にでも、どんなことにしても、初めての時があります。聖書を始めて読んだとき、教会に初めて行ったとき、礼拝に初めて招かれたとき、があります。そして、それからしばらく経って、洗礼を受けたとき、クリスチャンとしてキリスト者としての歩みを公にして、歩みを始めたときがあるでしょう。わたしたちは、そのときの自分と今の自分で、どれだけ異なるでしょうか。たしかに人生の歩みの中で、日常の生活の中で、信仰生活の中でわたしたちは日々変化しています。しかし、主なる神との関係において、イエス様との関係において、わたしたちは変化したのでしょうか。

命の基なる主
 イエスさまは今日の箇所で、わたしたちに呼びかけています。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 自分の十字架とは、自分自身を受け入れることではないでしょうか。信仰を持つこと、キリスト者となることは、人の歩みの中で、たしかに大きな決定的な変化であるでしょう。しかし、信仰生活を続ける中においても、人としての歩みにおいても、自分自身こそ、敵であることがないでしょうか。イエス様に「サタンと呼びかけられたペトロ」のような弱さを持っています。
 しかし、福音書が明らかにしているのは、そんな弟子たちでさえも、イエスさまは招いていて下さったということではないでしょうか。例えば最後の晩餐において、ユダもそこに同席していました。また、イエスさまが十字架上の死を遂げた後、復活されたとき、弟子たちはどのような気持ちであっただろうか、と思います。逮捕されようとしていたとき、自分は逃げ出してしまいました。ペトロにおいては、三度もイエスさまを知らない、と誰であろうイエスさま自身に予告されて、その通りにしてしまいます。どのような顔をして、イエスさまに再会できるだろうか。
 しかし、イエスは復活し、弟子たちの前に現れました。それ自体が赦しであります。そして、それが教会の歴史の始まりでした。当たり前のことですが、イエスの赦しがなければ、教会の始まりも無く、わたしたちそれぞれの信仰の始まりもないのではないでしょうか。主イエスは常にわたしたちの前を歩んで下さっています。そして時折、迷い、絶望するわたしたちを、時に振り向き、手を差し伸べて、くださいます。主の導きを信じ、これからも歩んでいきましょう。
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