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『聖霊が共に働く』(使徒言行録2:1~11)

2012.05.30(06:47) 135

『聖霊が共に働く』
(2012/5/27)
使徒言行録 2章 1~11節

教会の広がり
 今日は、教会の誕生日、ペンテコステです。使徒言行録には、旧約聖書が「イエス・キリスト以前」、そして福音書が「イエス・キリストの時」、とするならば、それ以後の時、「教会の時」そして、細かくいうのであれば、その始まりの時、始まりの歩みを記した文書であります。使徒言行録は、福音書の一つ、ルカ福音書と同じ著者、同じ教会によって生み出されたものです。おそらく紀元後90年頃に成立したと思われております。そして目的としては、自分たちの日常の教会の現実と、イエス・キリストと弟子たちの歩み、そして十字架と復活を繋げる役割を持たせた、といえるのではないか、と思います。
 ところで、教会は何をするところでしょうか。使徒言行録2章42節には、原始教会の姿が描かれております。(P.217)
「2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」
 教会における活動として、ここに四つのことが記されています。
使徒の教え(聖書に記されている神の教えに聞くこと)、相互の交わり(助け合うこと、交流すること)、パンを裂くこと(聖餐を守ること、食卓を共にすること)、祈ること(文字どおり、祈ること)。これらの事柄が教会で行うことであり、今でもそれは変わらない、と言えます。
 そして、3章から28章までの箇所において、エルサレムからどのようにして、キリスト教が、イエスが神の子であり、救い主である、という教えがローマ帝国全土に広がっていったかについて記されています。イエスの一番弟子であったペトロ、そして一番最後の使徒であったパウロ、そしてその他の名も無きキリスト者によって、教会の歴史が始まったことが記されている文書であります。

宣教の困難さ(外部的要因)

 しかし、原始キリスト教、原始教会は、キリスト教伝道、宣教は、教会に集っている人々の願い通り、思い通りに広がっていったわけではありませんでした。そこには乗り越えなければならない多くの困難な要因がありました。その一つとして良く知られているのは、エルサレムにおけるキリスト教会への迫害がありました。
 今、「迫害」という言葉を使いましたが、わたしたちが知っているローマ帝国による皇帝や市民による迫害ではありません。この時代においては、キリスト教はキリスト教として、しっかりとした教会組織や教義(教え)があるわけではありません。ですから、まだユダヤ教の分派として、捉えられていた時のことで、キリスト教会自身も、キリスト教という名前を付けられていない時代のことです。ある意味で言えば、子どもが誕生するときの母親の痛みのように、キリスト教がキリスト教たるべき、教会が教会として立っていくために必要な痛みであったかもしれません。
 使徒言行録によれば、初代の弟子たち、最初に生まれた教会であるエルサレム教会の人々は、神殿に行って祈ることを当たり前の事としていました。
そして、その教会にいる人々は誰もがユダヤ人でした。しかし、徐々にユダヤ人以外の人々、異邦人と呼ばれる外国人もイエスをキリスト(救い主)として信じる人々が教会に集うようになってきました。神の教え、神の救いが、広がることは良いことでしょう。しかし、問題はそんなに単純ではありませんでした。
 周囲の人々から、エルサレム教会に対する不審な目が向けられるようになっていきました。何故か?それはユダヤ人と異邦人が一緒に食事をすることに対して、律法違反だ、という謗り、指摘を受けることになったからです。別にユダヤ人と異邦人(外国人)が教会に集まって集会をすることは自由だったでしょう。しかし、一緒に食事をするとなると、それは律法違反に当たります。ですから、教会に不審な目が向けられるようになり、また教会の中においても、ユダヤ人と異邦人の間で、溝が出来てくる。またその流れの中で、教会にいる異邦人たちが迫害されるようになっていった。そして、ついにはステファノという異邦人のキリスト教徒が、ユダヤ人に捕まえられて、石打の刑によって殺されてしまいました。そのことによって、エルサレムにいた異邦人のキリスト教徒は、エルサレムを出て、他の町に行って、集会を行い、教会を建てるようになった。要するに伝道するようになった。最初から広げようと思っていたわけではなく、迫害の結果、教会が広がっていったということができるのです(使徒言行録7章)。

パウロとペトロ(内部的要因)

 また、そうした動きは、外部からの要因だけではなく、わたしたちが良く名を知っている使徒たちパウロやペトロにもあったと言えます。教会の中の民族的な違いが内部的にも様々なぶつかりをもたらすようになりました。パウロの出身教会であり長い時を過ごしたアンティオキアという都市にある教会。エルサレムから北に500km。異邦人ばかりの教会です。異邦人のキリスト教徒も、ユダヤ人のキリスト教徒もいます。そして、そこではエルサレム教会において、問題となったユダヤ人と異邦人の食事も行われていました。パウロはその教会で指導者として働いており、ペトロも滞在していました。そこである事件が起きました。これはガラテヤの信徒への手紙2章11節から14節で、パウロが昔の話として、記していることです。
 あるとき、エルサレム教会からある指導的な立場にある人々がやってきました。そしてアンティオキア教会の人々は一緒に食事を取っているときでした。すると、ペトロがその席から立ち去ってしまいました。そして、その他のユダヤ人たちもその食卓の席から立ち去っていきました。そしてパウロはそのことに怒りを覚えて、ペトロに食ってかかってこう言いました。(P.344)
「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
 パウロとしては、そうとう感情を害して、頭に来ていたでしょう。パウロ自身、キリスト教とは、そうしたユダヤ人と異邦人の違いを乗り越えるものだ、という強い思いがありました。たとえ、それがユダヤ教の律法であったとしても、キリスト教の教え、たとえば聖餐式が洗礼によって、救われた人々が誰でも受けられるように、一緒に食卓を守ることは当たり前の事、民族や風習を超えて、隣人愛、許し合いなさい、という教えを基にして、とても教会において重要なことだと思っていたと思われます。
しかし、それが第一の使徒とも言えるペトロによって、その食卓の場が完全に破壊されてしまう。頭に来ないはずがありません。また、深い裏切りと感じたでしょう。
 エルサレム教会から来た人々。ユダヤ人と異邦人は一緒の食卓の席に付くなど、とても想像することも出来ない人々です。そして、どんな教会においても、そうあるべきだ、と考えていました。そして、もしも異邦人とユダヤ人が一緒に食事を取るようなことがあったとしたら、とても同じキリスト教と認められない、というぐらいの考え方であったのではないでしょうか。ペトロはそんな人の思いを知っていて、席を立ったのでしょう。ここでエルサレム教会の人々が感情を害したら、教会の繋がりが壊れてしまう、そんな思いがあったのではないでしょう。
 ペトロの考え方は、中庸な考え方、両者の真ん中の考え方と言えるでしょう。エルサレム教会において行われていること、ユダヤ人だけによる食事はそれとして受け入れる。そして、アンティオキア教会において、行われていたユダヤ人と異邦人が共にする食卓も受け入れていました。しかし、エルサレム教会の人々がアンティオキア教会にやってきたとき、ペトロはエルサレム教会の人々の考え方を知っていたので、つい食卓の席から身をひいてしまったのでしょう。
 パウロも怒るかも知れない、と思っていたでしょう。そしてエルサレム教会の人々も怒るかも知れない。どうするでしょうか?2人とも大好きな人たち、しかしどちらとも頑固で、しっかりした考え方を持っている。どちらかにつかなければ関係が壊れてしまう。すごい緊張感であったのではないでしょうか。そして最終的にペトロは席を立ってしまう。エルサレム教会の人々に対して、違和感を持ちながらも、仕方が無い、と感じた、とも。パウロだったら赦してくれるかも…、という思いがあったのか。どちらかでしょう。
 で、そのことを切っ掛けにして多くのユダヤ人たちが席を立ち、その場は大混乱に陥ったでしょう。第一の使徒であるペトロが席を立ったのですから。パウロはペトロの行動に対して、怒りをあらわにする。パウロが信頼していた仲間もペトロの行動に従ってしまう。パウロはおそらくこのことによって、アンティオキア教会における自らの立場を失ってしまい、同労者である人々とも考え方の違いを目の当たりにし、傷ついて、宣教の旅へと旅立ちました。

ペンテコステという出来事

 今日は、教会の誕生日、ペンテコステです。今日お読みしました記事には教会が、イエス・キリストが天に昇った後、聖霊が降臨することによってはじまった、と記されております。今日お読みしました箇所をもう一度お読みします。使徒言行録2章1~3節をお読みします。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」
 「激しい風」とは霊を感じさせます。ヘブライ語における「風」をさす言葉「ルーアッハ」は霊と共に「風」をさす言葉で霊が降りてきたようですが、これは神の力の働きがここに起こった印と読んでも良いでしょう。神の力が現れ、「炎のような舌」がここに降りてくるのです。

そして、4節をお読みします。
「2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
「ほかの国々の言葉で話しだした」。聖書の中には、この出来事とまったく同じ事柄でありながら、全く逆の評価を得ている出来事があります。「バベルの塔の物語」です。言葉が通じなくなって、同じ価値観、同じ目的を持つことが出来なくなってしまった、と言えるのではないでしょうか。スポーツがチームによって別れてしまうように、敵同士になるというよりは、目指すべき山が代わってしまった。そういうことが起こったのでしょう。が、使徒言行録において、まったく同じことが起こっているのに、まったく逆の動きをしています。6節から8節をお読みします。
「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」
 二つのことが言えると思います。バベルの塔においては、ただ言葉が通じなくなった、と記されている。しかし、ここでは、それぞれの人が「自分の故郷の言葉」を聞いた、となっている、積極的な意味になっていることです。そして、これらの地域は、エルサレムの周囲の地域であり、これからキリスト教が広がっていく地域と言えます。

聖霊による和解
 聖霊による導きを考えるとき、人の意志を超えて、働くということを意識することが重要でしょう。使徒言行録に記されている、教会の広がりの物語は、人の思いそのままに神の導きそのままに広がっていったとは言えないのです。使徒言行録の著者は、そうしたぶつかり合いをなるべく書かないようにしているのですが、多くの考えの違い、多くの人と人の間のぶつかり合いや失望、絶望がありました。そして、そうした1人1人の思いが、まったく想像もつかない形で、実を結んでいったのです。
 そして、そうした動きの基に聖霊の働きがあった、ということが出来るのではないでしょうか。使徒であるペトロとパウロでさえ、考えの違いがありました。また、パウロの伝道旅行は、ペトロとの争い、教会内における不一致がもたらした、と言えます。またパウロはこうした対立、意見の違いがありながら、経済的に困難な状況にあったエルサレムへ献金を届ける活動をすすめます。なぜなしえたのでしょうか?その根底に、まさに聖霊の導きがあったのではないでしょうか。他の様々な名も知れないキリスト教徒、宣教者の働きも同じで、人の意志では理解することが出来ない聖霊の働きによって、導かれたということはできないでしょうか。
 今日は、教会の誕生を祝う日であります。そして、その時、聖霊が私たちに下ったと聖書には記されています。聖霊とは主なる神が、旧約聖書に記された「遠くにあり、あがめられる神」とも異なり、そしてイエスという形を取られた「先を歩まれる神」とも違う、「わたしたちの間にあって」「共にある」神として現れました。
 そして、わたしたちが自分の意志に頑なになっているとき、聖霊は、その頑なさを打ち砕いて下さる神さまではないか。教会の始まりには、様々な意見の違いや軋轢がありました。そして今も様々な形で教会は課題を持っております。一つ一つの教会においても、個々の教団や教派においても、世界の教会においても、同じでしょう。しかし、そうした課題があるからこそ、わたしたちである、と言えます。
 また、そうしたわたしたちだからこそ、神の導き、聖霊が共にあることが必要ということはできないでしょうか。常にどのような状況においても、絶望することなく、聖霊による和解、導きを求めて歩んでいきたいものです。今日はペンテコステです。聖霊が与えられたことを思い起こしましょう。そして過去も現在も、また未来においても、わたしたちを導いてくださる主なる神の御力を信じ、これからも歩んでいきましょう。
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