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『マルタかマリアかを超えて』(ルカ福音書10:38〜42)

2019.09.03(18:53) 395

『マルタかマリアかを超えて』
(2019/9/1)
ルカによる福音書 10章38~42節

ラクに行こうぜ
 もう亡くなって10年にもなるが、忌野清志郎というロックミュージシャンがいた。彼の世界観や言葉のセンスが好きで、けっこう聴いていた。RCサクセションというバンドでも有名である。派手なパフォーマンスや化粧で目立っていたが、音楽的に何が優れていたか、と言えば、日本語が持つ、そのままのイントネーションで、いわゆるロックミュージックをやったところに新しさがあったらしい。彼の曲の中で、こんな曲があります。
「幸せになりたいけど 頑張りたくない 幸せになりたいけど 頑張りたくない
 Oh Yeah ラクに行こうぜ グッグッグ
 幸せを探してる ずいぶん長い間 幸せを探してる でもまだ見つからない
 Oh Yeah ラクに行こうぜ グッグッグ ジタバタしたって 始まらないのさ
 目の前にある 幸せに気づきたい Oh Yeah 幸せになりたいけど 頑張りたくない
 幸せになりたいけど 頑張りたくない
 Oh Yeah ラクに行こうぜ グッグッグ ラクに行こうぜ グッグッグ
 ジタバタしたって 始まらないのさ 目の前にある 幸せに気づきたい Oh Yeah
 幸せになりたいけど 頑張りたくない 幸せになりたいけど 頑張りたくない Oh Yeah
 ラクに行こうぜ グッグッグ Oh Oh 頑張りたくない No No No 頑張りたくない
 幸せになりたいけど Yeah でも頑張りたくない 頑張りたくない 頑張りたくない 」

 確かに、私たちは幸せを求めて生きているが、なかなかそれがどこにあるのか、また幸せになろうとする努力で疲れ果てている、という人もいるかもしれません。また、どうでしょうか?クリスチャンという人種、キリスト者という人々は、幸せになるために、とは言わないが、この世の中、この世界、この国、また自分の身の回りをよくしようと努力する、ということが当たり前のこととして、またそうしなければならない、と自分に強いていないだろうか。今日の箇所においては、マルタのような態度かもしれません。

マルタとマリア
 マルタとマリアという2人の姉妹は、ルカのこの箇所以外にも、ヨハネ福音書で、イエスによって甦りを経験したラザロのきょうだいとして描かれています。ヨハネ福音書の中でも2人は対称的な存在として描かれています。マルタは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:17以下)とイエスから問われ、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えた、つまり信仰告白を行った、などという記述から、行動と実践的生活の人としてとらえられる。
 一方、マリアはイエスの足下に座って静かに耳を傾ける姿や、食事の席で高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった、といういわば「葬りの儀式」を黙って行ったエピソードから、黙想と理論的な人としてとらえられている。これは後の時代に、この2人の姉妹をめぐる解釈の中で、より明確にそれぞれの特徴が分けられ、イエスの言葉を根拠として、捉えられていき、ついには今日の箇所のイエスの言葉から、キリスト者としてはマリア的な姿勢、存在の方が優位であるという理解に発展していったと考えられるようになったと解釈できる。

マルタの思い、マリアの思い
 そんなことをベースにして、もう一度、今日の箇所を読み返してみたい。たくさんの客人が来て、マルタが給仕を行い、マリアはイエスの言葉に耳を傾けるために座っていた、とある。そして、マルタが、イエスに問う。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。
 これは明らかにイエスに問いを発した、というだけではなく、自分とマリアという対称的な2人を見て、何とも思わないのかという批判であったと言える。そして、こうしたマルタの姿は、ヨハネ福音書11章21節にも見られます。(P.189)
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。
 力強い信仰告白とも言えますが、同時に全能神であるはずのイエスに対する批判とも受け取れます。このように見てみますと、信仰的にみて、主なる神、イエスに対して、マルタは主体的、積極性を持った信仰のあり方を、マリアは受け身的、受容性とも言えるかもしれません。そして、一般的なキリスト者とすれば、今日の箇所では、マリアの方が良い、とされているわけです。

理想像の逆投影
 今日の箇所に戻って、マルタに対するイエスが返した言葉をお読みします。ルカ福音書10章41節42節。
「(10:41) 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。(10:42) しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 イエスは、何を言っているのか。マルタさん、あなたがやっていることは大切だけど、ちょっと、てんぱってませんか。ゆっくりマリアさんのように、話に耳を傾けてみませんか?ということですよね。でも、これ実際の教会でも、よくあることです。教会総会や懇談会、講演会、映画会、誰がお茶やお菓子、食事の準備をするの?!って、だいたい議論になります。また、もめたりします。またまた、どうでしょうか?また、こうしたことは、原始教会、初代教会でもあったかもしれないんですよね。使徒言行録6章1節から4節をお読みします。(P.223)
「(6:1) そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。 (6:2) そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。(6:3) それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。(6:4) わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」」
 食事の世話とは、ようするに給仕のこと、そして食事の量の話ですよね。何時の時代も、食べ物とお金の話は、揉め事になりやすいもので、初期の教会からそうだったのでしょう。そうしたことから、今日の箇所、マルタとマリアの議論に対するイエスの言葉は、そうした揉め事に対する戒めとして、記された、と考えられるだろう。

奉仕と御言葉
 今日の箇所、マルタの行いで使われている「もてなし」という単語、ギリシャ語では、「ディアドコイ」と言い、「もてなし」「仕える」「給仕する」とも訳せる言葉であります。先ほどの使徒言行録でも「食事の世話をする」という言葉がありましたら、これのギリシャ語も「ディアドコイ」であります。とても意味が広い言葉であり、人のために何かすること、ということ。それを日本語の聖書においては、文脈によって訳し分けているのでしょう。いわゆるキリスト教会で語られる「奉仕」は、ギリシャ語では、「ディアコニア」と言われます。そして、「奉仕」、「務め」、「援助」とも訳され、奉仕にしても、援助にしても、キリスト教精神に基づく他者への奉仕といった意味合いで用いられます。そして、キリスト教団体や施設でも、老人ホームや社会正義、社会福祉、いわゆるボランティア活動に関わる団体の名前に用いられたりしています。
 そうしたキリスト教精神に基づいた行動すべてがマルタであるとしたら、マリアの行動、姿勢はどういったことを指すのでしょうか。それは、聖書を読むこと、またその解き明かしに耳を傾けること、祈ることになるのではないでしょうか。そして、マルタ的なあり方にしても、マリア的なあり方にしても、どちらが良いというわけではなく、どちらも欠かせない両輪のようなものではないでしょうか。

「がんばり」を求められる時代、「がんばらければ」生きられないのか
 一番最初に紹介しました忌野清志郎、RCサクセションとして、人気が絶頂だった頃、音楽的にも変化を求めていたのか、突然、政治的に政治家批判や平和をテーマにした曲、そして反原発の曲を書き始めて、契約していたレコード会社からアルバムを禁じられたり(後の他の会社から発売)、メンバーも減っていき、後に解散してしまいます。
 彼の曲の中には、等身大の人のリアリティがあり、またいわゆる市井の人々への愛があるように思います。いわゆる売れているポップミュージックでは、努力とか奇跡とか、重んじる傾向があります。要するに、努力をしなければ幸せになれない、努力をしなければ、成功しないっというメッセージがあるように思います。そして、世の中の雰囲気として、がんばらなければ幸せにはなれない、がんばらなければ生き残れない、といった空気がある。それは、他国との関係についても、勝たなければならない、という意識が出てくる。それがついには、国内においては全体主義、国家間においては戦争へという話になっていくのではないでしょうか。今日紹介した曲はそうしたパターンを否定しており、とても呑気な曲のようですが、ある意味で革命的な曲と言えるのではないか、と。

マルタかマリアかを超えて
 最後に、イエスの言葉にかえって読んでみたいのですが、ギリシャ語から42節を読むと、実は日本語訳とニュアンスが異なるのを感じる。「必要なことはただ1つだけ」と日本語の字面でとらえると、真理が一つである、というように、何物にも左右されない、絶対的なただ1つの答えがそこに用意されている、その「正解」に気付くか気付かないか、それがポイントであるかのように受けとめられやすいことばになっている。
 しかし、その後「マリアは良い方を選んだ」という言葉について。直訳すると、「マリアにとってよりしっくりくる(fitting)分け前を彼女は選んだ」となるのだ。ようするに、その時、マリアに必要なことをしていた、ということである。すると、このような捉え方が出来るのではないだろうか。
 マリアにとってイエスの話に耳を傾けるのは、マリアにとって必要なことであった。そして、マルタに対して、そのように感じるのあれば、マリアと同じように耳を傾ければ良いんじゃないか?また、マリアも時に、マルタのように心砕かれることもあるのではないでしょうか。そして、私のいる場所とは、そうしたことをとがめる場所ではないのだよ、と伝えているのではないでしょうか。


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