FC2ブログ

タイトル画像

『ユダヤ人とサマリア人の境界線』(ルカ福音書9:51〜56)

2019.03.17(22:16) 388

『ユダヤ人とサマリア人の境界線』
(2019/3/17)
ルカによる福音書  9:51~56

ユダヤ人にとってのサマリア人
 ユダヤ人にとってのサマリア人は、どのような存在だったのでしょうか。なぜ、新約聖書において知ることができますが、ユダヤ人たちから嫌われていたのか。それには、歴史的な背景があります。一つ目の要素としては、ダビデ王朝の終わり、ソロモン王が亡くなった後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。分裂したのが、紀元前922年です。その後、北王国と南王国で関係が良かった時代もあり、戦争状態の時代もありました。
 そして紀元前722年に、ちょうど200年後、北イスラエル王国は、アッシリア帝国に滅ぼされます。アッシリア帝国は、支配した地域、民族に対して、まず強制的に移住させて、雑婚させるという強制移住雑婚政策を行いました。ようするにそれぞれの民族や地域が持つアイデンティティや宗教性を薄めることによって、支配しやすくするって政策です。ようするに、すべての人々をアッシリア帝国人にしようとする政策でした。そして、こうした政策の結果、ユダヤ人から見て、サマリア人とは、ユダヤ人からすれば、汚れた血統の民族という扱いを受けることになりました。

サマリア人にとってのユダヤ人
 そして、ユダヤ人の話に移ります。北イスラエル王国が滅びてから、およその150年後の紀元前586年、南ユダ王国は、バビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。バビロニア帝国はアッシリア帝国も滅ぼしてしまっているのですが、バビロニア帝国は支配した地域の支配階級を首都バビロンへ強制移住させる政策を行いました。いわゆるバビロン捕囚と言われるもので、おおよそ10,000人と考えられて、エルサレムのほとんどの人々が連れ去れてしまったと考えられます。そして、連れ去れた後のエルサレムは、神殿も破壊され、廃墟となってしまいました。
 そして、その後、オリエント世界の盟主は、アッシリア、バビロニアと変わってきましたが、ペルシア帝国という帝国が、全地域を支配することとなりました。そして、どのようなことが起こったか、バビロンに移住させられていた多くの民族に対して、紀元前538年、キョロスの勅令と言いますが、自らの故郷、地域に帰るように解放令が発令されます。そのことによって、バビロンに居住していた多くのユダヤ人がエルサレムへの帰還を目指すことになります。そのことによって、またエルサレムがユダヤ人の首都となり、解放令から、18年後の紀元前520年に神殿が再建されるのですが、道のりは大変なものでした。
 なぜ、大変だったのか?一つは、解放されたとはいえ、バビロンでの生活になれてしまい、エルサレムに帰ろうという気持ちになる人が少なかったということです。世界第一の都市での生活をすてて、わざわざ何百キロも離れた廃墟へ行き、町と神殿を再建しようという困難な計画に、ユダヤ人としてのアイデンティティに関わることとは言え、多くの人が挫折してしまったみたいなのです。そして、残ったユダヤ人たちによって、バビロニア・タルムードという優れたタルムードができあがります。
 そしてもう一方のエルサレムへ帰還し、神殿を再建しようとした人々には、思わぬ困難がもう一つありました。それは、サマリア人の存在でした。一つは、こんなことがありました。もともとは同じ民族、同じ神を信じている兄弟のような民族ですから、サマリア人は、神殿の再建の支援をしましょうか、とユダヤ人に呼びかけました。しかし、サマリア人は純粋なイスラエルの血統ではない、という理由でその支援を断ってしまいました。そして、もう一つ、政治的な事情がありました。ペルシア帝国は、領内を20ぐらいの行政区に分け、総督をおいて支配していました。そして当時、エルサレムがある地域の総督は北イスラエルにルーツをもつ人、つまりサマリア人だったわけです。その立場から考えてみますと、ユダヤ人のエルサレム帰還はペルシア王公認の事業です。ですから、ユダヤ人の帰還が上手くいった場合、自分の領地が減ってしまうということで、あまり協力しなかった、またむしろ邪魔をしたらしいのですね。
 そうしたことからユダヤ人はサマリア人を憎むようになった。そして、サマリア人の方としては、イエスの時代に至るまでに、ユダヤ人が強くなって、ユダヤ人がサマリア人を支配して、サマリア人の神殿を破壊してしまったりする、など。このように、歴史的にいろいろな事情があって、ユダヤ人とサマリア人は憎み合うようになってしまったのです。

キリスト教信仰にとってのエルサレム
 今日の聖書の箇所において、エルサレムに行く決意をもったイエスは、サマリア人の村へと立ち寄ります。エルサレムへ向かうにあたって、カファルナウムを中心としてガリラヤ地域からエルサレムへ向かうとなれば、ヨルダン川の西側を通りますので、サマリア地域を通るのは、自然なことです。しかし、サマリアの人は、イエスのことをないがしろにします。その理由については、何もしるされていませんが、弟子たちは憤慨して、言います。9章54節。
「9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。」
 これは、旧約聖書に記されているエリヤに関する物語に重なっています。ようするに、異教徒に対する裁きを重ねているわけです。しかし、イエスはその2人を戒めます。なぜかは記されていません。しかし、ルカの福音書の文脈でいえば、11章には、『善きサマリア人の例え』があり、宗教性や倫理性は民族によらない、という考え方をイエスはしていた、と言いたかったのでしょう。

『金子文子と朴烈』から
 先日、『金子文子と朴烈(パクヨル)』という映画を見てきました。大正時代、1923年に起こった関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺の混乱によって戒厳令で出されました。時の政府は、この混乱時に反乱が起こってならないとして、多くの民主運動活動家やアナーキストが虐殺されました。そして、金子文子と朴烈もそうした人々と同列に扱われることが多いのですが、彼らは皇太子を暗殺しようとしたという嫌疑をかけられ、有罪判決を受け、金子文子が獄死、朴烈(パクヨル)は、無期懲役刑を言い渡されますが、戦後、釈放される、という運命を歩みました。
 その映画自体、とても興味深いものだったのですが、まず韓国映画であったということ。しかし、映画のほとんどは日本語での会話で締められています。そして描かれる内容として、厳しい天皇制批判もあり、日本での映画化は難しいだろうな、と感じました。また、全編において、非常に政治的な空気というものを感じず、とても明るいということでした。そこから政治的なテーマというのは、「生き方」の問題なのだ、ということを感じました。また、本筋から離れますが、政府要人たちの徹底した韓国名の日本語読み。また、政府の都合によって、様々な真実が隠されようとする動き…。
 また、そうした在日韓国朝鮮人、在日コリアンの気持ち、被支配民族の気持ちに支配している側は、よっぽどの想像力を持たなければ、寄り添うことが出来ないっていう事実を突きつけられました。終戦時、こんな逸話があったらしいです。敗戦を知らされた日本人たちは、誰もが落胆していたそうなのですが、在日コリアンたちは、万歳をしていました。「戦争が終わった!日本の支配が終わる!自由になれる!」っと。とても当たり前です。しかし、日本人たちは、その在日コリアンたちの姿を見て、憎悪したらしいのですね。それが現在にまで続いている、と。身勝手な考え方ですが、味方だと思っていた在日コリアンの人々に裏切られた、と感じたそうなのです。自分たちがその人たちを傷つけてきたこと、踏みつけてきたことなど、すべて、その憎しみによって消えてしまった。そして、恐怖という感情も持ち、過去をしらない世代になればなるほど、憎しみのみが残ってしまう、と。

ユダヤ人とサマリア人の境界線
 ユダヤ人とサマリア人の間、境界線もお互いにそんな感情だったのではないでしょうか。民族として、世代として、積み重なった無理解や憎悪、そして思い込み、そうしたことにイエスの弟子たちさえもとらわれていた。イエスはどうだったのか、少なくとも、『善きサマリア人の例え』のようなことを言ったのですから、イエスはそのような意識は持っておらず、民族性や宗教性といったその人の背景ではなく、その人自身との繋がりをもっていたのではないでしょうか。今日の箇所においても、神殿の場所が問題とされています。神殿、神に祈る場所は、エルサレムなのか、サマリア人の聖所ゲリジム山なのか。イエスはそうした発想に捕らわれていなかったのではないでしょうか。また、それならば、なぜエルサレムに向かったのか、それは神殿がそこにあるからではなく、主なる神への信仰の形を変えようと、エルサレムに向かったと考えられるのではないでしょうか。
 今日の説教題は、ユダヤ人とサマリア人の境界線としました。民族的にみれば、時代も違い、アジアの私たちからすれば、ほとんど同じ民と言えます。そしてアジアの民もオリエント社会の人々から同じと言えるでしょう。しかし、近いからこそ見えてくる違いというのは、実は兄弟ゲンカのようなものなのではないでしょうか。ルカ福音書は、キリスト教がローマ帝国内の広い地域へ、様々な民族へと広がっていくことを意識して描かれています。サマリア人の存在は、ユダヤ人イエス、ユダヤ人の宗教として生まれたキリスト教の最初の境界線(ボーダー)として捉えられたのかもしれません。宗教とは、どのようなものであっても、境界線を作る、と言えるのではないでしょうか。しかし、境界線を壊し続ける宗教として、キリスト教を捉えることは出来ないだろうか。ユダヤ人とサマリア人の関係から、そんな課題について考えさせられました。

1903172.png 1903171.png

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 名古屋情報へ
にほんブログ村
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



スポンサーサイト

周縁自体


2019年03月
  1. 『ユダヤ人とサマリア人の境界線』(ルカ福音書9:51〜56)(03/17)
次のページ
次のページ