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『弟子たちの自分ルールとイエスルール」(ルカ福音書9:46〜50)

2019.01.24(15:31) 385

『弟子たちの自分ルールとイエスルール』
(2019/1/20)
ルカによる福音書  9:46~50

弟子たち(私たち)の受け取り方
 この箇所はマタイにもマルコにも並行箇所が存在しており、それぞれのとらえ方の違いを確認することから、読み解いていきたいと思います。まず最初に記されたと考えられるマルコについて触れてみます。マルコ福音書9章35節から37節。(P.80)
「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」」
 マルコにおいては、弟子という視点というよりも、キリスト者としてのあるべき姿を語っていると言えます。そしてそれに対して、マタイにおいても、ルカにおいても、教会という視点が加わっている、と推測することができます。マタイにおける箇所について考えてみたい、と思います。マタイ福音書18章1~5節です。お読みします。
『18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」』(P.34)
 3節の『はっきり言っておく。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、天の国には入ることはできない。」』となっています。今日の箇所にあたる、もともとのマルコではイエスを受け入れることは、「子供を受け入れること」だ、というたとえになっているのに、マタイでは「子供のようになること」と課題とされ、それが成し遂げられたら「天の国に入ることができる」と、その課題が「天の国」に入る条件として、受け取っています。
 そして今日の箇所ルカ福音書をお読みします。9章48節をお読みします。
『9:48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」』(P.124)
 この後半の箇所『あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。』とルカでは「偉い人」は誰かに焦点が当たっており、逆にマルコにありました35節の「仕える者になれ」という言葉は削られてしまっております。ですから、ルカではイエスの言葉は、「価値の逆転」を述べたモノとして捉えられている、と言えます。ルカにおいては、律法に対して、キリスト者としての倫理を述べようとしている意志が見られます。律法において「子ども」は、価値のない存在です。しかし、そのような子どもこそ受け入れるべきである、と。そして、ルカは異邦人への教会の広がりを重んじていました。ルカの教会は、子どもという存在に、律法的に見れば、汚れた存在とされる、異邦人を重ねたのではないでしょうか。

マタイの視点、マルコの視点
 マタイの視点は、あくまで教会の一人一人が「天の国」、「神の国」に入るためにどうしたらよいのか、という視点に意志が行っております。これはイエスを旧約聖書、律法の完成者、律法の最高の教師として見るマタイらしい解釈と言えるでしょう。イエスが与えて下さった律法の実現を重んじるマタイの立場としては、「子どものようになる」などとは、本来あまり好ましいことではないでしょう。しかし、それをあえてしろと言うのには、何か理由と目的がある、「子どものようになる」という行為も実践すべき教えの一つであり、これも神の国に入るのにふさわしい者となるためだということなのでしょう。
 そしてマルコとしては、子どもの関する比喩をキリスト者としてあるべき姿として受け取ったのでしょう。それが最もシンプルな形であります。律法的には、劣った存在である「子ども」。ただ、こういうことも言えます。神の前には、誰でも「子ども」のような存在である、という視点。ここから生まれてくる視点は、どのような上下関係もキリスト教共同体、イエスの弟子集団は取らない、ということも言えるのでは無いでしょうか。そして、それはマルコ福音書に現れている弟子批判にも繋がります。一番の弟子とされていたペトロでさえ、イエスを裏切り続けていた。また誰もがイエスの前には、神の前には、不完全である、という姿勢にも重なります。

子どもでありなさい、という教え
 子どもとはどのような存在でしょうか。当時のユダヤ人社会において、子どもとは価値のない存在であり12歳の成人の儀式をすぎなければ、一人前とは認められませんでした。また女性は12歳になっても低い存在として捉えられておりました。(「女子ども」という言葉)そうした者を受け入れろ、と言うわけです。そして、一般的に、この言葉には、イエスの慈愛、そして神の慈愛が込められた箇所として捉えることが多いでしょう。しかし、イエスの弟子たち、そして一般のユダヤ人たちは、どちらかといえば、このイエスの言葉を律法の問題として聞いたのではないでしょうか。
 弟子たちにしても、一般のユダヤ人にしても、イエスのことを、新しい律法の捉え方を語る教師、ラビと考えていたでしょう。とすると、やはり子どもの言及は、律法という価値観に基づいて聞いたはずです。それに対して、弱い子どもを守る存在として、また人を神の前における「子ども」という視点もキリスト教的な捉え方と言えるでしょう。

逆らわない者は味方?
 そして、今日の箇所には、もう一つのテーマがあります。ルカ福音書9章49節50節。
「そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」」
 キリスト教伝統の中に、洗礼というものがあります。多くのキリスト教会において行われています。そして、洗礼を授けるのは、教職(司祭、牧師)でなければならないとされています。そして、その教職になるためには、現在では、教職養成課程や試験制度などがあり、それぞれの教派、教団に認められて、教職となるわけです。日本基督教団ですと、神学校などを卒業した後、まずは、試験を受けて「補教師」というものになり、それから2年半以上の経験を経て、「正教師」というものになります。いろいろな教派的伝統のいろんな要素を組み合わせて、このようなシステムになっています。
 49節の言葉、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と言っています。要するに、別の教会の宣教とか伝道に対する批判と捉えることができるでしょう。
 しかし、イエスはそうした視点にあり方について、否をいっているといえます。
「イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」
 イエスは教会的な視点などなかったでしょう。また教会は、その歴史の中で、分裂や争いを繰り返してきました。多くの場合、教会同士が争うときは、より自分の方が正しい、という尺度が出てきてしまいます。

自分ルールとしないために
 今日の説教題は、「弟子たちの自分ルールとイエスルール」としました。「自分ルール」というのは、自分勝手な自分たちだけに都合の良いルールという意味です。そうしたあり方が教会のあり方としてふさわしいのだろうか、ということを教会の組織のあり方として考えてしまうことがあります。それに対するイエスの言葉というのは、とても刺激的であり、とても難しいハードルであると感じます。教会はその歴史の中において、集団としての秩序を守るために、否定的な意味だけではなく、知恵を駆使してきました。イエスの言葉は、そうした教会のあり方は、常に変化する可能性があるものとである、不完全なものである、という意識を持つことを促すのでは無いでしょうか。例えば、女性の教職制、実は2000年の歴史の中においては、未だ始まったばかりのことと言えます。ゲイやレズビアンなどのセクシャルマイノリティの存在、捉え方についても、未だに混乱した状態です。
 イエスが言っている「子供(の1人)を受け入れるように」というのは、どのようにくだらないと思うようなことであっても、自分自身の有り様を見つめ直して、新しい一歩を踏み出そうということではないでしょうか。そのための一つの指針、目印として、様々なルールが、教会、キリスト者、クリスチャン、自分の自分ルールになっていないか、と見つめ直すことが大事なのではないでしょうか。
 キリスト教そして教会は、聖書の言葉によって形づけられています。そして、聖書の言葉によって、また新しく変えられていくのではないか、と感じています。今という時代の中において、私たちの置かれている状況の中で、どのような教会のあり方、信仰のあり方を目指していくのか、改めて考えていく必要があるのかもしれません。イエスが伝えて下さった福音を自分ルールにしないように、常に「神の子」であることを忘れずに歩んでいきましょう。

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