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『ヨセフにとってのクリスマス』(マタイ福音書 1:18~25)

2018.12.26(16:22) 384

『ヨセフにとってのクリスマス』(マタイによる福音書 1:18~25)

正しい人ヨセフ
 今日は、ヨセフの視点に立ってイエスの誕生、父ヨセフにとっての子であるイエスについて考えてみたい、と思います。今日の箇所で、このヨセフ、マリアが結婚前であったのにも関わらず、イエスを身ごもっていたことを知り、19節において「正しい人」であったので、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろう」としたと記されております。
 このヨセフの「正しさ」、実は様々な捉え方が出来ると思います。どうでしょうか、一般的にも、多くの人の価値観においても、「離縁」しようとしたのは、ヨセフと婚約していたマリアが結婚前であったのに、妊娠したというのは他の男性と望ましくない関係があった証拠だ、と。だから、離縁しよう、と。そんな女性とは結婚できない。そんな「正しさ」をヨセフは持っていた、と。そのような説明がしやすいものです。

律法的に正しいヨセフ
 しかし、そうではなく、そうした正しさを曲げて、当時の律法の解釈によれば、婚約中、結婚前に妊娠していたことが明らかになったら、マリアは死刑になってしまうことになっていました。そこでヨセフは、そうしたことをさけるために、ヨセフは結婚しないことにしたのだ、という捉え方です。婚約を破棄するというのは、当時で言えば、離婚するに等しいことです。さらに結婚前なのに、子どもがいたとなれば、たしかに、マリアは様々な非難を受けるかもしれません。しかし、結婚前に離婚してしまえば、死刑になることからは免れる。そして、子どもも母親を失うことは無い、と。そんな理由からヨセフは、マリアと離縁、別れようとした、というお話です。なるほど、ヨセフという人、実はとっても思いやりに富んだ人だったのだなあ、と思わせる説明でした。ま、こんな複雑な解釈もありますが、自分の子どもではない子どもを育てるのは、「正しい」とは言えないけれども、命を助けることを「正しい」こととして、結婚したという捉え方も出来るでしょう。

家父長制における長男
 ヨセフが持っていた「正しさ」とはどういったことでしょうか。「正しさ」とは、何なのか、現代においては、様々な「正しさ」の対立によって、世界における国と国、また人と人とが、ぶつかり合ったり、いがみ合ったりしているように思います。
 聖書においても、この「正しさ」は大きなテーマとなります。律法において正しいのか、人を守ることの正しさなのか。例えば、今日の箇所の直前、マタイ福音書、新約聖書の冒頭、アブラハムからイエスに至る系図が記されています。どのような意図、意味があるのでしょうか。ぱっと読んでみると、イエスがアブラハム直系、ダビデ直系の、ユダヤ人としては、とっても「正しい」家系、日本風に言えば、家柄の持ち主だということを伝えたいように感じます。
 しかし、よく読んでみると、違う意図があるようにも感じます。この系図、ほぼ男性しか記されていない系図に、5名の女性について、記されている点です。1章3節に登場しますタマル。彼女は、創世記〔Gen28:26〕に登場し「子ども」に恵まれず、夫とも死に別れた為、売春婦に化けて、自分の義理の父であるユダをだまして、関係を持ち、子供を持った女性であります。そして5節に登場するラハブ〔Jos2c〕も売春婦であり、さらに付け加えますとユダヤ人ではない「外国人」であります。そしてルツは有名ですが、彼女も外国人であり、さらに違う神様を信じる異教徒であります。そしてウリヤの妻も外国人であり、〔2Sm11:1-12:25〕ダビデが自分の部下の妻を横取りして自分の妻とした、という話に基づいております。世界中にはいろいろな形の系図があります。多くが男性中心でしょう。そして女性の名前が書いてあったり書いてないものもあります。ですが、望まれる立場の女性の名を記すことがあっても、わざわざ望まれないような女性のことを記すでしょうか。これらの女性の背景には、ユダヤ人としては相応しくない、あまり公にしたくないような事柄があります。

なぜ5名の女性について記されたのか?
 なぜ、この5名の女性について、記されているのでしょうか。それは、神の愛は、律法や人の思い通りには現れない、人の側の「正しさ」という枠にとらわれない、ということが示そうとしているのではないか、と感じています。そして、聖書全般にも現れていると言えます。
 たとえば、不思議なことですが、律法に寄れば、家の権利、家父長制においては、長男が家を継ぐべきと書いています。でも、実は、しかし、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフという父祖たち、族長時代と呼ばれる時代の人々は誰もが、兄がいる弟であって、律法を破っているのです。律法においては、家の権利は、家の長の権利は、長男が継ぐべき、となっておりますが、この4人とも、長男とは言えず、長男が引き継ぐべきという律法、教えを守った者はいないのです。
 そういった意味では、聖書というものには、律法や神の教えといった正しさがある一方で、「人間の現実は、なかなかそのようにはいかないよね。でも、神様はそんな人間も愛してくださるんだよ」っというメッセージが込められているのです。

「正しさ」が求められる世の中
 「正しさ」とは何でしょうか?私の日常生活においても、問題となります。子どもたちに対して、良いことをしたら褒めて、悪いことをしたら怒る、という毎日を続けています。しかし、どうでしょうか?「正しい」行いをすれば褒めて、またご褒美でもあげて、悪いことをしたら、怒る。何も挙げない。そればっかりではないですが、そういうことが続いたら、どうなんだろう?って考えることがあります。良い子だったら得をして、悪いことをしたら、罰せられる。そういうことを続けていたら、子どもはどのように育っていくだろうか?良い子として育っていくだろうか。そうではないかもしれない。親の目ばかり気にする子として、見えるところ、得をするところでは「良い子」「正しい子」であるかもしれません。また、その子たちが他の人に接するときには、どうなるだろうか?やさしくできるだろうか?隣人に対して、正しい事ばかりでは無い。間違ったことをする人もいる。社会的に弱い人、正しくありたいと思っているのに、それが出来ない人、人たちに対して、どのような態度を取るだろうか。
 例えば、あのアドルフ・ヒトラーは、父親から体罰を伴った厳しいしつけを受けていた、ということが知られています。ヒトラー世代のドイツでは、特別なことではなく、広く行われていた教育法で合ったそうなのですが、悪いクセに対して首や腕を固定して姿勢を正したり、何か悪いことをした場合には、きびしく罰するといった教育法(?)だったそうです。しかし、ヒトラーが学んだのは、正しいクセや姿勢や行いではなく、自分をムチ打つ父親の姿そのものだったのでしょう。こうしたことを「闇教育」という言い方をします。そして、その当時のドイツでは、そうした教育法が、主流だった、流行っていたそうなので、名も無きヒトラーたちが数多くいたと考えられます。私もどうだろうか、と考えてしまうことがあります。そうした教育の果て、闇教育の果てには、どのような運命が待っているだろうか。他者に対して、隣人に対して、いわゆる「優しさ」というものを持つことができないのではないだろうか。子どもの成長、人間の成長というのは、複雑なものですから、そうも単純なものではないですが…。
 こんな風に考えてみますと、「正しさ」というのは、重要なことではありますが、それをどのように伝えるのか、どのような「器」で伝えるのか、ということの方が大きな影響を与えるように思います。体罰の課題、大相撲の世界を揺るがしていますが、あそこにも正しさをどのような方法で伝えるか、という方法のみが伝わっていた、と受けとることも出来ます。

「正しさ」の人ヨセフ
 聖書の話に戻ります。イエスの父ヨセフは、彼自身の「正しさ」によって、マリアと離縁しようとしました。この「正しさ」は、律法を守るためではなく、マリアの命を守るためでした。そして、ユダヤ人として理想的ではない系図もそのように言えるかもしれません。人間の現実、律法やいわゆる世の中の正しさだけで、生きているわけではない人という存在の現実を受け止めている。そうした不完全な存在である人間を守ろうという意志がヨセフにあった、そして主なる神にもあったと言えるのではないでしょうか。
 最後にしますが、クリスマスにおいて、ヨセフはなかなか前面に出てくることはありません。しかし、ヨセフがもっていた正しさは、イエスの中に脈々と流れていたのでは無いでしょうか。現代日本において、力をもたない幼子が当たり前の愛情を注がれずに育たざるを得ない状況があります。イエスは、この世に何の力もない赤ん坊として誕生しました。クリスマスは、そのことを祝いますが、何も力のない赤ん坊は、何の力もありますが、その笑顔によって、多くの人々を笑顔にし、そして幸せを感じさせてくれます。誰もが赤ん坊として、この世に生を受けました。しかし、いつの間にか、力や知識やその他の要素によって、また自らの「正しさ」によって人を比べてしまうようになってしまう。
 クリスマスという出来事は、誰でも赤ん坊のように、神の前には何の力もない存在であるけれども、愛されるべき存在なのだ、ということを思い起こす日ではないでしょうか。1年で一番寒い時期、弱ってしまう時ですが、神様が私たち一人一人を愛してくださっているということを胸に、また歩み出したい、と思います。

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