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『信仰を持つことと行うこと』(ルカによる福音書9:37〜43a)

2018.11.18(16:12) 382

『信仰を持つことと行うこと』
(2018/11/18)
ルカによる福音書 9章 37~43a節

奇蹟物語の核について
 今日の奇蹟物語、癒された人は、イエスのもとにやってきた父親の息子であります。そして、病としての症状は、39節に記されています。
「9:39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。」
 そして最初、イエスの弟子たちに頼んだのですが、できなかった(9:40)。であるから、その師であるイエスのもとにやってきて、癒してくれるよう頼んだ。そして、イエスが語ります。9章41節。
「9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」」と。
 そして、イエスがその子どもを連れてくるように述べ、連れてきた子どもを癒す、という流れになっています。

福音書を解釈すること
 今日のテキストは、ルカ福音書9章37節から43節前半です。そして、この箇所には、マタイとマルコそれぞれに平行箇所が存在し、大まかな流れについては重なっています。それは、もともとのマルコの記事を、マタイとルカの記者が、自らの福音書を記す作業の中で、マルコのテキストを見ながら、足りないと思った内容を書き加え、また、必要ないと思った箇所を削りながら、書き写したので、物事の順番というのは、なかなか変わりません。
 しかし、書き加えたり、削ったりした箇所はわかりません。そして、それらの違いを比べてみますと、各福音書が、この奇蹟物語をどのように受け取ったのか、ということを知ることができます。そして、その受け取り方というのは、同時に、福音書の読み手に対して、物語をこのように受け取って欲しい、という思いにも重なります。

マルコにおける強調点
 マルコ福音書における平行箇所、マルコ福音書9章14節から29節を開いてみましょう。(P.78)まず、ルカに比べて、ずいぶん長いことに、まず気がつくでしょう。2倍以上はあります。そしてルカに見られなかった二つの要素に注目したいと思います。一つは、マルコ9章14節。
「9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」
 ここで議論をしていることは何でしょうか?律法学者も当時は、医者のような役割を持つ人々です。そして、イエスの弟子たちも律法学者たちも、この息子を癒すことができなかったのでしょう。そして、なぜ癒すことができないのか?と議論していた、と。
 そして、もう一カ所、最後の箇所、9章28節29節です。(P.79)
「9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。 9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。」

マルコにおけるポイント
 マルコにおける、この最後の記述、「祈りによらなければ」この種の癒しの奇蹟を行うことはできない、とは、どのような思いが込められているでしょうか。ここで言われている「祈り」とはどんな祈りなのか、ということです。様々なとらえ方ができます。しかし、そのとらえ方の材料、要素を、今日のお話とするのであれば、奇跡行為、幼い子どものいやしのためとは言え、弟子たちにしろ、律法学者そして父親も含めて、自分の信仰の力によって何かをなそうとする姿勢は間違っている、ということではないでしょうか。
 マルコ福音書において、常にテーマとしていることに、弟子批判、使徒批判があります。使徒であろうと、どのような偉い人(?)であろうと神の前には同じ人間、ということ、カリスマ主義、つまり権威主義があります。弟子たちにしても、律法学者にしても、何らかの立ち場や権威によって、主なる神の力、癒しを実現することはできない、と言ったことを示そうとしているのではないでしょうか。その上で「祈り」は何を表しているか。神の前に、従順であること、謙遜であることを示そうとしているのではないでしょうか。

マタイによるポイント
 またマタイ福音書について考えてみたいと思います。マルコと同じように、マタイにおいて特徴的な点を挙げてみたいと思います。マタイ福音書17章14節から20節です。(P.33)マタイにおいて特徴的な記述は、一番最後の箇所、17章19節と20節です。
「17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。 17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」」
 マタイにおいて、信仰には、濃い薄いがあるもの、また信仰の大小があるものです。そして弟子たちが人を癒やすことができないのは、信仰が薄いからだ、と。マタイにおいて、イエスは最高のラビ、最高の教師です。そして弟子たちは、教師と同じようになるべく、教師を超えるべく、研鑽を積む存在、学ぶべき存在です。信仰を、そうした積み重ねの中において、より厚くなるもの、より濃くなるものという理解をしているのでしょう。
 「信仰によって山が動く」ように「祈りによって人が癒やされる」ということは実際にはなかなか起こることではありません。また、これは面白い例なのですが、マルコの祈りの言葉の部分に、紀元3世紀のある写本で、「断食」という言葉が付加されているってことがありました。
 「祈りと断食によらなければ…」というかたちにされているものもあるのです。どうしても「祈り」だけでは、「病い」を癒やすことが出来ない、という状況がある中で書き加えられたのでしょう。

ルカによるポイント
 そして最後のルカ福音書に戻りたいと思います。ルカ福音書9章41節をお読みします。
「9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」」
 この箇所は、三つの福音書すべてに、ある要素です。「いつまでわたしはあなたがたと共にいて」というのは、イエスの受難と復活を思わせる記述であります。そして、「我慢しなければならないのか」とありますが、不完全な弟子たちを指しての言葉であります。また、信仰について、「ない」という言い方をしております。イエスにとっては、信仰は「あるなし」なのか、ということもできるでしょう。
 昔の本ですが、丸山真男さんという東大教授だった方の作品で、『日本の思想』という新書があります。その中に、評論で「『である』ことと、『する』こと」という作品があります。日本の近代化について、論じている書籍で、論ずることが難しいものですが、私なりに表現してみますと、江戸時代からの明治、大正、昭和に至る中で、時代の移り変わりの中で、日本人は自らの捉え方を変える必要が出てきた、といった内容と言えます。江戸時代において、封建社会ですから、武士の子は武士の子、農民の子は農民の子、そして商人の子は商人の子として自分について考えることなどなかった。
 しかし、明治大正昭和と時代が変わっていく中で、自らは誰であるのか、何になるのか、ということを考える必要が出てきた。また、昭和になると完全に自由になったかと言えば、自由には義務が生まれてくる、ただ生まれた時から日本人というだけではなく、日本人としての義務、なすべきことが出てきた。
 そうした中で、「『である』ことと『する』こと」というのは、江戸時代においては、日本人で「ある」ことを考えずにすんだ。そのままで日本人だから、しかし開国し、近代化を果たすと、日本人として「すること」、近代人として「しなければならないこと」が求められるようになった、と言えるのでしょう。
そして現代においても違う形で、新しい「日本人である」こと、日本人ならば「する」べきことが求められる時代になってきた、と言えるのでは無いでしょうか。

信仰を持つこと、行うこと
 最期に、ルカにおける信仰について触れて終わりたいと思います。ルカにおける信仰とは、基本的に、何かをすること、何かを明らかに宣言すること、と言えます。なぜならば、マタイにしても、ルカにしても、イエスを信じる、キリスト者になる、というのは、あくまでユダヤ教という基礎、ユダヤ人という基礎から改革という性質を持っていると言えます。しかし、ルカにおいては、そうした背景はなし。異邦人対象に書かれていると言えるのです。ルカにおいて重んじられるキーワードに「悔い改め」がありますが、あくまでユダヤ教の悔い改めではなく、自分中心のあり方から神中心のあり方に変わることであったと言えます。また、そうした意味において、例えば、「善きサマリア人」のたとえや「ザーカイ」の逸話も捉えられるのです。
 今日の最後の箇所、9章43節をお読みします。
「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。」
 今日の奇跡をルカ福音書は、どのように捉えられるか、と言えば、神の力の徴としての側面が強いと言えます。マタイにしても、マルコにしても、奇跡物語について、あるべき信仰者の姿のテキスト、手本としての読まれることが求められているのに対して、ルカにまったくそうした視点はないと言えます。ルカは、イエスの奇跡を神の恵みの実現として、神の偉大さの実現として、読み手に対して、信じるか否か、悔い改めるか否かという問いを投げかけています。そして、神に立ち返るという意味での「悔い改め」を宣言すること、何かを明らかにすることを理想的な信仰者、キリスト者と捉えています。そして、さらに弟子たちのように、善きサマリア人のように、マリアとマルタのように、信仰を心の問題にせずに、信仰に基づいて、具体的に何かを「する」こと、何かを「行う」こと、他者に明らかにすることを求めているのではないでしょうか。


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