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『罪の重さと愛の大きさ』(ルカによる福音書 7:36~50)

2017.06.18(20:22) 350

『罪の重さと愛の大きさ』
(2017/6/18)
ルカによる福音書 7章 36~50節

罪とは何か —ユダヤ人にとって—
 こんな想像をしてみてください。キリスト教の神さま、またはイエスの愛の大きさを示すとして、どの「逸話」や「たとえ」を紹介するでしょうか。旧約聖書、新約聖書には、数多くのお話は数多くあります。しかし、イエス様や神さまの愛の大きさを表すのに、ふさわしいお話とふさわしくない話があるでしょう。例えば、アブラハムに対して、イサクを捧げなさい、という話。愛の深さというよりも、神の愛の厳しさをしめすものと言えるでしょう。他の創世記の物語においても、関係の強さを強調する事はあっても、愛の大きさという感じはしないのではないでしょうか。
 また、出エジプトの一連の物語においては、神の力の大きさということができるでしょう。またダビデの物語にしても、預言者たちの物語にしても、そのように言えるでしょう。ただ、神がイスラエルの民に対して、ユダヤ人たちに対して、愛を注ぐ理由として、その力の強さではなく、イスラエル民族、ユダヤ人たちの弱さ、民族としての小ささに根拠を置くところに、神の愛の大きさがあるということはできるかもしれません。

罪とは何か —ユダヤ人にとって—
 また、新約聖書におけるイエスにおいても、その弱さや小ささを愛の根拠とするところはつながっている、同じである、と言えます。ただ、旧約聖書においては、ユダヤ人全体が弱き存在として、愛の対象でありましたが、それが変わっています。新約聖書、イエスが登場する福音書における弱さとは、ユダヤ人として不完全な存在、ユダヤ人の中において「罪人」と呼ばれるような存在、となりました。そしてイエスという神は、ユダヤ人として不完全な存在、罪人と呼ばれるような人に働きかけ、訪ね求める存在、神となりました。福音書によって、そのとらえ方や強調点は、微妙に異なっていますが、多くの場合、イエスが示した神の愛は、律法において、ユダヤ人として不完全な存在に愛を注ぐという革命が起こった、または逆転的に描いていると言えます。
 有名な例えを二つ、取り上げて、そのことを考えてみようと思います。一つは、マタイによる福音書20章1節から16節。ぶどう園の農夫のたとえです。あの喩えにおいて、注目すべき点は、朝から働いていた人たち、1番長く働いていた人たちが、自分たちにも、短い時間しか働いていない人にも、同じ賃金を支払った主人に対して、文句を言い、それに対する、主人の回答に強調点があります。マタイ福音書20章13節から15節。(P.38)
「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」(マタイ20:13-15)
 そして、もう一つ、ルカによる福音書の放蕩息子のたとえです。あの喩えにおいても、重要なのは、最後の部分です。大きな愛によって財産を食いつぶしてしまった弟の帰宅を、歓待した父に対し、不平を述べた兄に対する父の言葉です。ルカ福音書15章25節から32節。(P.139)
「15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
 これら二つの喩え、とても有名です。そして、共通しているのは、神の罪深い存在に対する愛と、その愛に対して妬む存在です。
そして、もう一つ律法という尺度、ユダヤ人という尺度であります。ぶどう園の労働者のたとえにおける労働時間の違いは、ユダヤ人としての正統性や罪の大きさに関わります。放蕩息子に於ける兄と弟の関係もそうです。「罪深い」存在が正しいとされる人と同じような扱いをされたらどうでしょうか。「正しい」と思っている側は当然、怒りを感じるでしょう。私もそうです。しかし、神さまは「罪深い」存在であろうと「正しい」存在であろうと、同等に愛してくださる、また、むしろ罪深い存在こそ強く愛してくださる、というところに神の愛の大きさがあるというのです。
 しかし、これらの喩えを、異邦人が聞いたら、どう感じるでしょうか。確かに、神さまの愛の大きさを受け取ることはできるかもしれません。しかし、その逆転、罪人こそより大きく愛する、ということは伝わらなかったのではないでしょうか。そして同時に、イエスがなぜユダヤ人の中において、より罪が深いと考えられている人に向かったのか、は伝わらなかったのではないか、と私は想像しています。

罪とは何か —異邦人にとって—
 今日の箇所は、マルコ福音書に並行箇所がありますので、比較のためにお読みしたいと思います。マルコ福音書14章3節から9節。(P.90)
「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」」
 ルカとマルコの違いを確認します。マルコにおいては、イエスの油注ぎは頭への注ぎであり、ルカは足であります。面白いことに、対話者はシモンという同じ名前です。また、マルコにおいては、イエスの受難、イエスの死の準備として、油注ぎが行われるのに対し、今日の箇所、ルカにおいては、この「罪深い女」の赦しについて、興味が注がれています。ルカによる福音書7章39節から43節をお読みします。
「7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。」
 罪の赦しに説明するのに、具体的な貨幣を用いて説明しています。1デナリオンは、1日の賃金とされていますが、50日分の賃金の借金と500日分の賃金を帳消し、チャラにしてもらったとしたなら、どっちがより赦されたのか、愛が大きいのか、という話です。どちらかと言えば、より借金が大きい方です。そしてこれは同時により罪が深いか、という話なのです。そして、このような説明をルカ福音書では、よくされているのです。

ルカ福音書においての神の愛
 ルカ福音書は、異邦人に対して、福音を宣べ伝えることに力点が置かれている、と言われます。その場合、問題となるのは、律法をしらない人に対して、神の愛の大きさ、その特徴をどのようにのべ伝えるのか、ということであったと思います。先ほど、二つのたとえを取り上げました。ぶどう園の農夫のたとえにしても、放蕩息子のたとえにしても、律法を生活の基盤としていたユダヤ人であるとか、律法を知らない異邦人であるとかという違いを超えて、伝わりやすい特徴を持っていたでしょう。しかし、律法を知らない異邦人に、イエスが宣べ伝えた神、キリスト教の神さまの愛の大きさを伝えるのには、どうしたら良いのか?そういった視点から、具体的な数字、貨幣を用いて説明しようという試みが生まれたのではないか、と想像することができます。
 ルカにしか登場しない喩えとして、「不正な管理人のたとえ」(ルカ16:1-13)があります。これはルカ福音書にしかない物語なのですが、油や小麦を人に貸しているような人は、それを帳消しや減らしてやりなさい、という喩えがあります。この背景には、誰もが神に対して、罪、負い目を持っていて、それを赦して欲しい、と思っているのだから、同じようにしなさいという喩えです。人を赦すという倫理を具体的に神を手本にして実行しなさいという点で非常に分かりやすい指針といえます。
 また、そのようなルカの意識、わかりやすく神の愛を説明しようとする意識は、良きサマリア人の喩えもそうしたものといえます(ルカ10:25-37)。自分の立場を超えて、愛を実現しようとする姿勢、民族を超えた形の愛を実現しようという姿勢は、理想的な愛を表現することに繋がるでしょう。また、徴税人ザーカイの喩えも同じことが言えます。(ルカ19:1-10)徴税人として働いており、その職業的立場から周囲の人々から避けられていたザーカイ。しかし、イエスと出会う事によって、自らの財産を貧しい人に施し、不正に手にしたものを4倍にして返すと宣言します。これらのあり方も、ユダヤ人という立場にとらわれない聞き手を選ばない神の愛を示すお話と言えるのではないでしょうか。

福音の広がりと神の愛
 キリスト教は、聖書と伝統に基づいて、形づけられています。キリスト教のこと、教会のことは、聖書のすべて書いてあるか、と言えば、そうでもなく、伝統というか、人と人の繋がりによって教会は形づけられている、と言えます。そして、イエスの言葉と行動によって、示された福音も、様々な形を帯びて、また器で伝えられている、と言えます。
 そして、それらはなるべくならば、それぞれの民族性や状況、立場において、理想的な形になれば、より言い訳です。たとえば、関西の教会の方で、聖餐式を和風でやろうという話がありました。いろいろ考えたそうです。そして、結局、おにぎりと焼き魚で聖餐式をしたということを聞いた事があります。日本人という文脈のなかにおいては、確かに、パンよりはおにぎりでしょう。しかし、ぶどう酒(ワイン)を焼き魚というのは、どうでしょうか。5つのパンと2匹の魚で5000人の人が満腹したという共食の奇跡に基づいているのでしょうが、好みが分かれるかもしれません。
 また、マルコ福音書が考えている読者とルカ福音書が考えている読者では、いわゆる農民と都市生活者の比率も異なっていて、よりルカは都市生活者が多かったでしょう。都市生活者の徴税人と農民にとっての徴税人、そして貨幣のとらえ方もずいぶん違って板でしょう。イエス時代の農民の中には、貨幣などまったく触れずに生活していたような人もいただろう、と想像できるからです。
 いろいろな違いを挙げてきました。では、私たち自身にとって、伝わる福音の喩えとは、どのような逸話が心にしみるでしょうか。また自分の隣人、神の福音を知らない隣人に伝わるでしょうか。より大きな罪の重さが赦される物語、より大きな神の愛を感じる物語は、どのようなものか、想像すること、お話を考えること、自分の過去の経験から掘り起こしていくこと、そのような作業の一つ一つも、主なる神の福音をより深く自分の胸に刻む大事な時かもしれません。

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