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『十字架上の導き』ルカ福音書23:26-43

2014.11.30(13:30) 279

『十字架上の導き』
(2014/11/30)
ルカによる福音書 23:26~43

名誉男性
 「名誉男性」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。最近の政治状況の中で、口にされることがある言葉です。そして、その言葉には多くの背景があります。そして、名誉男性と呼ばれる人の多くは女性であり、女性でありながらも、男性の立場になった発言をする人、男性のような身の振り方をする人のことを指します。今ちょうど、衆議院選挙となっていますが、女性の比率が高い内閣が話題になりました。しかし、その女性が男性のような考え方や政策を好んでいたら、女性を閣僚として選んだ意味がある、と言えるでしょうか。また、本当に女性の立場に立った政策ではなく、単に女性に言わせているだけであるのであれば、また男性的な政策を好んでいるといえば、その女性は名誉男性ということができます。
 また「キャリアウーマン」という言葉があります。このような言葉があること自体、いわゆる企業社会の中において、女性が活躍することの珍しさを示す言葉とも言えます。なぜなら「キャリアマン」とは言いませんよね。また、俳優に対する女優(男優というと…)。さらに、アナウンサーに対する女子アナ。明らかに与えられる役割、求められる役割が異なる。また「お天気お姉さん」と言う言葉、これには、珍しく「お天気お兄さん」という言葉があります。
 で、キャリアウーマンに戻りますが、キャリアウーマンがライバルの男性たちと業績や出世争いで働いているとき、こんな冗談を言ったそうです。「あ〜あ、早く結婚して、私も奥さんが欲しい。奥さんがいれば、掃除も家事も全部やってくれるから。」…。どうでしょうか?女性が奥さん?おかしな発言ですよね。しかし、男性が言えば、どうでしょう。あたり前の言葉と受け取られる。女性が言うと、おかしな発言として受け取られる。結婚とは、家族を築くためですが、同時に自分の生活の面倒を見て貰うためのもの、という考え方。あたり前のこととして捉えられてきました。しかし当然、批判されて良い内容もあります。
 また、さきほどのキャリアウーマンの立場にたって考えてみたいのですが、では女性は男性と同じような立場を求めてはいけないのだろうか、また男性と同じような働き方はしてはいけないのだろうか、という問いにもなります。政治の世界においても、「女性が活躍できる社会」「女性が輝く社会」といったスローガンが叫ばれていました。しかし、「女性が輝く」ということが世の中の男性並みに働くことになれば、当然、子育てはどうするのだ、家事はどうするのだ、という話になります。
 現代日本において、少子化と女性活躍社会の実現が叫ばれており、様々な施策や解決方法が揚げられています。保育園の拡充、外国人の家政婦さんたちなど…。しかし、一番早い解決方法は、男性たちが夕方5時にしっかり仕事を終わらせて家に帰らせる、ということを徹底するならば、少子化の問題も少しは良い方向へ行くかもしれない。女性が活躍できる場所やチャンス(機会)も増えてくるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

名誉白人と名誉健常者
 そして、この「名誉○○」という言い方、人種差別的な国家や世の中において、使われることがあります。例えば、「名誉白人」という言葉があります。現在では、改革がなされましたがアパルトヘイトという人種差別政策を行っていた南アフリカ共和国。バスや食堂でやトイレでも分けられているような国家でした。そして白人でなければ、ヨーロッパ系の肌の色を持っていなければ、出世できない国家です。いわゆる黒人、アフリカ系の人々やアジア系の人々が出世するためには、黒人としての魂を売って、白人の立場に立った行動を取らなければならない。そうした人々のことを、「名誉白人」と言いました。日本人は南アフリカ共和国において、どのような立場であったでしょうか。興味深いことなのですが、欧米諸国が南アフリカの政策を批判し、経済制裁として、ペナルティとして、貿易額を抑える傾向にあった中、日本は南アフリカにとって最大の貿易相手国だったそうです。ですから、南アフリカ共和国において、日本人は、「名誉白人」として扱われていたそうです。(どうでしょうか?名誉なことですかね?)
 人種のことで言えば、アメリカなども、1960年代に広がった公民権運動によって、そうした人種における差別状況は劇的に改善した、と言われています。キリスト教世界では、キング牧師の活躍が知られています。また、現在のアメリカ大統領のオバマさん。就任したときには、ずいぶんと話題になり、今になってみれば私自身も不思議な期待をしました。
「Yes,We can」「Change」というキャッチフレーズ。アメリカどころか、世界が変わるような気持ちにならなかったでしょうか。
 アフガニスタン侵攻やイラク戦争、そうした状況が変わる、と思っていました。アメリカにおける戦争がなくなる、と。しかしオリエント世界、中東の現在の状況はどうでしょうか。またアメリカ国内においても、白人警官が拳銃によって、黒人青年の命を奪ったことによって、その行為が正当性を巡って、警官として正しい行為であったかどうかを巡って、混乱した状況があります。報道からは、明らかに人種差別的な背景があったと言わざるを得ないでしょう。

名誉○○人
 また「名誉○○人」という言い方、人種や性別の差だけではなく、様々な人のありよう、心理状況を説明するのに、使えるのではないか、と思うのです。例えば、私は、「名誉健常者」だというふうに自分のことを考えています。ちなみに「健常者」というのは、いわゆる「障がい者」に対する意味での「健常者」です。こういうことです。私の日常において、あまり障がい者であった妹のことを考えることはありません。しかし、いわゆるキーワードで、障がいを持った妹として生きた自分の思いがよみがえってくるのです。
 寝たきりで、目も見えず、車いすで、自分1人では生活できなかった妹。また、うれしいことがあると静かにしてはいられなかった妹です。そんな妹が何か排除されるような状況があると、何かしら悲しい思いを持ったり、怒りを持ったりする。しかし、そうした怒りや悲しみはなかなか他の人には理解されにくいし、また自分自身で言葉にすることに困難を覚えることもある。そうした日本語でいうところのコンプレックス、劣等感といったもの。また、病いや過去の心の傷(トラウマ)もそうかもしれません。またそうしたトラウマや痛みがない人、存在、括弧付きですが「完全な人」はいるのだろうか、という問いにもなります。
 誰しも、見た目には何もわからないけれども、なにかしらの病い、過去の経験における心の傷(トラウマ)といったものはあるものです。家族における負い目や自らの負い目、様々な可能性があるでしょう。そして、そうしたものを「十字架」とか「十字架を背負っている」といった言い方を日本語にはあります。誰も言えないような事柄であるとか、病気やトラウマ、心の傷である場合など、その痛みをなかなか共有できるものでは無いです。
 福音書においても「十字架」について、イエスが背負い、貼り付けにされた十字架でもなく、また信仰上の象徴としての十字架ではない表現があります。ルカ福音書9章22節には、こうあります。(P.122)
「9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。…」」
この言葉は、マタイ福音書(16:24)にも、マルコ福音書(8:34)にも収められていますが、ルカにのみ「日々」という言葉があります。ここには、ルカ福音書の著者が、よりそれぞれの人に対して、その人に与えられている運命といったものを意識させたかったのではないか、と思います。
 また、パウロはこのような言葉を述べています。ガラテヤの信徒への手紙2章19節20節。(P.345)「2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
 パウロにおいて、イエスの十字架刑とは、神の救いの実現であり、律法の破棄、律法による縛りを打ち破ったのが、十字架であり、十字架によって、福音そのものが明らかにされた、という捉え方です。そしてパウロにおいて、十字架とは、イエス・キリストの十字架刑の時、その一時ではない、という。19節の後半部分ですが、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」という。時間の表現において、パウロは、自分自身について、ずっと十字架につけられている、というのです。ここにおける十字架は、「運命」ではなく、悔い改めた「自分」、キリスト者としての「自分」すべてを指していると言えます。

わたしたちは楽園(パラダイス)にいる
 今日の聖書の箇所、イエスは共に十字架にかけられた2人の犯罪者に対して、呼びかけています。1人はイエスを「「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」」(23:39)とののしっています。そして、もう1人は、それをたしなめて、発言しています。23章40節から42節。
「23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。」
 この言葉に対して、イエスは答えます。最後の節43節です。
「23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」
 この場面、いわゆる救いに関する象徴的な意味が込められていると思われます。救いとは何か、ということを改めて考えてみたい、と思うのです。私たちが信仰を持つ、というとき、イエスの赦しを得るとき、また救いを得た、と思いとして得るとき、今日テーマにしました「名誉○○」の「○○」の部分は変わっているでしょうか。信仰を持つことによって、心の傷が癒やされた、とか、病いが気にならなくなった、自分の負い目が無くなった、強い自分になった、ということ。たしかにあるかもしれません。しかし、今日の聖書の箇所に示されている「救い」とは、そういったものではない、と思うのです。

十字架上で示された救い
 そうではなく、「ありのままの自分」がイエス・キリストに受け入れられたのだ、ということ、また「ありのままの自分」を自分自身で受け入れることが救いということが出来るのではないでしょうか。イエスさまと一緒に2人の人が十字架につけられました。そして1人はイエスを罵倒し、もう1人はイエスを神の子として重んじて、自らが極刑に処せられていることを受け入れています。
 イエスは共に、十字架に架けられていることに対して、「楽園(パラダイス)にいる」といっているのではありません。わざわざ確認することでもありませんが、イエスは単数で「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言っています。この箇所で救いとして示されているのは、悔い改めること、それぞれが背負っている十字架(運命、人格全体)を受け入れるあり方です。わざわざ「今日」と言っているのは、そうした十字架(自分)を受け入れることが救いなのだ、ということを「楽園(パラダイス)にいる」という表現で示していると言えるのでは無いでしょうか。信仰を持つ、ということ、救われる、ということ、教会に集う、ということ。どうでしょうか?
「名誉○○」となることを目指して教会に集ってはいないでしょうか。自分ではない誰かになることを目指してはいないか、ということを思います。また十字架刑の場面で重要な点から指摘するのであれば、この場面、イエスにおいても、この2人の囚人においても、死の場面なのです。十字架刑というものは、なかなか死ねなくて、とことんまで苦しむ拷問でもあります。1時間から半日間は、死に至るまで苦しみと言われています。また、そのような状況でこんな対話、応答をするかなあ、とも感じますが。もっとも重要なことで言えば、死の時というのは、1人の人の人格、存在すべてが一致するときと言えます。
 先週、教会の姉妹が天に召されました。長い歩みでした。わたしには想像がつかない。しかし、人の存在というのは、死の時その誕生のときに帰るのでは無いか、と思うのです。葬儀の時によく読まれる箇所です。ヨブ記1章21節にはこうあります。(P.776)
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
 ルカ福音書は多くの場面で、主なる神の前において、謙遜であることが求められている、と読めるのではないか、と感じています。謙遜であるというのは、わたしたちそれぞれに与えられている命、歩みに誠実に、そのままに受け入れて、歩むことであり、それこそが本当の悔い改めであり、信仰者の姿と言えないでしょうか。今週から、アドヴェントに入りました。主イエスも私たちと同じように、無力な赤子としてこの世に誕生しました。私たちは、神の前においては、どの世代、時代においても、赤子と同様な存在でありましょう。「名誉○○」を目指すのではなく、主イエスに認められること、受け入れられることを目指して歩んでいきたいと思います。

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