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『鶏鳴が拓いた歩み』マルコ福音書14:27-31

2014.10.12(17:12) 276

『鶏鳴が拓いた歩み』
(2014/10/12)

マルコによる福音書 14章 27〜31節

神の力は働いたのか
 弟子たちとイエスが、「ホサナ、ダビデの子よ」といった群衆の歓声によって迎えられたエルサレム。しかし、そのわずか一週間後、イエスを、「神の子、キリストよ」と迎えた声は、十字架への道を歩むイエスに対する群衆の罵声へと変わりました。その劇的な出来事は、私たちは聖書、福音書として知っており、そしてその十字架への道が、復活への繋がっていることを知っています。また私たちは、イエスが神の子であることを示す業であること、そして同時に、主なる神が私たちにその計り知れない愛を示す業であったことを知っています。
 が、弟子たちの立場に立って考えてみれば、驚きの連続の一週間であったと言えるでしょう。いわゆる受難週の出来事、弟子たちは気が気でなかったでしょう。エルサレム入場と宮清め、最後の晩餐とその夜のイエスの逮捕、十字架刑と復活…。イエスはエルサレムにのぼり、ユダヤ人の王となる存在のはずでした。しかし、まったく十字架刑、処刑まで逆のことが起こった、と言えます。しかし復活することによって神の子であることが示されました。弟子たちの立場にたって振り返ってみれば、自分たちが従ってきたイエスが、自らの期待を超える形、想像を超える形で、イエスがキリスト(救い主)ということを示された時でありました。言うなれば、想像以上の出来事が起こった、想像以上の形で神の力が働いた、ということで出来るでしょう。
 しかし一方で、こういう言い方も出来るかも知れません。それは受難週の一週間、復活を別にすれば、神の力がまったく働かなかった。そして、まったく働かなかったにもかかわず、神の愛が知らされた、ということです。

ペテロの葬列
 宮部みゆきという作家が記した『ペテロの葬列』という小説があります。小説自体は呼んだことは無いのですが、テレビドラマ化され見ていました。物語は、とあるバスジャック事件から始まります。そのバスジャック犯は、いわゆるマルチ商法、ネズミ講の仕組みを考えた人です。まあ、詳しくはお読みいただければ、と思うのですが、そのネズミ講を考え出した人が悔い改めて、心改めて、反省してバスジャックを起こすという場面から始まります。
 そのバスジャックを起こした犯人、登場人物は、自分が考えたネズミ講、マルチ商法によって、たくさんの人が被害にあったこと、中には自殺してしまった人もいる、ということに罪意識を感じていました。
 ちなみにネズミ講というのは、このような商売のやり方で、犯罪です。簡単に言えば、
「組織の会員になるには、(紹介者への)金品の支払いが必要であり、自分が会員になると次は、一人会員を増やすごとに、紹介料として「一部の金品」を得ることができる。そうやって、親会員から子会員へ、子から孫へと無制限に増殖していき、一番上の親が最も儲かるシステムのことです。」
(参考 http://viral-community.com/starting-side-business/pyramid-scheme-3943/)
 そのドラマの中で、印象的な言葉がありました。「悪は伝染する」という言葉です。ネズミ講は、ピラミッド型の人間関係をつくるのですが、ネズミ講で怖いのは、いわゆる一般的な人が、被害者にもなり、同時に加害者にもなってしまう、ということです。そのドラマの中で、親に近い人、初期メンバーに近い人が登場します。主人公の側の人が、その人に詰問します。「あなたはたくさんの人を勧誘したのですよね?たくさんの人がだまされたこと、被害にあったことに何にも感じていないのですか?自殺した人もいたのに、反省していないのですか?」しかし、その人は答えます。「私もだまされたのです。わたしもそれで友人関係を全て失ったのです。」
 なぜ、このお話に『ペテロの葬列』という題名がつけられているか。別に教会やキリスト教が出てくるわけではありませんが、おそらくバスジャックを起こした犯人、ネズミ講を考えた人を「悔い改め」たペトロに重ね、そのことによって引き起こされたその事件に関わった人たちに起こった出来事、悔い改めの連鎖全体をまとめて「葬列」としたのでしょう。そして「悪は伝染する」に重ねて考えるのであれば、悔い改めて、その悪の伝染を断ち切った存在としてのペトロ、そのペトロに従って悪を断ちきり、歩むべき道を歩みましょう、ということがこの題名には、込められているのでしょう。

ここに至るまでのペトロの歩み
 今日の箇所において、ゲッセマネの園へ行く途上の道のりの中で、ペトロは、イエスに対し、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と29節で述べています。しかし、それに対してイエスは言います。30節の言葉です。
「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
わたしたちは、このイエスの言葉どおりにペトロが、イエスのことを三度知らない、と述べてしまったこと、そして泣き崩れてしまいました。
 今日の箇所、様々な箇所との繋がりの中で捉えられる箇所であります。この場面、いわゆる最後の晩餐の後、ゲッセマネの園へ向かう途上で交わされた会話であります。この直前の箇所、最後の晩餐の場面、イエスはユダが自らを裏切ることを予告しています。その直後に言われたことですから、弟子たちはみんな焦ったでしょう。また、ペトロも同じように焦って、こんなことを述べたのでしょう。しかし、弟子たちはイエスが逮捕されたゲッセマネの園において、逮捕の場面、誰1人として残らずに逃げてしまっています。また、その直前にも、弱い弟子たちを示す場面があります。
マルコによる福音書14章40節と41節にはこのようにあります。
「14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」
 気を付けてみると、興味深い記事です。イエスがゲッセマネにおいて1人で祈っていた、というのは、誰もが知っていることですが、その傍らで、3人の弟子たちを寝ないように注意して待たせていた、というのです。しかしこの3人、イエスの34節にある「目を覚ましていなさい」という言葉に従えず、寝込んでしまっている。それも3度も、この3度というのには、イエスが3度、イエスのことを知らない、といったことに繋がるように感じます。また、イエスが逮捕された場面、マルコ福音書では無名の弟子によって兵士の耳が切り落とされたことになっていますが、ヨハネ福音書においては、ペトロが行ったことになっています。どれもペトロのイエスに従いきれない弱さを示していると同時に、ペトロのイエスに従っていきたいという気持ち、感情の表れ、と言えるかもしれません。

なぜ大祭司の屋敷へ行ったのか
 で、ここでちょっと考えてみたいことがあります。それは、なぜペトロは大祭司の屋敷へ行ったのでしょうか。それと当然、イエスの身柄、安全は保証されているのか、イエスの裁判はどのように行われるのか、その結果…。どれも心配になることでしょう。しかし、なぜ弟子たちの中で、ペトロ1人だけが大祭司の家に行ったのか。
 私が想像するペトロの動機、思いはこのようなものだったと思います。それは、隠れていた弟子たちの代表としてペトロが屋敷に偵察にやってきていた、ということです。イエスの十字架刑の後、復活の記事を見てみますと、弟子たちはどこかの家に隠れていた様子が記されています。そのように弟子たちは、イエスが逮捕されたとき、ゲッセマネの園から逃げだし、どこかの屋敷に隠れていたのではないか、と。そして、それだけではどうしようもないので、弟子たちのリーダーであったペトロが、大祭司の屋敷へ偵察に来たのではないか、と思うのです。そして、こういうことも言えるのでは無いでしょうか。ペトロ、そして弟子たちの期待として、ただイエスの運命を見る、というだけではなく、その運命に神の力、キリスト、メシアとしての力を見たかった、最後の希望をかけていたのではないか、と思うのです。その状況を神の力によって大逆転する姿を期待していたのではないでしょうか。

誰が鶏を鳴かせたのか
 そんな思いでいたペトロでしたが、そこで出会った出来事は、神の不在、神の力の不在という紛れもない事実、厳しい現実でした。ですけども、大きな意味で神の力が働いていた、と言えないでしょうか。ペトロは、イエスから今日の箇所、14章30節で「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」。この言葉、預言でしょうか、それとも予告でしょうか。
 預言というのであれば、神の力が働き、鶏を鳴かせた、ということになります。また、予告というのであれば、イエスが人として、明け方には、必ず鳴く、鶏のことを思って、ペトロの行動を予告した、ということになります。しかし、ペトロ自体がその鶏の鳴き声に引っかかること、つまずくことが無ければ、ペトロの悔い改めも無い、ということにならないでしょうか。もしかして、ペトロがその鶏鳴を聞き逃していたら、どうだろうか。また無視して逃げ出すこともできたかもしれない。
 しかし、ペトロはその鳴き声に心動かされ、泣き崩れた。ここでペトロは自らの弱さを思い知り、悔い改めてその後の歩みを歩み出したのではないでしょうか。わたしは、この出来事が無ければ、キリスト教の歴史は始まらなかったかと思っています。その後にイエスさまが復活なされますが、復活と同様に、この出来事はとても大きな分岐点だったのではないでしょうか。とても小さいことですが、ペトロがその鶏の鳴き声にひっかかることがなければ、キリスト教は始まらなかった。また、この出来事自体がキリスト教の始まりであったと言えないでしょうか。
 こうした読み方は、一般的なキリスト教理解から離れてしまうかもしれませんが、ペトロは、この出来事によって、キリスト者としての歩み、使徒としての歩みを歩み出した、ということは出来ないでしょうか。先ほど、触れましたように、ペトロは1人ではありましたけれども、多くの弟子たちの存在をその背中に、後ろに背負っていたと思うのです。そのペトロが、イエスの予告の言葉によって、打ち破られ、悔い改めの道が拓かれた。そしてその悔い改めの道、波が他の弟子たちにも伝わり、大きな流れになっていった。
 弟子たちは、イエスに神の力が現れること、メシア(キリスト)として、力が示されることを期待していました。しかしこの出来事、そうした弟子たちの期待、ペトロの期待を裏切り、またそれらの期待を超えて、イエスはペトロに対して、神の力がまったく働かない形で、神の力が現れたのです。私たちはどうでしょうか?弟子たちと同じように、力強く現れる神の力、神の存在を求めていないでしょうか。人の思いを超えて働く主なる神の力に信頼をおいて、今週も歩んでいきたい、と思います。


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    焚き火


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