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『少数者によって救われる』創世記18:20-33

2014.05.26(08:03) 274

『少数者によって救われる』
(2014/5/25)
創世記 18:20~33

アブラハムの歩み
 ご存じのように旧約聖書は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった三つの宗教における聖典とされており、唯一なる神、キリスト教でいうところの主なる神と人の歩みを記したものであります。そして、その中においても最初の族長と表されるアブラハムは、主なる神に従う理想的な人物として描かれています。
 アブラハムは、主なる神の呼びかけによって、バビロニア地方のウルから、おそらくは父親のテラに伴って、カナンの地を目指すように、促されます。そして途中、ハランという場所で、テレは亡くなります。そして、彼が部族の長となり、ハランの地から、さらにカナンの地へ移動してその場に定住します。定住し、アブラハムと主なる神との間に祝福の約束、契約が結ばれました。
 よく契約という表現をいたしますが、ただ単に人間の側、アブラハムの側にだけ、義務があるというのではなく、神の側にも義務がある。人の側、アブラハムとしては主なる神への従順、これは信仰とも言うことができるかもしれませんが、それが求められる。それに対して、神の側はそのアブラハムの信仰に答える祝福、恵みが義務となるわけです。その約束については、創世記15章1〜5節(P.19)に記されていますが、「…あなたの盾」となるという約束、「報いは非常に大きい」(15:1)ことが宣言され、アブラハムの子孫が、天にある星の数ほどになるということが約束されています(15:5)。
 今日の箇所において記されているのは、ソドムとゴモラという町の運命について、また神の裁きの厳しさについて記した箇所と言えます。が、同時に、主なる神に従う上での厳しさについても記されて箇所とも言えます。それは今日の箇所、創世記18章25節にあらわれている言葉、「正義」「正しさ」という事柄に対する姿勢が問われている、と言えます。

ソドムとゴモラの罪
 ところで、ソドムとゴモラという町、なぜ神によって滅ぼされなければならなかったのでしょうか。具体的に、「このような悪いことをしたから滅ぼす」とは記されていません。そして、この箇所は現代にもつながるある価値観について影響を与えてきた箇所でもあります。今日の箇所の直後、創世記19章にある物語をもとにして、それは、いわゆる「同性愛」この箇所においては「男色」の罪を犯してからだ、という読み方がされてきました。そして、そうした読み方、解釈から、男性同士の同性愛について「ソドミー(Sodomy)」という言葉が生まれました。しかし、最近の解釈からは、ソドムの罪とは、男性同性愛に関するものではなく、旅人を重んじない態度のことではないか、という解釈がなされるようになってきました。今日の箇所の直後、19章において、神の使いである二人が、ソドムの町のロトの家に招かれました。しかし、その出会いにおいては、夕方に町についた二人は、町の門の前に座っていましたが、誰にも声をかけられずにいた。そんな二人をロトは家に招きました。さらにロトの家で歓待されていた二人を町の人々が訪ねてきて、乱暴なことをしようとした。
 旧約聖書において、ほかにも、旅人を助けない行為、さらには痛めつけるような出来事が記されています。特に士師記19章20章に記されている出来事では、それを元にして戦争にまで起こったことも記されています(P.414-)。またイエスが語ったたとえ良きサマリヤ人のたとえにおいても、旅人が強盗に襲われた出来事が記されています。そうした存在を助けることが当然である、という価値観が基になっています。そうしたことからもソドムとゴモラの罪とは、旅人を痛めつけるような行為、価値観が罪とされており、その罪に対して罰が下るのだと理解することができます。

「正しさ」の働き
 そして、今日の箇所においては、その罰が下されようとしているソドムとゴモラの町に「正しい者」がいて、そういった人が裁かれるのはどうなのだろうか。それは正しいことなのか間違ったことなのか、ということが、アブラハムと神との間で交わされているのです。今日の箇所18章23節から25節をお読みします。(P.24)
「アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」」
 神の正しさは、どのような形で示されるのでしょうか。たとえば、町や民族に対する裁きという形でいえば、ヨナ書の物語が思い出されます。神によってニネベの町に行って、悔い改めを呼びかけなさい、といった導きを受けたヨナでした。しかし自分の行動によってニネベの人々が悔い改めること、そして神様がそれを受け入れて、ニネベの町の人々を赦すことを嫌って逃げようとしています。ニネベとは、ユダヤ人にとっては、北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国の首都です。自分たちの民族の国家を滅ぼした町を赦すことができるだろうか。また神の存在を知り、神の裁きが下ることを知ってから、悔い改めるならば、誰でも赦されてしまうのではないか、そうしたことを許せるでしょうか。
 また新約聖書におけるイエスのたとえでも同じかもしれません。ルカ福音書15章に記されている放蕩息子のたとえ、父親から自らが分け与えられた財産を使い果たして帰ってきた弟を赦す父親の姿。まじめに父親の下で働いてきた兄は面白くありません。父親の姿勢に記されている神がどのような罪人であったとしても、赦す姿勢を受け入れることができない。
 わたしたちにとっても、このことは大きなテーマとなります。間違ったことをした人が神に許されることは正しいことなのか、受け入れなければならないことなのだろうか。また逆に、正しい者がほかの人の罪によって裁かれること、言い方を変えれば、不幸になることは神の目に正しいことなのか、ということです。神の目に正しい行いをした人は祝福されなければならない。また逆に悪い行いをした人は裁かれなければならない、何らかの罰を受けなければならない、という考え方が誰にでもあります。そしてさらに、そのようになっていなければ、なんで神様を信じる必要があるだろうか、ということになります。
 
確率か人数か
 今日の箇所における状況は、今あげたヨナや放蕩息子のたとえ、まったく逆の状況であります。先ほど紹介した「ヨナ」と「善きサマリヤ人」の二つの例は、どちらも神の赦しに対して、違和感をもつ人という形をしていますが、今日の箇所においては、関係が逆になっています。神の側がソドムとゴモラを滅ぼそうとしており、人の側が赦しをもたらしてほしい、と願っている。そんな関係になっています。ソドムとゴモラを完全に滅ぼし尽くそうとしている神とそんなことはしないでほしい、と願うアブラハムの対話という形になっているのです。ソドムとゴモラ、それなりの大きさの町であったでしょう。
その中に、正しい人がいたとして、その人たちがどのくらいいれば、町全体として赦されるのか。
 アブラハムは、神が言われた「50人正しい人がいたら」という言葉から、どんどん数を減らしていって、最後には、「10人正しい人がいたら」助ける、という約束を取り付けています。しかし、最終的にソドムとゴモラは、滅ぼされてしまっています。ということは10人も正しい人がいなかったということでしょう。そして、ここでちょっと気になることがあります。最初に50人正しい者がいたとしたら、と神が譲歩しています。では、ソドムとゴモラの町には何人の人が居住していたのでしょうか?
 まったく想像でしかないのですが、考え方としては、この最初の問いの50人が全体の人数のどのくらいの比率であるのか、ということを想像することから近づくことができます。たとえば、50人が半分だとすれば、100人の町であったということ。これでは少なすぎるように思いますよね。また、50人が10分の1だとすれば、500人の町。それでも少ないかもしれません。で、私の想像としては、だいたい1000人ぐらいの人が住むの町であったと考えています。そうしてみますと、50人というのは、20人に1人という人数。パーセンテージでいうと、5%ぐらい、100人のうちの2人ぐらいではないか、と思われます。そしてそこからどんどん減らしていく、ということです。
 で、最終的に10人がいれば、助けるという神の約束をアブラハムは果たしたわけです。1000人の中の10人とは、100人に1人、1%という人数になります。そして100人に1人と言えば、イエスのたとえにおいては、99匹と1匹の羊の話が思い出される数字、比率となってきます。では、100人のうちに1人いれば、神さまはその全体の人、100人を赦すのであろうか、ということになります。現代社会において民主主義とは、単なる多数決に陥っています。そうした意味で言えば、100人の中の1人というのは、本当にわずかな数でしかなく、注目されることもないかもしれません。また、その中の1人に目を向けるということは、残りの99人全員に対して、もう一度目を向けることにもつながります。

社会のあり方と少数者
 また、この人数のことから考えられる問いがあります。なぜアブラハムは最終的に、たった「1人正しい者がいれば」と聞かなかったのか、ということです。ソドムには、アブラハムの甥にあたるロトとその家族がいたわけです。ですから、神様に対して、「たった1人の正しい者がいれば滅ぼさない」という約束ができれば、ソドムとゴモラの町が救われるわけです。しかし、そうした形の質問はしなかった。また、出来なかったかと言えるかもしれません。32節において、アブラハムは「もう一度だけ言わせてください」と述べているので、「1人の正しい者でもいれば」という問いは頭になかったかもしれない。また違う角度から考えて、10人という人数は、ロトともう一家族だけでも正しい者がいれば、町が救われるのだ、という希望の数字と言えないか、と考えることができます。
 ロトの家族は、ロトと妻と二人の娘。19章によれば、その家族だけで2人の神の御使いを家に招き入れて、もてなしています。そこへ町の者たちがやってきて、その客人、神の御使いを出せ、と言われてしまう。ここで、ロトの家族以外に神の御使いである旅人を持てなそうとする人がいたとしたら、また家庭があったらどうでしょうか。その結果は、まったく違っていたかもしれない。「そんなことをしてはいけない」「旅人は大切にしなければならない」という人また家族がロトとその家族以外にいたとしたら、まったく違うことが起こっていたかもしれない。
 ロトのように考える人々。多数の間違った人たちの中で、ロトの家族もソドムとゴモラの町に昔からすむ人々に比べたらよそ者であったでしょう。善悪の問題ではなく、ロトの言葉に耳を傾けることはしにくかったかもしれません。しかし、そうしたロトの家族を助けようとする人がいたら、この2人の旅人を助けようとする人がいたら、どうでしょうか。もしかして、あっという間に、「正しい者」が10人を超えて、ソドムとゴモラの町が救われたかもしれない。1人でも4人のロトの家族でも不可能のことかもしれなかった。しかし、それ以外の6人、わずかな人でも助けようとしていれば、あっという間にソドムとゴモラの町は救われていたかもしれない。10人という数字には、そんな意味が込められていたのかもしれない。

誰かの助け手として
 今日の箇所、主なる神とアブラハムのやりとりの最初にアブラハムは、23節において、神に対してある問いを投げかけています。23節の言葉。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」という問いを投げかけています。ロトの家族だけが正しいかったにしろ、また誰かたった一人正しい者がいたにしても、その人たちだけを助け、残りの悪い者たちだけを滅ぼせば良いのではないか。そうすれば、神さまの正しさも守られるし、神を信じる人たち、神の前に正しい者たちも納得する。しかし神様はこの問いに対して、「正しい者が50人いれば」という形で人数の問題にすり替えてしまっていて、このアブラハムの問いにまったく答えていない。
 なぜだろうか、と感じます。救いにしても、裁きにしても、また祝福にしても罰にしても、正しい人と悪い人を分けていれば、誰しも納得するのではないか、と思います。しかし逆に、このようなあり方にこそ、主なる神の愛の大きさが込められている、またキリスト教のある種の厳しさが込められている、と言えないでしょうか。そして、確かに私たちの住む世界は、ただ単に正しい人だけで幸せになるとか間違った人だけが不幸になる、という形にはなってはいません。
 主なる神は、私たちに対して、ただ「正しい者」だけが救われるのではなく、その「正しい者」から始まる、神の愛の実現を目指すこと、また、ただ傷つけられた「少数者」が救われるだけではなく、その民全体が救われることを目指していると考えることは出来ないでしょうか。また、誰か痛めつけられている人がいるのであれば、その小さな「少数者」が救われることが全体の平和につながるのだ、ということを伝えようとしているのではないでしょうか。
 

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