FC2ブログ

タイトル画像

『二重否定のメシア告白』マルコ福音書8:27-33

2014.03.24(14:41) 269

『二重否定のメシア告白』
(2014/3/23)
マルコによる福音書 8章27~33節

信仰と神の意志
 先日、『プルートウ』(浦沢直樹著)というマンガを読みました。誰もが知っている漫画家の手塚治虫さんの作品「鉄腕アトム」を元にしたマンガです。マンガの舞台は近未来、その世界ではアトムのように、ロボットがたくさん人間と一緒に生活をしております。ロボットらしいロボットもいますが、人間とは変わらない外見を持つロボットが生活をしています。登場するロボットたちは、仕事を持ち、 夫や妻といった家族を持ち、感情があり、どうやら疲れもたまる、そして過去の経験の痛みを持ち、悩んだりもしている。悩みが深まると体の調子が悪くなり、お医者さんではなく、技師さんのところへ行き、治療ではなく、メンテナンスや修理をしてもらっている。心の悩みなどもお医者さんではなく技師さんのところへ相談に行ったりします。
 そんな中で、ある夫婦のロボットの夫の側が不慮の事故で亡くなって(壊れて)しまいました。遺体(部品)はバラバラに処理されてしまいました。仕事の同僚であったロボットがその死(破壊)をその妻のロボットに知らせに行きました。夫を亡くした妻の側のロボットが悲しみに暮れていました。そんなとき、その妻のロボットに夫の同僚だったロボットがこんな提案をしました。「(だんなさんのロボットの)記憶、データを消去しましょうか」。
 東日本大震災から3年の時が過ぎました。丸3年となる3月11日、テレビや新聞でもそのことが振り返り、式典なども開かれていました。その中で話題になっていたことの一つに震災遺構がありました。津波によって陸に打ち上げられた船や避難ビルといった震災によって壊された建造物などの震災遺構を、残すべきか、それとも消し去るべきか、といった議論がなされていました。「家族の死を思い出すので、無くして欲しい」。当然の言葉です。「風化してしまうので、残して欲しい」。当然の言葉です。そこで考えてみたいのです。医療と言っていいのか、技術と言っていいのか、人間の記憶が、瞬時に消せるような医療行為や技術が開発されたらどうでしょうか。世の中には、悲しみに暮れているたくさんの人がいます。
 特に身近な家族を亡くした場合、その苦しみから逃れるために人は、記憶を消すといったことを選ぶでしょうか。トラウマという言葉がありますが、人間は時に、過去の辛い経験を消し去ることがあります。あまりに辛い経験を無意識のうちに思い出さないように、記憶の底に閉じ込めてしまうことです。それと同じように、何か辛い経験をしたら、その経験を消し去ろうとするでしょうか。

神義論における信仰の根本的課題

 わたしたちにとって主なる神とはどのような存在でしょうか。人には何か、願うことがあります。それは宗教的に言うのであれば、「祈り」ということが出来るでしょう。キリスト教における、「祈り」は大きく分けて2つの内容に分けられるか、と思います。一つは、「こうして欲しい」といった自分の願いを叶えて欲しい、実現させて欲しい、という祈り。そしてもう一つは、「御心のままに」といったもの、自分の願いではなく、主なる神の計画、思いを実現させて欲しい、といったものであります。
 最後の晩餐の後、イエスさまが神様に祈っていた祈りが思い出されます。マルコ福音書14章36節。(P.92)
「…「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」」
 十字架という「杯を取りのけてください」という自分の思いと、神の「御心に適うことが行われますように」という神の意志に従う姿勢。主イエスの祈りですから、当然理想的な祈りであります。そして、いわゆる私たちがいうところの願いを願う「祈り」ではなく、主なる神との「対話」とも言える祈りと言えるでしょう。

ペトロの思いと信仰告白

 今日の箇所は、前半と後半にわけることが出来ます。前半の27節から30節は、ペトロの信仰告白とイエスの応答、そして後半の31節から33節はイエスの受難予告であります。後半の部分にあたる受難予告から触れてみたいと思います。
31節をお読みします。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」
 この部分は、イエスの十字架刑による死について予告しています。そして、それはイエスの予告であるということは、主なる神の計画であり、改めることは出来ないということです。しかし、一番弟子のペトロが続く箇所で、そういった発言をいさめようとし、それに対して、イエスは厳しく叱って言います。33節の言葉。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 かなり強い調子での言葉であり、怒りの表現であります。そして「神のことを思わず、人間のことを思っている」というイエスの指摘。先ほどの祈りの課題にも、重なります。人のことを思って、また自分のことを思って、祈っているのか、また考えているのか、そして主なる神のことを思い、神のことを考え、祈っているだろうか、という選択。そして、ペトロはイエスが「長老、祭司長、律法学者たちから排斥され」て、「殺され」ること。とても受け入れられなかった。「長老、祭司長、律法学者たち」というのは、ユダヤ人たちの最高法院を構成する人々です。そういった人々に排斥される、ということ。イエスがユダヤ人に救いをもたらす存在として、期待していたペトロには受け入れられる発言ではなかったでしょう。また、もしかしてイエスさまがユダヤ人の王となることを期待していたとすれば、最高法院と対立するような言葉、発言も受け入れられなかった、と言えるかも知れません。ようするに、神の計画、イエスの計画などを受け入れる気持ちがなく、イエスさまを脇に連れて行き、戒めた。ただ、イエスさまが語られたことが、自分の思いに当てはまらないことに心配して、イエスさまに意見を述べ、逆に「サタンよ」と怒られてしまっている。まったくイエスさまの計画を理解していなかった。そして、このペトロの姿勢、ペトロの神の意志への無理解は、27節から30節にしるされているペトロの信仰告白においても、同じなのです。

メシアかキリストか
8章29節をお読みします。「そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」」この箇所では、ペトロが代表者として答えておりますが、実は質問としては、弟子たち一人一人に問われたわけであります。ペトロの答えは「メシア」です、となっておりますが、実は、ギリシャ語においては「メシア」と訳されている部分、実はギリシャ語では「キリスト」となっています。「συ ει ο χριστος」(You are the Chirst.)「あなたはキリストです。」しかし、新共同訳聖書は「メシア」となっている。口語訳聖書も「キリスト」と訳されていました。じゃあ、誤訳ではないか、という話になりますが、これにはとてもややこしい問題が横たわっています。「メシア」という言葉は、旧約聖書で使われておりますヘブライ語では「油注がれた者(マーシュイーアッハ)」という意味があります。
 ユダヤ人の考え方によりますと「メシア」とは「油注がれた者」であり、ユダヤ人を救いにもたらす存在としてとらえられております。そしてそのイメージは旧約聖書中随一のヒーローであるのがダビデであり、イエスが「ダビデの子であるのか」という問いがなされることはありますが、それは「あなたはメシアなのですか」という問いと同じなのです。ギリシャ語では、「キリスト」と記されていながら、ここで「メシア」と訳されているのは、ペトロを代表とする弟子たちの思いに相応しい翻訳であります。なぜなら、弟子たちは、この時点ではイエスに対して、ダビデの子としての「メシア」、「世」を救う者のイメージとして「メシア」としか求めていなかったからです。そして、言うなれば、この「メシア」とは人の側が求める、神の子の姿。そして「キリスト」とは、神の側による神の子の姿ということが出来ます。

メシア信仰の否定

 わたしたちはイエスがこの後、どのような道を歩み、十字架にかかったかを知っているわけです。しかし、弟子たちは知りません。そのような中での「メシア」という言葉でありますから、十字架にかかるという運命をしらず、それを知らないのであれば「キリスト」という呼び方・称号はふさわしくない、という理解でありましょう。そして、この「メシア」という言葉、翻訳には、「イエス」と「弟子たち」の思い、認識の違いが現れています。そして、弟子たちの信仰を否定する主なる神の意志が現れている、と言えないでしょうか。弟子たちにとっての「メシア」とはどのような存在であるのか。マルコ福音書10章35から45節の逸話に現れています。弟子のヤコブとヨハネが「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせて下さい」とイエスに願っています。これはイエスがこれから歩もうとしている道をまったく理解していない言説です。そういった意味で、弟子たちの信仰を否定していると言えます。

私たちの信仰の否定
そして、もう一つの信仰のあり方を否定している、と言えないでしょうか。そしてそれは、わたしたちの信仰のあり方であります。最初に、「祈り」の問題について触れました。ゲッセマネの園におけるイエスの祈り、人の意志と神の意志の狭間に揺れる「祈り」がありました。また人においても、何かを叶えて欲しい、という人の側から「祈り」があり、その応答としての神の意志があります。今日の箇所、ペトロの信仰告白やイエスを戒めようとする言葉がありました。わたしたちも同じように神の意志に対して、知らず知らずのうちに「否」を唱えていることは無いでしょうか、また当然、自分の人生の歩みに対して、不安や不満を持っているとしたら、神の意志の否定ではないにしろ「何故?」という問いが生まれてきます。
 そのような問いをどのように捉えれば良いのでしょうか。わたし自身、いろいろな問いを持っています。誰でも持っているはずです。身近な死や病など。わたしもそんな問いを続けていました。しかし、常に神様に対して「何故?」という問いを問い続ける作業の中で、いつの間にか、牧師になってしまっていた、と思っています。また、考えてみれば、祈りとしての「問い」に対する「答え」を求めていたはずなのに、その答えについては、どうでも良くなっているように思います。そして、ただ主なる神の答えを聞きたい、という形の信仰から、主なる神そしてイエス・キリストが一緒に歩んでくださっているという歩みの中で、どのような経験が与えられるだろうか、といった形の信仰に変わってきたように思います。イエスに付き従ってきた弟子たち。イエスが王となる自分たちが右に、また左に座る、といった信仰、希望を持っていました。しかし、イエスは十字架上の死を遂げ、三日目に復活しました。弟子たちは、その復活したイエスと再会することによって、弟子たちの使徒としての歩み、そして主なる神の群れとしての教会の歴史が始まりました。そういったあり方をこういうことはできないか、と思います。
 教会の歩みと神さまとの関係は、祈る対象としての人と祈られる対象としての神といった関係を超えて、共に歩みをすすめる関係に変わったということです。「御心のままに」という祈り、ただ神にすべてを任せる、というだけでなく、わたしたち自身も神と共に歩み、その進むべき責任が与えられている、と捉えることは出来ないでしょうか。主なる神は、メシア(救い主)を希望する弟子たちの信仰を否定し、神さまを単なる祈られる存在としておきたい私たちの信仰に対して、共に歩む神なのだ、ということをイエスさまの歩みを通じて示したのではないでしょうか。その恵みに感謝して、今週も歩み出したい、と思います。

bp7.jpg
  農村伝道神学校の夕方

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村地域生活(街)関東ブログ小田原情報へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

スポンサーサイト

周縁自体


2014年03月
  1. 『二重否定のメシア告白』マルコ福音書8:27-33(03/24)
次のページ
次のページ