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『信仰と行為と自己と他者』ヤコブの手紙2:14-26

2014.02.27(10:55) 265

『信仰と行為と自己と他者』
(2014/2/23)
ヤコブの手紙 2:14~26

ルターとヤコブ書
 今日は、私たちに与えられたテキストは、ヤコブの手紙であります。イエスの兄弟であり、初代教会リーダーであったヤコブの名前が冠せられていますが、そのヤコブが書いたものではなく、後の時代のある人がユダヤ人のキリスト者、クリスチャンに向けて書かれた手紙と考えられております。
 しかし、この手紙、その内容から、聖書(新約聖書)に加えて良いものか、という議論がありました。まず、その特徴としてあげられるので、極端に「イエス」という名前が出て来ることが少ない、ということです。今日の箇所においても、「唯一の神」という形で、神の名は出てきますが、イエスという形で出て来るのは、1章1節と2章1節の2回のみであり、また、その内容も「神の教えを実行する」ことが中心的なテーマとして記されている、ということから、これはキリスト教というよりは、ユダヤ教の文書ではないか、という疑いを長い間もたれていました。
 そしてプロテスタントの始祖とも言えるルターの「ヤコブの手紙」について、「藁(ワラ)の書」として、新約聖書から外そうとしていました。おそらくルターとしては、この手紙に示されている、「行いを実行する」ことを強調する特徴を受け入れることが出来なかった。主なる神、イエス・キリストへの「信仰のみによって義とされる」と語った、ルターですから、自らの主張と異なる、というところも重なって、ヤコブの手紙が聖書に相応しいかどうか、が気になったのでしょう。そして、ある逸話がヤコブ書に対するルターの捉え方を示していると思われるので、紹介したい、と思います。
「1.ユダヤ人のシナゴーグや学校を完全かつ永久に破壊すること。この処置を実行すべき 2.ユダヤ人の家を打ちこわし、彼らをバラックや馬屋のようなところへ強制移住をさせるべきこと。 3.彼らからすべての聖典や律法書を没収すべきこと 4.彼らの全財産を没収すべきこと 5.(強制移住をさせた)ユダヤ人男女に斧やつるはし、押し車などを与え強制労働をさせるべきこと。 6.ユダヤ人祭司の活動を禁止し、ユダヤ人の保護や安全を取り消すこと。」
 ちょうど、東京都内で図書館において『アンネの日記』が破られる、というニュースがあり、日本はそんなことが起こってしまう現状なのだ、と寒気を覚えましたが、先ほど、お読みしましたナチス・ドイツの行いを思い起こさせる記述、実はルターが『ユダヤ人と彼らの虚偽について』という文書の中において、記していた記述なのです。

ヤコブ書に示される課題

 カトリック教会の腐敗に怒ったルターによって始まった宗教改革。カトリック教会における「免罪符(今は贖宥状)」や「伝統」を否定するものでした。ヴィッテンベルクの大学の聖堂のとびらに「九十五ヶ条の論題(テーゼ)」と呼ばれる質問状を張ったことからはじまりました。実は、そのときルターの思いとしては、カトリック教会のみならず、ユダヤ教徒たちも「信仰のみによって救われる」という自分の打ち出した新しいキリスト教のあり方に同意してくれる、と思っていました。カトリック信仰をもつ人々がプロテスタント信仰に解放されるように、ユダヤ教徒も律法でがんじがらめの状態から解放される、と考えていたようなのです。しかし、ルターが思うようにはならずに、晩年のルターが勢い余って書いたのが、先の文書であります。そうしたルターの背景から考えますと、今日の箇所などで強調されている「行いの実行」に対して、「律法の実行」や「カトリック教会における祭儀や献げ物」が意識されていた、と考えることができます。
 またヤコブ書に否定的な人々は、「信仰義認論」「人は神によって義とされる」のだ、という使徒パウロの言葉を根拠にするかも知れません。また、特にルターもおそらくそう考えていたのでしょう。パウロは「行為」にではなく、「信仰」によって義とされる、ということを強調しております。この場合、パウロにおける行為とは「律法」や「割礼」といったユダヤ人の保持していた伝統に対する「信仰」、さらに民族や行いを超えた形で神の愛が下ってくる、ということが強調されています。そうしたパウロの言葉に対して、やはり「行いが伴わない信仰は、信仰では無い」というヤコブの手紙は厳しすぎるのではないか、という考え方です。

ヤコブ書のテーマ
 ヤコブの手紙がどういった手紙であるのか、を知るために幾つかの箇所をお読みします。
まず、1章22節から23節。(P.422)
「1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。」
この箇所において、強調されていることは、良いことを行うことです。「御言葉」と記されている神の導きを実行すること。聞くだけでは、面白い表現ですが、自己中心的なあり方だ、と言いたいのかも知れません。
 また、さらに2章1節から4節。
「2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。2:2 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。2:3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、2:4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」
 なかなか厳しい言葉であります。人を分け隔てしているのであれば、キリスト者として相応しくない、ということです。なかなか難しいことですが、教会はこうした配慮を常にしていくことが大事でしょう。そして、こうした箇所を読んでみますと、ヤコブ書が、「行い」か「信仰」か、といった何らかの神学的な議論をしようとしている、というよりは、実際の教会の現場で起こる問題に答えるために書かれていることがわかります。

信仰と行為
 そして、今日の箇所に続いていくのですが、2章14節をもう一度お読みします。
「2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」
 とつぜん、「彼」という存在が登場します。続く15節16節をお読みしますと、その人が、食べ物にも困窮し、まともな衣服もない、状態であらわれたことがわかります。
 そうした人に対して、14節では、「信仰」のみで「行い」がなければ、具体的に手を差し伸べなければ、その彼を救うことができるだろうか、ということです。そして、注目すべき事は、この「彼」とは、別に生活に困窮している街中にいる人というわけではなく、教会の中にそうした困窮していた人がいたというのです。そうした意味で読むと、ヤコブの手紙、またこの箇所についても、教会における社会に対する奉仕や社会福祉に対する働きについて述べている、ということではなくて、教会の中にそういう課題を持った人が来ていた、ということです。
 このことは、すごいことである、と思います。今現在の日本における教会において、ホームレスの人々が集う教会というのは、限定されています。それは教会が、様々な考え方や生活空間で住み分けを行っていることが一つの根拠ですが、当時の教会は、困窮した人が共に礼拝を守り、共に食卓についていたのでしょう。しかし、それだけでは足りない、と言っている。改めて15節16節をお読みします。
「2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」
 要するに、衣服や体を覆う布を与えてこそ、本当だ、と言っている。その人の身を守ることがあってこそ、本当の「行い」、ヤコブ書がいうところの「行い」である、と言っているのです。

自己義認と他者義認
 しかし、話はそれだけにとどまりません。論争的になってきて、論点が変わっていきます。2章18節。
「2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」
 翻訳があまり良くないのですが、要するに「あなたには信仰があるのか?」と論争を挑んでくる人がいるのであれば、「行いの伴わない信仰を見せてくれ」そうしたら、わたしは「行いの伴う信仰を見せてあげよう」と反論する、ということです。そして、さらにアブラハムがイサクを献げる逸話が出てきます。
 主なる神と信仰者の始まりともいえるアブラハム、なかなか子どもが与えられなかったアブラハム、そしてやっと神の約束によって与えられた子どもイサクを、また献げなさい、という。これはそれほどの思いを持って、「行い」を進めなさい、という勧めではなく、信仰における行い、実践のモデルとして、始まりとして、アブラハムの行いを忘れないようにしなさい、ということでしょう。
 そして、続く2章24節。
「2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」
 アブラハムのあり方を根拠にして、信仰による義を否定するような言葉、人が行為によって義とされる、という言葉です。見逃してはならない事は、アブラハムにとって、イサクという存在は、その恵みの始まりの存在である、ということです。「あなたの子孫を星の数ほどまでに増やす」という約束。アブラハムにとっては、そんな大いなる恵みの始まりであるイサクを献げなさい、と言われ、献げることによって、義とされる。アブラハムとイサクの物語にしめされていること、それは主なる神にすべてを委ねて、神の意志に従って生きる、ということでしょう。また「行い」と「信仰」を分けて考えること自体が、問題であり、すべてが神の業なのだ、ということが出来るかも知れません。
 そして、26節の言葉。
「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」
 ヤコブとしては、信仰と行為は切っても切れないものである、という考え方を持っています。そして、それは信仰義認論を語ったパウロにおいても、同じ事と言えます。キリスト教の始まり、原始教会においては、信仰と行いを分ける、という発想が無かった、と言えます。今日の箇所において、ヤコブが語る教会の中には、衣類に窮乏するような人がいた、ということを知ることが出来ます。また、パウロが記した第一コリントにもこのような言葉が記されています。
 第一コリント11章20節から22節。(P.314)
「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。」
 まるっきり逆のテーマを持つ、パウロとヤコブの手紙か、と思いましたが、このように読んでみますと、まったく同じテーマが課題となっていることがわかります。コリント教会の中においても、食べ物を持つ者と持たざる者といった課題が起こっていました。それは別に食べ物だけの問題では無いでしょう。そして、そうした課題は、今なお続いている、ということが出来ます。私たちの教会においても、様々な奉仕や役割分担、なかなか上手くいかない場合もあります。今日のようなテキストを通して、これからの教会がどうあるべきかを、模索していきたいと望んでおります。

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