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『救い主イエスの誕生〜マリアより生まれ〜』ルカ福音書1:47-56

2013.12.30(08:13) 248

『救い主イエスの誕生 〜マリアより生まれ〜』
(2013/12/22)
ルカによる福音書 1章 47~56節

キリスト教の中におけるマリア

 イエス・キリストが誕生したことを記念してわたしたちはここに集っています。今日お読みしましたルカ福音書1章47節から56節は、「マリアの賛歌」と呼ばれる、マリアの神への祈りが記されております。ところで、マリアという人は、どのような人であったのでしょうか。カトリック教会においては、聖母(聖なる母)マリアとして、崇拝の対象、祈りの対象とされています。そして、受胎告知、処女懐胎、なども、そうした崇拝の根拠となっています。また、キリスト教が様々な地域に広がっていく過程において、各地における母神(母なる神)崇拝と交わって、広まっていってということが言えます。
 しかし、実際のマリアという存在は、どのような人であったのかについては、あまり知られていない、というか、考えられていないように思います。まず聖書から、時系列的にさかのぼる形で、マリアに近づいてみたい、と思います。マリアが聖書において、最後に登場するのは、使徒言行録における記述になります。使徒言行録1章4節。(P.214)
「1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」

 マリアは、最初の教会とも言えるエルサレムの教会につどっていました。そして、イエスの十字架刑の時に立ち会った場面に登場します。聖書の記述としては、マルコ福音書に「ヨセの母マリア」(Mk15:40)と記されているのが、イエスの母マリアではないか、と考えられています。また、ヨハネ福音書19章25節には、はっきりと、イエスが臨終のときにマリアと弟子たちに話しかけたという場面が記されています。(P.207)
「19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。」これらの箇所から、知ることが出来るのは、マリアはイエスの十字架刑に立ち会っていたこと、さらにその臨終の場面に立ち会い、その後は、エルサレムにある教会に集っていたということです。ということは、マリアは、イエスを自分が産んだ子でありながらも、神の子、また救い主として、自分も1人の弟子として従おうとしていた、ということが言えるかも知れません。
 しかし、その臨終に立ち会うということ、弟子たちと同じように、その後の神の計画など知らないわけですから、処刑される人の一人の母として、深い悲しみの中にあったことはたやすく想像がつきます。また、その場面を、ミケランジェロなどの多くの芸術家たちが、「ピエタ」(憐れみ)の像として石像や絵画に描きました。一般に、イエスを抱くマリアの姿が「憐れみ」を現す「ピエタ」と呼ぶのか、経緯がわかっていないのですが、そこには私たちのために自らを献げられる神の愛が込められているのですが、同時に母マリアが神の子ではない一人のイエスに対する憐れみ、また主なる神のマリアに対する憐れみを見ることも出来るでしょう。

マリアの賛歌

 今日、私たちに与えられたルカ福音書は、生みの親であるマリア、母であるマリアが中心となってイエスの誕生物語(クリスマス)が記されています。今日の箇所、1章47節から55節は、「マリアの賛歌」と呼ばれている箇所であります。しかし、この詩の内容には、私たちが知っているマリアの行動には、まったく繋がらないものであります。冒頭に触れましたように、神の子イエスを生んだ聖なる母としてのマリア、崇拝の対象としてのマリアであれば、理解出来るかも知れません。しかし、ピエタの像に記されているように、息子であるイエスの死を悲しむ母としてのマリア、一人の女性としてのマリアとしては、どうでしょうか。また、マリアには、家を捨てて出ていったイエスを連れ戻そうとした一面もあるのです。
 さらに、こうしたマリアの有り様は、天使ガブリエルが現れ、この世の救い主となる子どもが生まれるので、その子をイエスと名付けなさい、と言われ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えるマリアの姿とも一致しないのでは無いでしょうか。主なる神が使わした天使のいうことに対して、そのままに受け入れるということ、とても大きな決断が必要なことと言えますが、どうでしょうか?それを積極的なこととして捉えることも出来ますし、消極的な姿勢として捉えることも出来ますが、どう考えれば良いのでしょうか?また、本当のマリアというのは、どのような人だったのでしょうか?
 イエスを産んだときには、「お言葉どおり、この身に成りますように。」という言葉に現れているような受け身的な女性として、また母としてのあり方を歩んだのでしょうか。イエスの父であるヨセフはイエスが一人前になる前、旅にでる前には亡くなっていたと考えられますが、一家の大黒柱である夫を亡くした母親として一人、頼りない状況があったからこそ、家を出て行ったしまったイエスを連れ戻そうとしたのでしょうか。そのときには、とても受け身的では子どもを育てられなかったという考えることも出来ます。また、その最後には、イエスの死を看取り、最初の教会の始まりに集ったマリアです。「マリアの賛歌」に現れるような信仰や積極をもっていたのでしょうか。本当のマリアとは、いったい、どのような人だったのでしょうか?

Let it be
 イギリス出身の世界で最も知られたロックバンド、といえばビートルズです。そのビートルズの名曲「Let it Be」の歌詞の冒頭には、マリアが登場します。
「When I find myself in times of trouble. Mother Mary comes to me, Speaking words of wisdom, "Let it be."」
日本語訳しますと「苦しみ悩んでいる時には、聖母マリアが現れて、貴い言葉をかけてくださる。 “すべて なすがままに” 」〔アルバム『LET IT BE』歌詞カードより〕となります。
 この「なすがままに」と訳されている「Let it Be」と、聖母マリアの組み合わせには、先ほどお読みしましたルカによる福音書1章38節の言葉「お言葉どおり、この身に成りますように。」が背景にあると考えることが出来ます。38節において「この身に成りますように」と訳されている言葉、幾つかの英語聖書では「Let it be」という翻訳が用いられています。そして、「Let it be」という言葉を、どのように訳すべきか、ということが議論にもなります。この曲「Let it be」を作詞・作曲したポール・マッカトニー自身は、このマリアは、ビートルズの解散を考えて思い悩んでいた時期に、既に亡くなっていた母メアリーが夢に現れたことがきっかけでマリアという言葉を含めた、とコメントしています。
 ビートルズという世界一のグループを続けるべきか、解散するべきか、また自分の進むべき道に関して、思い悩んでいたとき、母メアリーが幻として現れた。それほどまでに追い詰められていた、ということでしょう。
「Let it be」という言葉。積極的なある決断、「自分の思いのままに」、前向きに歩み出して「後は野となれ山となれ」といった思いがあったのか。また逆に受け身的に、「そのままにしておこう」とか、消極的に「なるようになれば良い」とか、その運命に身を委ねる思いであったのか、どちらの理解も出来ます。また、こうも考えることは出来ないでしょうか、その思いが同居している、という捉え方です。私は、「Let it be」のメロディーと歌詞には、積極的であるとか消極敵であるとかいう姿勢を超えて、与えられる自らの運命に身を委ねる姿勢が込められている、と感じますが、皆さんはどうでしょうか。

「御心のままに」
 今日の聖書の箇所、マリアの賛歌に込められた祈りと指針の力強さ、と1章38節の「お言葉どおり、この身に成りますように」は相反しない、矛盾しないのではないでしょうか。キリスト教において、このマリアの言葉「はしため」に過ぎない自分を神が選んで下さった、神の御心のままに「この身になりますように」という祈り、受け身的な姿勢、また「控えめ」を美徳とする女性の理想的姿として捉えられてきたように思います。
 しかし、そういった捉え方ではない受け止め方があります。それは、主なる神の「御心のままに」、「マリアの賛歌」に示されているような信仰的な積極性、神の国の実現のために身を委ねる生き方、信仰者としてのありかたです。母マリアの行動をルカ福音書はイエスが「女性を通して」この世に生まれた、ということを重んじ、そのことが何を示しているかを、この賛歌に込めた、と言えます。
 そして、このあり方は、女性であるとか男性であるとかを超えて、受け止めることが出来ます。わたしたちキリスト者は、神の御心を聖書によって、知らされていながらも、実現できない弱さ、完全でいられない弱さを持っています。マリアの歩みを見たときどうでしょうか。一貫していたとは言えません。わたしたちも同じではないでしょうか。今日は出来たかも知れないけれども、明日はどうだろうか。来年は、10年後は…。また今日は出来ないかも知れないけれども、明日は、来年は、10年後には、主なる神の御旨に叶った存在となることができる…。
 クリスマスは、主なる神が人と共に、自らの計画を実現しようとした最初に出来事ということができます。私たちは不完全な存在です。しかし、主は私たちを信頼し、主イエスをこの世にたんじょうさせたのです。
何の力もない赤ん坊が、その笑顔によって、多くの人々を幸せにしてくださるように。わたしたちにも出来ることがあります。クリスマスの今日、そのことを信じ、新しい歩みを歩み出したい、と思います。

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