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『誰かの助け手として』創世記2:4b-9/15-25

2013.10.28(08:30) 239

『誰かの助け手として』
(2013/10/27)
創世記 2:4b〜9/15〜25

一週間による創造神話と進化論

 今日は、創世記の冒頭に収められている創造物語の一つを聖書箇所として与えられました。私たちが良く知られている創造物語ですが、二つの箇所、要素から成り立っていると言えます。一つは、創世記1章に当たる部分。この世のすべてが、主なる神によって一週間で創造されたという物語。そして、今日の箇所にあたる部分、2章から3章にあたるアダムとイブの創造物語とエデンの園からの堕落が収められて箇所であります。
 そして聖書の冒頭の部分でありながらも、読むのには、なかなか困難がある箇所と言えるのではないか、と思われます。創世記1章のこの世が一週間で創造された、という記述。このままに受け取ることが出来るでしょうか。今の化学の力によれば、宇宙はおおよそ138億年前に誕生した、ビックバンによって発生し、増大と共に徐々に冷えていって、星雲が出来、星が誕生し、地上が形づくられるようになった。そして、その一つの太陽系の第3惑星、地球と呼ばれる星において、生物が誕生した。
 そして、その地球における海において、単細胞生物として「いのち」は現れ、様々な進化の過程を経て、今の「ヒト」となり、人類という生物の歴史が編まれている。しかし、創世記における記述とそうした私たちが学校などで学ぶ歴史とは全く異なっています。そして、それを信仰の問題として、考えるのであれば、どうするだろうか?わたしは、いわゆる化学の視点と聖書の記述は対立するものではない、と思っています。が、なかなかそれを説明するのは、この時間では難しいので触れませんが、アメリカにおいては、この問題が実際に裁判で争われたことがありました。

創造論と進化論
 チャールズ・ダーウィンが記した『種の起源』において、生物が様々な変化を繰り返しており、その環境に適応した変化を為した個体が生き残っていく、ということを、自然選択説(自然淘汰説)を提唱しました。これが現在、広く受け入れられている進化論と呼ばれている説です。
 が、19世紀の前半アメリカにおいては、このダーウィンの学説、ダーウィニズムは、神の創造を否定するものとして、法律によって、ダーウィニズムを教えることが禁じられていました。そのことに異論を唱えた、スコープスという生物の教師があえて、「進化論を教えてはならない」とする法律を破り、法廷において、進化論に反対する人々と対決しようとしました。
 その裁判は、スコープス裁判とかモンキー裁判と呼ばれました。進化論によれば、「ヒト」の祖先は、「猿」ですから、そのように呼ばれました。この裁判、アメリカ全土で注目を集め、小さな地方の裁判所に多くの報道関係者や傍聴者が集まったため、屋外で審議を行ったそうです。裁判において、進化論を教えたスコープスさんは負けたのですが、いわゆる聖書の創造物語をそのままに信じることに対して、かなり無理があることが示された事件として、アメリカのキリスト教史には刻まれていることです。
 そして、もう一つ興味深いことは、スコープスさんの反対者となった検事のブライアンという人。いわゆる適者生存、社会ダーウィニズム的な考え方、今で言えば、弱肉強食の考え方に反対した今でいえば、人権派と呼ばれるような政治家で民主党の大統領候補でもであった人でした。ブライアンとしては、創造論に現されている、人はすべからく神によって創造された神の子であり、そうした信仰が同時に社会正義の基盤、あらゆる人がもつ人権の基盤として、と考えていた。そうした彼の立場からすれば、ダーウィンが唱えた進化論を受け入れることは、『進化論』を教育の現場が受け入れることは、社会が進化論を受け入れることとなり「強い者はより強く、弱い者はより弱くなる」あり方を肯定することになる、という思いがあったのではないか、と言われています。
 その後、そうした社会ダーウィニズムは弱肉強食の思想となり、後に「優生学」と結び付きナチズムなどを生むことになる。「能力・力のない者は死」「それが世の中の原理」「力ある者が歴史・生命を繋ぐ」「人間は進化発展している」「有色人種から白人へ」「皮膚の色の違い」は、「種」の違い、など。あらゆる人種的至上主義、の基になった可能性があります。そうした人類の歩み、今の行き過ぎた競争社会のあり方を見ますと、あながちブライアンが聖書の創造論にこだわったことに対して、非科学的なことであったとして、一方的に否定することも出来ないかも知れません。


人の創造物語において

 今日の聖書の箇所、創世記の2章は、最初に人として創造されたアダムとエバの物語に当たる箇所です。創造物語において、記されていること。そこから私たちは、主なる神とはどのような存在であるか、ということも知ること、考えることが出来ます。また同時に、その神から創造された被造物はどのような存在であるのか、今日の箇所においては特に「人とはどんな存在か」「神にとって人は何か」ということが記されている箇所と言うことが出来ます。今日の箇所2章4節の後半から7節をお読みします。
「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。/しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
この人の創造において、興味深いことは、人が創造された目的とも読める記述があることです。それは、5節の後半の言葉「また土を耕す人もいなかった。」という言葉。そして、それと共通するものとして、15節の記述が挙げられます。2章15節の言葉「人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。この箇所を読むと、人は地を耕すために創造された、ということ。また更に深めて読むのであれば、神の創造した理想郷としてのエデンの園の管理者として、耕す者として創造された、ということです。

失楽園から見える人
 そして、続く箇所において、9節には、命の木と善悪の知識の木が生えていたこと、が記されています。しかし、16節17節においては、その木の実を食べてはならない、食べたら死んでしまう、ということが記されています。しかし、この食べたら死んでしまうと言われた「善悪の知識の木」からアダムとエバは、3章の失楽園物語において、この善悪の知識の木の実を食べてしまいました。しかし、死ぬことはありませんでした。ですが、そうではなく確かに死ぬことになりました。アダムとエバはエデンの園を追い出されたことによって、人を苦しんで産むことになり、また自らも死ぬことになった、と読むことが出来るかも知れません。
 こういうことです。アダムとエバはその木の実を食べてしまった結果、エデンの園から追放され、女に対しては、創世記3章16節で「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」と言われます。「はらみの苦しみ」を大きなものにする、とあります。この言葉は、ただ出産の痛み、苦しみを指すのではなく、子を産み育てる、ということ全体を指しているのではないでしょうか。人間全体が子を生み出すこと、子孫を生み出すこと。そして、自分が死んで天に帰って行く、という全体のことを指している、と言えます。アダムとイブはエデンの園にいれば、死ぬことはなく、子どもを産み、育てるということも無かったのですが、追放されることによって、子を産むこと、そして自分が死ぬ、という運命が与えられた、ということです。
 また男に対しても、同じく3章17節から19節においてこのように記されています。「(3:17) 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。(3:18) お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。(3:19) お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」」
3章17節の言葉、「土は呪われるものとなった」とあります。人はもともと塵から作られましたから、土とは大地とは関係が良いはずです。しかし、呪われるものとなった。関係が良ければ、人が望むものが土、大地から生えてくるはずです。しかしそうはならない、苦労して、雑草を抜いて、土を耕して、収穫を願わなければならない、そして、また死に土に帰っていくのだ、と主なる神は言われるのです。

誰かの助け手として
 最初に創造論における裁判の話題を取り上げましたが、いわゆるダーウィンの進化論を受け入れる上で、キリスト教信仰的大きな問題と言えば、人が持つ特別性が否定される可能性に対する恐れがあったでしょう。人も他の生物、動物だと同じだとなってしまう。そして、もう一つは、この世をつかさどる主なる神の意志が否定されることへの恐れであったと言えます。しかし創造神話における主要なテーマ、主題はそういったところにはないのです。
この物語において、現されていることは、人が生物の長ということか、と言えば逆かも知れない。先ほど、2章5節と15節において、人は地を「耕す者」と創造された、ということに触れました。しかし、この耕す、というのは、地を利用しよう、という自分のものとして支配しよう、思い通りにしてしまおう、という意味をくみ取れるかも知れません。しかし、本来的に言って優秀な農民、百姓というのは、土、畑や田んぼを思い通りにすることを「耕す」というではなく、ずっと共に生きていくあり方こそ「耕す」というあり方ではないか、と言えます。
 また、2章の後半において、男のあばら骨から女性が創造されたと記されていますが、その創造された理由こそ重要では無いでしょうか。2章18節「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」また2章20節「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」。男は女を助ける者として創造された、そして、それは一方通行では泣く、互いに助け合う存在として創造されたのだ、ということが23節における「わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」という言葉には、込められているのでは無いでしょうか。

主なる神の助け手として
 聖書には、その主なる神の歩みが記されている、と言えます。が、同時にそれは人の歩みでもあります。そして今日の箇所、創造物語のテーマで、考えるのであれば、主なる神は何故私たち人を創造したのか?ということを考えなければならないでしょう。他の神話に比べるのであれば、聖書の創造物語における神さまは、この世におけるすべての物、物質、生物に至るまでを創り出し、人に対する徹底した平等主義があり、主なる神は最初からいて、最後までいる、ということが、特徴としてあげられます。
 そして、いうなれば、神さまは人に対して、助け手として、働きを求め続けているといえるのではないでしょうか。アブラハムに代表される族長たちを守り、導き、奴隷として苦しみの中にある時にはモーセを通じて、エジプトから救い出す神。しかし、他の神へと進もうとするときには、妬む神。ダビデを初めとする王を立てて支配しようとしますが、なかなか行かない。そして、最後に自らを神として、イエスという存在を通して、人に呼びかけようとしている主なる神。ただ単に人を助けようとしただけでなく、自らの思いとして、人に働きかけ、人の喜びを喜び、悲しみを悲しんでいる。
 こうしたあり方は、ただ単に「私たちと共にいる神」という告白では収まらない、留まらない神の姿が現されているのでは無いでしょうか。それは、「わたしを助けて欲しい」と神自身が人に呼びかけ続けている、そうした神なのだ、ということはできないでしょうか。多くの族長たち、王、預言者たち、イエス、そして使徒、イエスの弟子たちの言葉、そして聖書を通じて、神さまは私たちに「助けて欲しい」と叫び続けているのだ、という事は出来ないでしょうか。
 わたしたちはイエス・キリストを通じて、主なる神が、喜ぶこと、そして悲しむことを知っています。そうした思いを共有して欲しい、そして一緒に働いて欲しい、と神自身が私たちに呼びかけているのだ、と考えること。そして、そのために人は創造されたのだ、単なる神の被造物ではなく、神自身が私たちを似姿として創造したのは、地上に自らの意志を実現する「助け手」として創造したのだ。共に喜び、悩む存在と創り出されたのだ、と考えることは出来ないでしょうか。
 信仰もそうではないか、と思います。信仰を持つこと、洗礼を受けること、キリスト者となることは、何かが出来るとか、特別なことでは無い、と思います。まず、主なる神、そしてイエス・キリストが喜ぶことを喜び、悲しむことを悲しむことだけで十分ではないか、と思います。常に私たちを助け手として信頼して下さっている主に信頼を置き、今週も与えられた歩みを歩みたい、と思います。

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       早朝の小田原の町                  とある日の朝日


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