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「最後になった労働者」マタイ福音書20:1-16

2013.09.24(07:48) 235

「最後になった労働者」
(2013/9/22)
マタイによる福音書 20章 1~16節

後にいる者が先になり、先にいる者が後になる

 今日の聖書箇所は天国の説明としてイエスが語った喩えであります。あるぶどう園の主人が、自分のぶどう園で雇おうと、朝、まず夜明け(6時ぐらいでしょうか)と同時に人を呼びに行きました。そして1デナリオン(一日の日当=10,000円ほど)の賃金を払ってやる、と約束して、連れてきました。そして、9時にも広場に行って、人を呼んで、働かせました。続いて、12時も3時にも、そして5時にも、人を呼んできて、ぶどう園で働かせました。そして、仕事の終わりの時間(6時)になって、遅い時間から来た人々から順番に、1デナリオンを払っていってやりました。そして、一番最初に来た人の番になって「1時間しか働いていない奴が、1デナリオンだから、自分はもっと貰える」と思って、楽しみにしていたら、自分も1デナリオンで、それに対して文句を言った、というお話です。
この喩えをどのように受け取れば良いのでしょうか。今日の箇所の冒頭の言葉20章1節には、「天の国は次のようにたとえられる。」とあり、神の支配する国とは、「どれだけ、一生懸命に働いても同じ評価しかされない酷い所だ」という思い。また、「神さまは不公平だ」という思い。また積極的にというか、そのことを受け入れるとするならば「最初から、1時間しか働かない」、という人もいるかも知れません。また、今日の箇所の一番最後の言葉、20章16節の言葉「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」から、一番最後になることばかり狙って、誰も一番になりたがらない世界、集団が生まれるかも知れません。しかし、一番になりたくないのであれば、誰も列に並ばなければ良い、広場に集まらなくても良い、ということになって、まったく神の国、天の国と言っておきながら、誰も集まらない、誰もいない国になってしまうのではないでしょうか。

人の評価と自分の評価
 わたしはこの喩えを読むときに、学生時代にテストの結果をもらうときの感覚に似ているのではないかなあ、という思いを持っています。わたしにとって身近なある高校生の話をしたい、と思います。仮にSくんとしておきます。Sくんは、高校時代、あんまり真面目な生徒ではありませんでした。また、通っていた高校の学生のほとんどが大学を目指すような学校でした。彼も最初は大学でも行こうかなあ、と思っていたのですが、高校2年生になる頃には、卒業してすぐに働きたい、と思っていたので、あんまりテストの結果や成績など関係ない、学生生活でしたので、とても不真面目といえば、不真面目な学生で、だいたい午後4時から午後9時過ぎまでアルバイトをしており、学校では昼寝ばっかりしていましたそんな生活でしたから、いろいろな伝説が生まれました。たとえば、数学のテストでは、100点も取ったこともありましたが、0点も取ったこともありました。そのときは、担当の先生から、「Sくんは、そんな生徒ではなかった。やればできるはずだ」と、長々と注意も書かれたことがありました。
 また、こんなこともありました。彼は化学の教師の態度があまりに横柄で頭にきていたのですが、あるとき彼が一番前であまりに眠かったので、熟睡していたとき、「授業を聞く気がないのなら、出ていけ」と言われましたので、教室から出ていきました。それから、困りました。落としたら、留年です。留年だけはしたくなかったので、その後、たしか2週間後ぐらいにテストだったのですが、3回ぐらいの授業はボイコットして、必死で化学の勉強をしていました。なかなか、立派というか、最初からやる気を出せば良いのに、という感じですが、とにかく負けず嫌いなのですね。そして、テストの結果が出ました。なんと83点、クラスで一番でした。留年の危機からも逃れられそうです。よしよし、どうやらクラスでトップみたいです。思わず、笑いが出てきますが、こらえます。しかし、彼の友人が、自分のテストをもってやってきました。なかなか自信のある点数だったようですが、私のテストを見て、驚いています。授業も出ていないのに…。
 また、こんなこともありました。いわゆる実力テストという毎年2回ほどありました。マークシートのテストです。その時期は、アルバイトも忙しくて、まず寝坊して、テストに遅れました。そして、カバンも持ってきていなかったので、鉛筆も持っていなかったので、職員室でボールペンを借りて、机に尽きました。しかし眠い。どうしようかと思い、良いことを思いつきました。マークシートのテストだったので、全部「3」という回答の答案を書いたのです。まったく問題の内容も見ずに、すべての問題の答えを「3」にしました。そして、すぐに居眠りを始めました。みんな心配しました。「おいおい。大丈夫かよ」と。そして、テストの結果が出ました。
みんな唖然としました。実力テストは、印刷された用紙に、クラスで何番という、しっかりとした結果が出るのですが、なんと35番。彼を心配した友人たちよりも上でした。本当にテストの結果は無情です。

自分の評価と人の評価
 まさに、1時間しか働いていないような労働者のような行いをして、まあまあ、の結果を得た、という私が良く知るSくんのエピソードですが、こんなことがまかり通るのであれば、誰も真面目に勉強しなくなるでしょう。そして最近では、学校現場において、いわゆる足の引っ張り合いが行われている、という話をする内田樹と評論家の人がいます。彼の言葉を紹介します。
「現代日本の不幸は、あまりに長期にわたって安全で豊かな社会が続いたために、喫緊の課題が、「集団として生き残ること」ではなく「集団内部での資源の分配競争に勝ち残ること」に変わってしまったことにある。家庭教育も学校教育も、「共生」のためのノウハウを教えることを忘れ、「競争」のための能力を優先的に開発したことにある。
 競争では、同一集団内部での相対的な優劣だけが問題になる。入試がわかりやすいかたちだが、偏差値というのは同学齢集団内部でのポジションを示す数値であって、絶対学力とは関係がない。同学齢集団の全員の学力が低下しているときでも、その中で相対的に高いポジションにいれば、偏差値スコアは高い。競争的環境においては「自分が優れている」ことと「競争相手が劣っている」ことは同義なのである。
 現代日本人はこの「競争のロジック」にあまりに慣れてしまった。「いじめ」はそれによって常軌を逸して悪質で、執拗なものになった。「いじめ」は競争が導き出した、すぐれて合理的なソリューション(回答)なのである。」
 いじめでさえも自分たちを高く見せるための要素。また、さらに進んで自分が生き残るためには「いじめ」る側に立たなければならない。目立つことをさけて、生きなければならない。現代の学校を象徴する話を紹介したいのですが、教育に関わっている友人から聞いた話で、教会の話をしたとき、ある中学生が教会のキャンプにやってきたとき、こんなことを言ったというのです。「わたしは初めて、自由に自分の考えたことを言って良いんだな」ということを知りました。この子は、別にいじめられっ子というわけではなく、いわゆる一般的な子どもだそうですが、このように考えている。
そして、自分の思ったことが言えないことが、当たり前だ、と思っていたこと。目立ってはいけない。目立たなすぎても成らない。先に進みすぎてもダメ、遅れすぎてもダメ。がんじがらめの社会。自分の評価をまるっきり人に任せている。人の評価ばかりを気にしている。狭い学校社会がすべてであり、自分の評価を周囲の誰かに任せて、それに従うことだけで一日が終わる。

神の国を生きる
 イエスさまが、語ったこのような喩えが、あらゆる社会において、起こったとしたら、誰も真面目に働くこと、頑張ることを目指さないでしょう。しかしイエス様が、この喩えの本当に伝えたかったことは違うことだと思うのです。イエス様が私たちに本当に伝えたかったこと。それは、「あなたがたは、周りの人の評価、そして神さまの評価によって振り回されていませんか。そして、たとえ神さまに愛されていたとしても、人との違いによって振り回されてはいませんか?」ということではないでしょうか。
 神さまは、どんな人であっても、同じ評価をしますよ、同じように愛していますよ、という話であれば、誰も文句は言わないでしょう。しかし、神さまは自分ではない誰かを愛しています。自分ではない誰かも同じように愛しています。また、神さま、特に自分より能力が低い者や敵、「信仰の薄い者」や信仰の無い者も同じように大切にしていますよ、という話であったならば、どうでしょうか?文句を言いたくなるのでは無いでしょうか。
 しかし、イエスが語った他の喩えにはそのような要素が見られます。例えば、ルカ福音書10章に収められた「善きサマリア人の喩え」(ルカ10:25-37)。人を人格や人種や文化ではなく、本当に行いだけで人を評価すること、また敵の優しさ、敵が神さまに評価されることを喜べるでしょうか。また、同じくルカ福音書に収められた「放蕩息子の喩え」(ルカ15:11-32)。財産を前払いしてもらった兄と弟。弟は外国に行って、全部使い果たして帰ってきてしまいました。父親はその弟を喜んで迎えて、子牛まで屠ってお祝いをしている。しかし、そのことを気に入らない兄は、父親に訴えます。(ルカ15:29-30)しかし、主なる神の喩えとなっている父親はその兄を戒めます。その姿は、今日の喩えにおいて、朝から働いており、最後に賃金を受け取った労働者たちと、ブドウ園の主人の姿に重ならないでしょうか。

最後の労働者として
 最初に、私が紹介しましたSくんという高校生のお話。日本一の町工場の親父になりたい、と目指していましたが、今は全然違う仕事をしていて、今ごろの時間は、どこかで人の前でお話をしていると思います。テストの結果の話にも、私たちの人生すべてにおいても、当てはまることだと思うのですが、自分のことを他の人と比べないで評価することは出来るでしょうか。誰かに比べて、点数が良い悪い、幸せか幸せではないか、どうしても気になってしまう、というのが人の有り様ではないでしょうか。
 そして、イエスの周囲にいた人もそうであったでしょう。イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)と語りました。「幸いである」と言われても、どうでしょうか?誰に比べて?どのくらい?みんなが幸いだったら、どうなの?何も生活は変わらないのに?そして、本当に幸せならば、あの人と比べてみよう、この人と比べてみよう、そんな思いがよぎるのではないでしょうか。
 朝の9時から、働いていた労働者たち。最後になってしまったからこそ、自分の賃金が、自分より働きが少ない人々と比べて、どのくらいか?と考えてしまいました。しかし、どうでしょうか?それは一面的なことにしか過ぎない、と考えてみたらどうでしょうか。1時間しか働けない人には、その人の都合がある。子供の面倒を見なければならないかも知れない。3時間しか働けない人にも、誰にも言えない都合がある。家族の介護があるかもしれない。5時間しか働けない人がいる。その人は近所の人の悩み事や困ったことの相談に乗っていて、その時間は助けていた。そのように考えてみたら、そんな違いも納得できるかもしれません。しかし、そんな想像力を働かせなさい、ということがこのたとえの目的ではありません。この喩えに示されていることは、自分で評価することでは無く、この世を支配しているのは、主なる神であり、神は私たちそれぞれに「良いもの」「相応しいもの」を与えて下さっているのだ、ということを受け入れなさい、ということです。
 最初に賃金をもらったとしても最後に賃金をもらったとして、人は必ず、自分を誰かと比べて評価してしまう存在です。しかし、あくまでそれは限られた視点でしかありません。イエスが語った主なる神は、どのような時も私たちを支え、導いて下さっています。すべての存在を支え導いて下さる神の恵みに信頼を置き、神の国の支配を求めて、歩んでいきましょう。

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     小田原城にて                     城址公園(蓮)


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