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『共に重荷を担う主』マタイ福音書11:25~30

2013.05.26(20:55) 208

『共に重荷を担う主』
(2013/5/26)
マタイによる福音書 11章 25~30節

福音書という物語
 イエス・キリストは何者であるのか?たとえば、直接に知っている人々、使徒やいわゆるイエスの公生涯の中で、出会った人々はイエスさまのことを、様々な断面として知っていると言えるでしょう。そして初期の教会とは、そうした使徒たちや直接に知っていた弟子たちの活動によって立てられ、広がっていったわけです。しかし時間が経ってくると、ある問題が起きてくる。イエス様を直接に知っていた人々が段々と減っていくわけです。そうすると、イエスの記憶をどんな形でも良いので残していく必要が出て来る。そうした中で生まれてきたのは、私たちが聖書の中で親しんでいる福音書であります。
 しかしいきなりに、福音書が出来た、と言っても、イエス様自体が様々な捉え方がされており、描かれ方があります。たとえば、イエスが語った教え、メッセージを羅列する形で記したもの。そして、イエスの行動に集中したもの、イエスがどのような人と触れ合い、十字架への道を歩んでいったのか。そういったものがいくつも出来てきた。そして、そうしたものを題材にして、他の福音書が出来てくる。現在、私たちが親しんでいる福音書はそうした中で生まれたものであります。
 例えば、今日の箇所の直前の箇所、マタイ福音書11章の2節から19節には、イエスさまが、旧約聖書のどの預言者よりも優れた存在であり、この世における支配者である王よりなどとも比べものにならない存在である、ということで「イエスとは誰か」ということに応えようとしていると言えます。そして、今日の箇所においては、イエスさまと同時に主なる神がどのような存在であるか、を示そうとして記されています。

身近な存在である神
 今日の箇所、マタイによる福音書11章25節26節をお読みします。
「11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」
 イエスは、「天地の主である父よ」と呼びかけています。イエスの祈りについて、斬新であり、また敵対者たちの怒りを買い、律法違反とも言えるであろうことは、この「父よ」という呼びかけでした。十戒には「あなたの神(かみ)、主(しゅ)の名(な)をみだりに唱(とな)えてはならない。」という戒めが記されておりますが、とても「父よ」といったような親しみを込めた表現は誰も用いませんでした。すると、こうした祈りとしての「父よ」という呼びかけも反対者たちにとっては、「自分は神の子である」という律法違反の主張とうつったでしょう。そしてそのことはイエスが逮捕され、裁判にかけられている場における、告発者たちがイエスに対して「神の子である」と言っていた、という主張にもつながります(マタイ26:63/マルコ14:61/ルカ22:70/ヨハネ19:7)。
 また、もう一つ、明らかにされていることは、イエスが語った神が、神殿にいる祭司や律法学者や王たちに、自らの存在を示したのではなく、25節の後半にあるように「知恵ある者や賢い者」ではなく「幼子のような者」に示し、それこそが「神の御心」だ、という点です。福音書に親しんできた人々にとっては、当たり前のことと言えますが、これも敵対者たちとなる律法学者や祭司たち、王族にとっては気に入らない主張でありましょう。そして、私たちもこのイエスの言葉、「幼子のような者」こそ、主なる神は招いている、という導きを完全に受け入れることが出来ているか、といえば、とても難しいことと言わざるを得ないのでは無いでしょうか。続く27節における「すべてのことは、父からわたしに任せられて」いる、という言葉にしても、後半の言葉にしても、同じような意味合いから、とらえることが可能でしょう。イエスことが主なる神を知る唯一の道しるべである、ということ、そして主なる神もイエスを通じてのみ、私たちにその意志を示して下さる、ということです。

疲れた者、重荷を負う者は
 28節をお読みします。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」ここで言われている疲れや重荷というのは、当然、日常の生活の中における「疲れや重荷」を指すのでしょうが、同時に「律法」における疲れや重荷を指すものと思われます。このような言葉があります。マタイ福音書23章1節から4節。
「23:1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
23:4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」
 ファリサイ派の人々や律法学者を批判する言葉であります。律法学者やファリサイ派の人々にしても、当時に神殿における祭司たちの有り様を批判する立場に立ち、より根本的な信仰を求めていた、と言えますが、イエスの方がより近く神に近づこうとしていたと言えるでしょう。同じ箇所、23章9節から13節も律法学者やファリサイ派に対する批判ですが、今日の箇所と同じ響きを持っています。
「23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。23:11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。23:13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」

律法の軛からイエスの軛へ

 今日の箇所に戻って、29-30節をお読みします。「(29節)わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。…(30節)わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
 「軛」とは、牛や馬の首につけて、鋤や鍬を引っ張らせて、田畑を耕すためのものです。ですから、軽いわけはありません。また、当時の律法中心のユダヤ社会には、「律法の軛」という言葉がありました。「軛」というのは、重いかもしれないけれども、それを付けていれば、間違えることはない、道を外れて進むことはない、「道しるべ」という意味を含んでおります。また『律法の垣根』という言葉もありました。これもただ単に言葉通りの「律法を守る」というのではなく、「この枠の中に生きていれば、律法に違反しない」という範囲のことを指し、決定的な間違いを犯さないための「生活の知恵」とも言えます。
 イエス様が、ここで述べられている「わたしの軛」とは何か、「負いやすい」軛とは何か。このような捉え方が出来るのではないでしょうか。軛とは普通、一頭の牛で付けるものではなく、二頭の牛でつけるものであります。イエスは「わたしの軛」とおっしゃっています。これは、「イエスと共に一緒の軛でつながることを指しているのではないか」と感じます。「一本の木の一方にはあなた、そしてもう一方にはわたし」というイエスの呼びかけとも捉えられないでしょうか。
 私たちにとってイエスさまは、あがめるべき神であります。しかし、同時に私たちの歩みに伴って下さる方です。「神、共にある」とは、後に従っていくことも確かにあると思います。しかしそれだけではなく、私たちが負うべき自らの重荷を、共に一本の木で背負って下さる方と考えること、そのように捉えることが許されていると思います。福音書には、様々なイエスが現れます。時に強く、時に知恵あり、時に弱く、時に従順であり、十字架の道を歩むこともあり、そして、強く死に打ち勝つイエスの姿も記されています。そのイエスが私たちと伴って歩んで下さる、というのがキリスト教信仰の最も大事なメッセージと言えないでしょうか。

共に生きるというテーマ
 旧約聖書に記されている主なる神も、わたしと共にあろうとする神でした。アブラハムを遠いハランからカナンの地に導きました。そのときの契約の言葉として「12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。(創世記12:3)」と述べました。また、出エジプト記におけるイスラエルの民、主なる神は、エジプトにて奴隷として苦しんでいた民の叫びを聞いて、「「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知(出エ3:7)」り、エジプトから救い出しました。そして、荒れ野での40年間、主はイスラエルの民に「…先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた(出エ13:21)」とありますが、まさに何も知らない子どもを導くように、手取り足取り、イスラエルの民を導きました。アブラハムからカナン定住に至るイスラエルの民の歴史の中において、主なる神は、我らと共にあるという姿、我らの重荷を共に担って下さるという姿を持っています。そしてイエスが語った主なる神とは、まさに、この神の姿そのものであり、イエスの信仰、イエスにとっての主なる神の姿であったのです。
 また最近、世の中においても、問われていることは、「共に生きる」存在が誰か?ということではないか、と思います。日本においてもアメリカにおいても、いわゆる税金の負担は少ない方と言われますが、いわゆる教育や福祉については、個人が負担しなければならない側面がどんどん大きくなっています。そうすると豊かな者はより与えられ、貧しい者はより失う形となっていく。しかし、あくまでそうした動きは「平等」「不公平」また「自己責任」といったスローガンによって、進められていく。
 たしかに「豊か」で「便利」な世の中とはすばらしいものですが、それらの恩恵を受けることに差があるとするのであれば、とても不幸な人間が増えていくだけでは無いでしょうか。そして、誰もが「豊かさ」を求めて歩む中において、自分も「裕福」になりたい、という願いを持ち、不当に裕福な人に対する批判をしなくなっていく。そして批判しやすい自分よりも「貧しい者」「持たざる者」に対する批判、「まじめにしていない」「努力が足りない」などの言葉が多くなり、また自らもそうした枠組みの中で評価するようになり、満足できなくなり、毎日が憂鬱になる。

共に重荷を担う主
 神が共にいる、という信仰は、他の何ものにも代えがたく神に従う、ということであります。私たちはどのような時に、疲れを感じ、また重荷を背負わされていることを感じるでしょうか。多くの場合、自分という存在が生かされていない時、自分という存在がないがしろにされているように感じる時ではないでしょうか。イエスによって背負わされる軛には、そういうことはありません。常に私たちの一番近くにいて、私たちと共に重荷を背負って下さっているのです。
 イエスは、神の子として歩み、主なる神の福音を知らせました。その福音とは、神の救いが多くの人に開かれていること、主なる神が常に罪ある者とされている多くの人を招き、同時に、共にある存在であることを示したことです。しかし、だからこそ、当時の権力者や宗教家にとって都合の悪い、邪魔な存在となり、逮捕され、不当な裁判によって十字架刑と処せられました。しかし、それは神殿や律法学者たちに対する単なる当時の宗教批判ではなく、同時に、もともとの主なる神の姿に戻ることでもありました。
 主なる神が、私たちを見守って下さっているという確信をもって歩んでいきたい、と思います。主イエス・キリストは、わたしたちと共に重荷を負って歩んでくださっています。私たちは限界があり、時に泣き、絶望する、弱い者存在です。しかし、「神、共にある」「共に軛を負って下さっている」ということを覚えて、またそれぞれに与えられている一日一日を歩んでいきたい、と思います。


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