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『イエスは道しるべ』ヨハネ福音書14:1〜11

2013.04.29(18:47) 204

『イエスは道しるべ』
(2013/4/28)
ヨハネによる福音書 14章 1~11節

道であり、真理であり、命である
 「わたしは道であり、真理であり、命である」。とても強い言葉であり、キリスト者にとっては、心に残る箇所であり、イエス・キリストが語った言葉でありながら、わたしたちの信仰告白とも言える言葉であります。
 もともとヨハネ福音書には、「わたしは…である」といった形で、イエスさまが自らのことを何かに喩えて示す箇所が多く含まれています。「わたしは天から下ってきた生きたパンである」(6:35)、「わたしは世の光である。…」(8:12)、「わたしは(羊の)門である。」(10:9)、「わたしは良い羊飼いである。…」(10:11)、「わたしはよみがえりであり命である。…」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、命である。…」(14:6)、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(15:1)、「わたしはぶどうの木、あなたがた(弟子たち)はその枝である。…」(15:5)。
 これらの言葉は、それぞれ、私たちに訴えかける言葉であり、イエスさまが自分自身に語った言葉でありながら、私たちの告白にも聞こえてくる。そうした特徴を持っています。そして、それらの言葉は、1つの言葉自身でありながらも、聞く人が置かれている状況、また私たちが置かれている状況によって、異なった響きを持っているのではないでしょうか。
 例えば、冒頭にお読みしました言葉である「わたしは道であり、真理であり、命である」という言葉。私は、人の死に関わる礼拝の中、祈りの中でよく用います。それには、非常にわかりやすい形で、主なる神、そしてイエス・キリストという存在が、現されており、「道」「真理」「命」というそれぞれの言葉が、人が歩む一生において強い意味がある言葉と感じるからであります。
 人の歩みは、良く「道」に喩えられます。それは長く遠いものであり、様々な苦難もあり、喜びもあります。またそうした状況の変化を、日本においても、様々な言葉で表現されています。「栄枯盛衰(えいこせいすい)」「一期一会(いちごいちえ)」「盛者必衰(じょうしゃひっすい)」「波瀾万丈(はらんばんじょう)」人生における変化を現している言葉であります。
また、大胆にいって、他の人からどんなに単調に思える人の歩みであっても、当人にとっては変化の多いものであり、誰もが苦労の多い人生であったと思うものではないでしょうか。

ヨハネ福音書を生まれた状況
 今日の聖書箇所が納められているヨハネ福音書は、非常にきびしい迫害状況の中で生まれた、と考えられております。また、ヨハネ福音書の大きな特徴としまして、21章まであるヨハネ福音書ですが、その半分ぐらいが、受難物語とも言える箇所で、イエスが弟子たちに向けて行った訣別説教が大部分を締めていることです。ヨハネ福音書は、紀元後90年頃、イエスが天に昇ってから60年ぐらい経った時に成立した、と思われます。そして、迫害の中にあって、信仰への道を歩む中での困難から、教会から離れていった人もいたでしょう。また、天に帰っていった人もいて、教会としての弱まりがあり、信仰の危機にあった人もいたでしょう。そうした状況の中において、より神との繋がり、イエスとの繋がりを求めて記された福音書ではないか、と考えることができます。
 ヨハネ福音書に唯一納められているテキストとして、イエスが弟子たちの足を洗う場面があります。受難週の木曜日、洗足礼拝の元になっている記事ですが、その箇所13章においては、第一の弟子であるペトロは、奴隷のすることである洗足を師であるイエスに行ってもらうなど出来ないと「「わたしの足など、決して洗わないでください」」(13:8)といっています。が、イエスはそんな言葉に対して、こう応えています。「「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」」(13:8)。ペトロはその言葉に慌てて、「足だけでは無く、手も頭も」(13:9)、と応え、イエスに足を洗ってもらっています。そして、ヨハネ福音書15章に納められております「ぶどうの木」のたとえにおいても、細かく読んでいますと、ただ単にイエスが実り豊かなブドウの幹であり、わたしたち、キリスト者がブドウの枝、というだけでは無く、その繋がりが強調されていることに気がつきます。15章5節。
「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
 何よりも、イエスと共にあることが目指すこと。それは、どんなに厳しい迫害の中において、何よりもイエスが共にいることが救いであった、という証明、記録であると言えます。そして同時に、イエスが確かな神であるという確信を強く求めていたということを想像することが出来ます。そして、その確信があれば、どのような困難であったとしても、乗り越えられる、と考えていたのではないでしょうか。

わたしが父の内におり、父がわたしの内にいる
 今日の箇所、ヨハネ福音書14章1節から3節に記されている言葉は、これからもイエスが共にあることを示しています。
「14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

 イエスの再臨信仰の約束ともいえ、同時に復活信仰と言えます。5節においてもトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と、イエスが離れていってしまうこと、イエスが語る道がどこにあるのか、という言葉で、不安におもう感情を表しています。また8節においてもフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と、イエスが去ってしまうことによって、父なる神のことを知ることが出来ない、と不満を明らかにします。そして、そのどちらに対しても、同じ内容の言葉で返事をしています。それは、イエスを知っている人が父なる神を知っている、そして、イエスを見ている人が同時に父なる神を見ている、そしてイエスの中に父なる神がいて、父なる神の中にイエスがいる、ということです。(14:7/9-11)
 このトマスとフィリポへの応答として語られているイエスの言葉によって、明らかにされていることは、父なる神と子なる神が一緒である、一つである、ということです。しかし、ある意味で、とてつもない飛躍がある内容です。父なる神の存在は、ヨハネ福音書においては、創造の神の姿とも言えます。
 ヨハネ福音書の冒頭、1章1節から3節には、このように記されています。
「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
 宇宙、この世界の創造者としての神の姿が描かれています。そして、更にいうのであれば、旧約聖書における創世記の冒頭に納められている創造物語のことであり、神はこの世を創造し、すべてを「良かった」とされた方です。そして、子なる神の姿、イエスの歩みは、具体的な人と人の関係や倫理観に関わるもので、創造の主とはかけ離れた存在であるように感じます。しかし、今日の箇所において明らかにされていることは、イエスに従うということは、弟子たちにとって、キリスト者にとって、宇宙を創造された主なる神、父なる神に従うことに等しいことだ、ということです。別の言い方をしますと、弟子たちにおけるイエスという存在は、具体的な人と人の関係におけるものです。その弟子たちとイエスの関係の中に、この世の全てを創造した神の姿がある、ということ。また逆に、天と地を創造し、わたしたち1人1人の運命をつかさどる神がイエス自身だ、ということ。そして、そのことを受け入れなさい、ということです

私たちと共にあるイエス

 イエスの直接の弟子であり、第一の使徒であったペトロ。もともとは漁師でした。そしてイエスに出会い、すべてを捨てて、彼に従いました。もともとはシモンという名前でしたが、「岩」という意味を持つ「ペトロ」という名前を付けられ、イエスに付き従ってきました。そしてエルサレムへ来てイエスと共にしたとき、おそらくは最後とは思わなかった食卓の席についてとき、イエスに「すべての弟子たちが私を裏切って逃げてしまう」と言われてしまいます。彼はそれに反論して「どんなことがあっても従い続ける」と言いましたが、逆に裏切ることを予告され、イエス言葉の通りに裏切ってしまいます。しかし、その後、教会の歩みをつかさどる重要な役割を果たしていくことになります。
 パウロ。ユダヤ人として生まれ、律法を重んじるファリサイ派の学徒としての歩みをあゆんでいました。イエスを神の子、救い主と信じる輩は心改めるべきだ、と考え、各地のユダヤ教の会堂を訪ねては、誤った教えを述べる輩、信じる輩を戒めていました。
 が、ある時、イエスに出会い、決定的な改心の時を得て、イエスの迫害者ではなくなり使徒としての歩みを歩み、イエス・キリストの宣教者として歩み出し多大な影響をもたらしました。イエスに付き従っていった弟子たちも、初代教会に集った人たちも、どんな小さなことであったとしても、どんなに飛躍があったとしても、それぞれが神によって与えられた使命だという確信を持って、その歩みを歩みきりました。
 が、人間は弱い存在ですから、こんな風に考えてしまうことはないでしょうか。宇宙を創造した神、この世を、わたしたちを創造した神がいて、私たちを助けてくださる、救っていて下さる、といった確信があれば良い。この世のすべての出来事はどうでも良い。隣人との関係、教会のこと、また極端にいえば、家族のことであってさえ、どうでも良い、と考えてしまう。

わたしは道しるべ
 しかし、父なる神と等しい存在であるイエスという子なる神がいて、「わたしは道である、真実である、命である」と私たちに語りかけている。イエスを通して示されたことは、この世を創造した神の働きとイエスによって示された道はつながっている、ということではないでしょうか。ヨハネ福音書を生み出した教会は、大きな迫害状況にあったと言われています。不安や圧迫の中において、神という存在に対してさえ、疑問を持ったこともあったかも知れません。また、自分のことで精一杯で、隣人の関係もどうでも良い、と思ったこともあったでしょう。そして、わたしたちも日常生活の中において、同じように「自己中心主義」や「事なかれ主義」や「ニヒリズム」などに陥ること、誘惑に駆られることがあります。
 そんな私たちにヨハネ福音書はこう語りかけるのではないでしょうか。神がこの世を創造されたように、あなたがたは創造され愛されているのだよ。また、どのような小さな事と感じるようなことであったとしても、イエスによって示されたことを思い起こしなさい。「わたしは道である、真実である、命である」と語られた主イエスは、私たちと共にいて、私たちが、どのような状況にあったとしても、共にあり、歩むべき「道しるべ」を示して下さっています。そのことを信じて、今日からの一週間を歩みたい、と思います。

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