FC2ブログ

タイトル画像

『復活に伴った恐怖』マタイ福音書28:1~10

2013.03.31(20:54) 197

『復活に伴った恐怖』
(2013/3/31)
マタイによる福音書28:1~10

復活の朝

 この日曜日の朝、イエスが復活したことを祝うため、キリスト教会では、日曜日に礼拝を行うようになったと言われております。今日の聖書の箇所にもありますように日曜日の朝、イエスの亡骸が納められている墓へ、女性たちが行きました。今日私たちに与えられましたマタイ福音書28章によりますと、「マグダラのマリアともう一人のマリア」が墓に行ったと記されています。
 遺体を納められていた墓は横穴であり、その前には、大きな岩を蓋の代わりに置かれていました。さらに、その前に見張りが立っていました。なぜ見張りが立っていたか、と言えば、その直前、マタイによる福音書27章62節から65節に記されているように、弟子たちがイエスの亡骸を盗み出すなどして、「イエスが復活した」というようなことを言い出さないように、そうしたことを防ぐためであったと考えられます。
 しかし、ですからマタイ福音書の復活物語において女性たち二人が、墓に行ったとしても、まさに見に行っただけということが出来るかも知れません。他の福音書によれば、イエスの亡骸に油を塗るために墓まで出かけていったと、その目的が記されておりますが、見張りのローマ兵たちが墓の前にある大きな岩を動かしてくれるはずはないでしょう。そして自らの力で、その岩を動かすことも出来ない、まさにその墓の前において、祈りを献げるためとか、イエスさまの死を悼むために赴いた、と言うことが出来るかも知れません。
 しかし墓の前に行ってみると不思議なことが起こっていました。今日の箇所28章2節から6節をお読みします。
「28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」


空の墓というモチーフ
 マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓の中を見たところ、遺体は失われており、イエスが復活したことが示されております。しかし、ここまでは各福音書において、同じような伝承によっているのですが、それ以降に何が起こったのか、は各福音書で異なっております。今日お読みしましたマタイ福音書によれば、この直後、女性たちは、イエスに出会い、その足にすがりついて、喜びを表しています。ヨハネ福音書においても、まずマグダラのマリアが、イエスに出会っています。しかし、マルコ福音書においては、この女性たちは、空の墓を見ただけで恐怖のあまり逃げ出した、と記されているのみです。またルカ福音書においても、空の墓を見ただけでイエスさまには出会っておらず、最初エマオに向かっていた二人の弟子たちの前に現れ(ルカ24:13-35)、その後、弟子たちが集まっていた場所に突然現れるという形で弟子たちに出会っています。
 なぜイエスが復活した後、最初に出会った人が異なるのか?また様々な伝承、物語がまったく違った形で記されているのか、実に不思議なことであります。また、イエスさまが復活した、ということはキリスト教信仰において、とても重要なことでありながらも、四つの福音書で違っているのというのは大きな問題であるとも言えるでしょう。では、本当には何が起こったのか。

弟子たちの行動

 考えてみますと、イエスの復活に際して、もう一つの納得いかないことがあります。それは、なぜ「復活のイエス」に出会ったのが、12弟子の誰でもなく、女性の弟子ともいえる「マグダラのマリアたち」女性だったのか。その理由をいろいろ想像することが出来ます。わたしが思うことは、男性の弟子たち、イエスに出会うことに対して、2重の恐れ、2つの恐れを持っていたのではないか、ということです。一つ目の恐れは、自分たちもイエスと同じように逮捕され、十字架にかけられてしまうのではないか、という恐れです。このことを現しているように、ルカによる福音書とヨハネによる福音書による復活したイエスと弟子たちの再会の場所はどこかの家の中でおきます(ルカ24:36-49/ヨハネ20:19-23)。ローマ帝国の兵隊や祭司たちに逮捕されることを恐れ、弟子たちは集まり声を沈めて、隠れていたのではないでしょうか。
 そして、もう一つのイエスとの再会を恐れる理由。それはイエスとの出会い、そのものに対する恐れ、イエスを裏切ってしまったこと、また逮捕されることを恐れ、逃げ出してしまったことから生まれるイエスに対する後ろめたさ、恐怖からではないか、と感じるのです。マルコ福音書には、復活伝承かと思われるイエスと弟子たちの再会の場面を描く箇所が納められております。マルコによる福音書6章48節49節。
「6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。」

 とても不思議な伝承、記述であり、この箇所に納められておりますが、実は空の墓の後、ガリラヤに行った弟子たちと復活したイエスのガリラヤにおける復活伝承であったのではないか、と考えられることのできる箇所です。なぜなら、イエスが亡くなっているという前提がなければ「幽霊だ」という叫びにはならないのではないでしょうか。そして、その死に対する後ろめたさが、弟子たちを恐怖させたのではないでしょうか。

ミッションという映画から
 1986年の映画になりますが、「ミッション」というイギリスの作品があります。18世紀の南米、南アメリカにおけるカトリック教会の宣教会、イエズス会の宣教師たちと南米の山地深くに居住していたグアラニー族という民族の悲劇を元にして描かれております。映画の中において、主人公の一人であるガブリエル神父は、音楽によって、グアラニー族の心をつかみ、信頼を得て、キリスト教伝道に成功して、一族全体がキリスト教に改宗し、大きな礼拝堂を建て西洋文明を受け入れるようになります。そして、キリスト教を中心とした非常に優れた理想郷といえる場とも言える村を築くに至ります。
 しかし、そうした村の存在は、南米において植民地を築き、先住民たちを奴隷とすることで利益を得ていたスペインとポルトガルという国家からは都合の悪い存在となってしまいます。そしてスペイン、ポルトガル両国の協定によって、グアラニー族はその村から立ち去らなければならないことになります。村で活動していたイエズス会の宣教師たちは、宣教団の枢機卿から村から立ち去ることを命令されるのですが、破門宣告を受けながら、村を守るために残ることを選びます。そして宣教師たち、もろとも、ポルトガルの軍隊によって、グアラニー族が築いた村は、滅ぼされてしまう、という悲しい内容の映画であります。
 この映画、単なる物語ではなく、150年にもわたるイエズス会における活動と、その最後、そして先住民族たちの悲劇を一本の映画、一人の宣教師と村の物語にまとめたものと言えるもので、史実とも言える内容を含んでいます。そして現在でもイエズス会が建てた教会は遺跡として残り、現在にもつづく大学なども存在します。そして映画自体のテーマとしては、キリスト教会、キリスト教信仰に対して、伝道、宣教とは何か、ということを伝えようとしていると言えます。
 そして、その映画の中に、ロバート・デ・ニーロが演じるメンドーサという元奴隷商人の宣教師が登場します。最後には、宣教師としてグアラニー族と運命を共にすることになるのですが、彼は最初、当然奴隷を集める側の人間ですから、先住民たちと共にあろうとする宣教師たちと対立していました。しかし、ある日、このメンドーサが、女性問題のもつれから実の弟を殺してしまいます。そして罪の意識にさいなまれて、抜け殻のようになってしまいます。
 その彼の所へ、敵対していたガブリエル神父がやってきて説得します。そして、その状況から抜け出すための手荒い処方として、共にグアラニー族の村へ一緒に行くことになります。メンドーサは、自らの罪を贖う意味もあってか、背負いきれないほどの大きな袋を背負っています。その中身は鎧やカブトや武器であり、その袋と体を縄で繋げた状態で、山や川を越えて先住民たちの村へ向かいました。重い武器は、奴隷商人としての働き、また自らの弟の命を奪ってしまった咎の深さを示していたのでしょう。
 同行するすべての人が、もう良いのではないか、充分苦しんだのはないか、と思う中、ひたすらメンドーサはその重荷を背負い続けて、グアラニー族への村へと向かっていきます。そして、村の入り口にたどり着いたその時、奇跡とも思える出来事が起こりました。最初、元奴隷商人だと気づいたグアラニー族の若者の一人が、メンドーサに近づき、その首にナイフをあてました。周囲にも緊張が走ります。その時、グアラニー族の村のリーダーと宣教師の一言、翻訳されていないのですが、ちょっとした一言を交わします。そのことによって、グアラニー族の若者は、メンドーサの首にあてていた同じナイフによって、メンドーサと大きな荷物を結ぶロープが断ち切き、荷物を谷底へ捨てる、ということが起こりました。
そして、メンドーサは泣き崩れて、回心し、宣教師となり、グアラニー族と共に生きる決断を果たします。

復活における和解
 メンドーサは、そのとき泣き崩れてしまいました。メンドーサはひたすらに、自らの手によって殺めてしまった弟からの赦しを得ようとしていました。しかし、死んでしまった存在から赦しを得るということ、殺してしまった存在から赦しを得ることは、現実的には不可能なことです。しかし、自らの罪が弟と同じように苦しめていたグアラニー族の一人の若者の行動から、まさに弟から赦されるという確信を得て、新しい歩みを始めるに至ったのです。
 イエスと弟子たちの関係も同じだと思うのです。わたしは、弟子たちが復活したイエスとの再会について、あまり多くを語らなかったのではないでしょうか。弟子たちにとってイエスの復活とは、自分たちが教会のリーダーとして、使徒として教会の礎を築いていく原点であります。しかし同時に自らのもっとも弱いところ、自らの最も触れられたくない傷に触れることでもあったのではないでしょうか。イエスを捨てて逃げてしまったという事実、いくら主イエスが目の前に現れ、再び「弟子としての歩みを始めなさい」と言われたとしても、イエスさまに「あなたを赦します」と言われたとしても、どうどうと語ることができない思いがあったのではないでしょうか。そして、そうした弟子たちの沈黙が元になって、復活したイエスと弟子たちの再会の物語が、非常に多様に描かれる要因、原因となったと考えられないでしょうか。

復活における和解
 今日の箇所において、墓の前に現れた天使と復活したイエスは、同じ言葉を述べております。マタイ福音書28章7節。
「28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」」そして10節。
「28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」」
 ガリラヤとは、どういう場所でしょうか。イエスと弟子たちが出会い、旅を始めた場所であります。イエスさまと弟子たちが出会い、その旅の始まりの場であります。イエスさまは弟子たちに向けて、もう一度、「すべての原点に戻って、わたしと旅を始めようではないか」と呼びかけているのではないでしょうか。イエスを裏切ってしまった弟子たちでした。しかし、イエスは復活し、彼らの前に現れることで、彼らの罪を赦したこと、彼らを受け入れたことを示し、「ガリラヤで会おう」という言葉によって、再び「共に歩み出そう」と呼びかけたのです。
 イエスの復活は、神の存在の証明ということが出来ます。そして同時に、主なるイエス・キリストと人の和解の事件ということは出来ないでしょうか。わたしたちの世の中には、戦争や暴力にさらされる危険に常にさらされていると言えます。また身近な関係においても、多くの隣人、人と人の間においても、和解する必要がある存在であります。イエスの復活と弟子たちとの再会は、私たちに多くの人との「和解」の希望ということは出来ないでしょうか。
 どのような関係でもおいても和解は叶う、希望はある、そうしたことを受け入れることがイースターという出来事、イエスの復活という出来事を信じることに繋がるのではないでしょうか。そんな意味でイースターは私たちの希望なのです。イースターに和解の意味があること、今日、改めて心に刻み、新しい歩みを歩み出しましょう。

1303313.jpg 1303312.jpg 1303311.jpg


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村地域生活(街)関東ブログ小田原情報へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

スポンサーサイト

周縁自体


2013年03月
  1. 『復活に伴った恐怖』マタイ福音書28:1~10(03/31)
次のページ
次のページ