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『神による支配の構造』マタイ福音書12:22~32

2013.02.25(16:50) 188

『神による支配の構造』
(2013/2/24)
マタイによる福音書 12章 22~32節

イエスは何者か

 今日わたしたちにあたえられました箇所は、マタイ福音書の12章に含まれておりますが、その前後の箇所、10章から12章にかけて、そのような証言「イエスが何者であるのか?」という証言が多く含まれている箇所と言えます。たとえば、マタイ福音書10章34節には、このような箇所があります。
「10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
 イエスという存在が、ただ平和をもたらすのではないことを示す箇所であり、神の子であるイエスが持っている根源的な姿勢、その存在がもたらす影響のことを述べている、と言えます。さらに続く11章8節から10節にはこのように記されています。

「11:8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
11:9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
11:10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。」

 ヨハネの弟子たちがイエスのとこに来たときに交わされる会話ですが、主なるイエスが、王以上の存在であり、ヨハネ以上、これまでに現れたどの預言者にも優る存在であることが示されています。

癒しについて
 そして、今日の箇所においては、イエスが「悪霊の頭」である、また「ベルゼブル」である、という中傷に対する対話が編まれております。今日の箇所12章22節をお読みします。
「12:22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。」
イエスさまによって、様々な癒しの物語が瀬福音書には記されておりますが、ここにおける癒され手は、「目が見えず口の利けない人」というのは、他の人々より、かなり重い病いを負っていたことを感じさせます。そのような人が、イエスの力によって癒されてしまった。おそらく、そのことは、敵対者のファリサイ派の人々にとっては、危機感を抱かせるものでした。ですから、奇跡的な力や論理ではなく、「悪霊の頭」「ベルゼブル」である、という中傷によって、イエスを論断しようとした、やり込めようとしたのでしょう。
 そうしたことは、イエスさまの27節の発言からも分かります。27節でイエスは、
「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。」と発言していますが、この発言から、少なくともファリサイ派の人々も、悪霊を追い出す治療を行っていたことを知ることが出来ます。しかし、イエスの癒しは明らかにファリサイ派の人々の行っていた癒し、悪霊払いよりも大きな効果をもたらしていた。そうした焦りもあって、「悪霊の頭」「ベルゼブル」である、という言葉、何の説得力もない中傷へとファリサイ派の人々を向かわせたと思われます。
悪魔という中傷に対して
 イエスのこの癒しの力は、「イエスは何者であるのか」という議論を生みました。23節において、群衆によるイエスは「ダビデの子ではないだろうか」といっていた記述が見られます。ダビデの子かもしれないという言葉は、ファリサイ派の人々にとっては、一つの危機感を抱かせることであったでしょう。なぜなら、ファリサイ派の人々は、「わたしたちこそ、主なる神の本当の理解者である。わたしたちこそ正しいだ」という自負心を持っているわけです。しかし、イエスが持っている圧倒的な力に対抗できない自分たちがいる。だから、イエスを「悪魔である」と中傷し、当時のユダヤ人たちの中においては、最高の権威をもつ「ダビデの子」という称号からイエスを遠ざけようとしているわけです。
 こうしたイエスの権威に関する議論、テーマは数多く福音書に記されており、イエスの評価は、時に上がり、時にさがっています。例えば、イエスに対して「ナザレのイエス」という呼びかけがなされることがあります。この場合、イエスは特別な存在という理解が前提となります。おそらく聖書に親しんだ人ならば記憶があると思いますが、イエスに対する言葉として、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。」(マタイ13:55)という言葉を聞いたことがあるでしょう。イエスがただの人であれば、単に、「大工の子である大工イエス」「ヨセフの子イエス」「マリアの子イエス」が相応しい良い方です。しかし、その活動の中で、イエスの噂が広まっていくと、「ナザレ出身のイエス」として、職業や親の名前を超えて、「ナザレのイエス」として、イエスの名、評判が広がっていくわけです。
 また、今度は逆に悪い方の扱い方です。これは正確にいえば、イエスではなくペトロなのですが、このような箇所があります。マルコ福音書14章66節から70節。イエスが逮捕されて、ペトロがイエスのことを知らない、と言ってしまう場面の箇所です。(P.94)
「14:66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、14:67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」14:68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。14:69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。

14:70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」」

 最後の「ガリラヤの者だから」という言葉。どのような言葉でしょうか。要するに、イエスや弟子たちに対する蔑視、自分たちとは違うのだ、という意識が現れた言葉であります。ここで言われているペトロに対する「ガリラヤの者だから」という言葉。なぜここで「連中の仲間」だけではなく「ガリラヤの者だから」という言葉を重ねているのか。明らかに、エルサレム周辺に居住する人々が持っているガリラヤの人々への感情、見下しの思い、ガリラヤへの人々に対する「自分たちとは違うのだ」という感情の表れであります。マタイ福音書では、ペトロの言葉遣いによって(Mt26:73)、ガリラヤ人だとわかったとありますが、たしかに服装や顔や肌の色などでは違いが無かったと思われますので、言葉遣いでペトロがガリラヤの者で、イエスと共にいたということに気がついたのかも知れません。

筋の通った権威として
 「あの男はベルゼブルに取りつかれている」。「ベルゼブル」ですが、具体的な一人の悪魔の存在であって「蠅の王」「蠅の神様」をさしますが、律法学者たちはそこまで具体的に考えていたわけではないようです。「ベルゼブル」もともとは、列王記下1章2節〔P.576〕に出てきます「エクロンの神バアル・ゼブブ」=「いと高き方」を指しており、要するにもともと別の宗教の神が語源の言葉です。またイエス自身、律法学者の言葉に対する26節の比喩で「サタンが」と答えておりますが、「サタン」の語源も「神の反対者」という意味です。ヨブ記の冒頭、神の言葉に対する存在と登場しますが、あの役割がサタンには相応しく、一般に考えられている悪魔のイメージはずっと後になって出来上がったイメージです。そしてファリサイ派の人々は、そうした異教の神、神の反対者の力によって、イエスは悪霊を追い出している、癒しを行っている、としてイエスの権威を貶めようとしている。また違う言い方をすれば、正統的なユダヤ人が信じるべき神さまではない、邪教の力によって、イエスは癒しを行っているのだ、と言うのです。
 それに対するイエスの応答。「自分は悪魔ではない」「悪魔の力を使っていない」とは返しません。これはとても理に適っていて、ここで単純に「自分は気が変になっているわけでも悪魔の力を使っているわけでもない」と主張したとしたら、どうでしょうか。
ファリサイ派の人たち、敵対者が納得するわけがありません。お互いに「自分は正しくて、お前は間違っている」という主張の投げ合いに終始するだけでしょう。まさにどちらがどうか、とは言えませんが、神とその反対者サタンの争い、神と神との争いになって意味がないことになります。が、ここでイエスはそういった議論には乗らず、こう答えています。今日の箇所12章25節26節。
「「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」
 要するに、ここまでの議論は、どちらが正統的な神の力の表現者なのか?という議論でした。しかし、イエスはここで、ファリサイ派の人々に対する言葉ですが、反論ではありません。問いかけです。ファリサイ派の「悪魔だ」「異教の神」だ、という主張に対して、この神の力に頼っているあなたがた、神の国はどんなところか?という問いかけに変化している、と言えるでしょう。

神の支配構造
 そして更に、イエスは言葉を続けます。27節28節。
「12:27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」

 ここで興味深いのは、敵対者のファリサイ派に対する言葉なのですが、28節の最後のところで、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と、ファリサイ派の人々も、神の国が来ている、あなたがたも神の支配の中にあるのだ、と呼びかけている。敵対者であるファリサイ派の人々に対してであります。
 いつの時代もそうですが、宗教にしても、国家にしても、人のあらゆる集団というものは、「入れば幸せになれる」と呼びかけるでしょう。キリスト教においても、揶揄が入っているかも知れませんが、「信じれば、救われる」という言葉があります。そうした意味で言えば、ファリサイ派の人々は、正しい神への信じ方を問題にしている。より神に近い存在は誰か?ということを問題にしている。
 しかし、この箇所においてイエスが言っていることは違います。ファリサイ派の人々に対して「あなたがたの仲間は何の力で(悪霊を)追い出しているのか」という問いかけ。わたしたちにとっては、あなたたちは何を信じ、何を大事にしているのか?という問いかけである、と言えます。キリスト教を信じている。主イエスの教えを大事にしている、とは言う。だが、本当にそれだけで生きているだろうか。どこかにウソがあるんじゃないか?
 イエスの癒しの業は何のためでしょうか?敵対者のファリサイ派の人々にとって、癒された人はどうでも良い、イエスの力、教えが正しいのか、自分たちの力、考えがより神に近いのか、それだけを問題にしている。

最後に…
 今日の箇所、イエスがベルゼブルではないか、という問いかけを起点にして、はじまっております。イエスが何者か?という問題は、常に聖書、新約聖書、福音書の課題であります。そして、わたしたちにとって、イエスが何者か?という課題は、信仰を持つ者にとって、大きな課題であります。
しかし、一方でそうした議論、「悪魔かどうか」という話によって、「神の正しい支配の中にあるのかどうか」という議論によってないがしろにされてしまう人がいる。
 イエス・キリストは、この箇所において、改めて私たちに「神の支配」とは何か?と問いかけということが出来るのではないでしょうか。神のもたらす奇跡や正しいか正しくないのか、また清いのか清くないのか、そうした視点にないがしろにされてしまう存在。そして、イエスが明らかにしているのは、敵対者と思える存在であったとしても、神の支配の中にある、ということです。
 自らの敵さえも神は愛して、支配の中に入れようとしている。そんな神の支配、神の愛のあり方の中において、わたしたちは立ちつくすかも知れません。しかし、その立ちつくしてしまう弱さを糧にして、すべての人との和解へと送りだされるのではないでしょうか。神の支配を信じて、今週も歩み出したい、と思います。


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