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『貧しい者となる』マタイ福音書5:3~12

2013.01.29(09:00) 185

『貧しい者となる』
(2013/1/27)
マタイによる福音書 5章3~12節

山上の垂訓
 「心の貧しい人々は幸いである」から始まる5章3節から12節の言葉はクリスチャンであろうと無かろうと知っている言葉です。山上の垂訓は、マタイにおいて5章から7章の終りまで、5章1節で「山に登られた」とありますが、その山において弟子たちと群衆に向けて語った「教え」のことを指します。いわゆる「山上の垂訓」という言い方は、5章~7章すべてを指しております。そして今日の箇所、5章3~12節は、「これこれの者は、幸いである」という形で語られていますので、「幸い章句」と呼ばれております。
 この聖書個所にはルカ福音書に並行箇所が存在します。ルカ福音書6章20~23節です。ルカにおいては平地で語られていますので、「平地の説教」と呼ばれます。マタイにおいて、山上で語られているのは、イエスを旧約聖書において出エジプトを果たしたモーセが山の上で神から律法を授かったことに重ね合わせるために「山の上」で語らせた、と考えられております。
 今日の箇所5章3節から12節までには、「幸い章句」として、8つの幸いな事柄、人々が記されております。「心の貧しい人々」(3節)、「悲しむ人々」(4節)、「柔和な人々」(5節)、「義に飢え渇く人々」(6節)、「憐れみ深い人々」(7節)、「心の清い人々」(8節)、「平和を実現する人々」(9節)、「義のために迫害される人々」(10節)、そして、その最後である11節と12節は、同じ「幸いである」という言葉は含められてはいますが、ずいぶんと形が異なっており、その内容からは、宣教のため、またイエスをキリスト(救い主)として述べ伝える活動をして、苦しんでいる人々に幸いが与えられる宣言と言えるでしょう。

「プネウマ」と「ディカイオス」の問題
 そして、その中にもルカ福音書6章20節から23節に記されております並行箇所と読み比べてみますと、明らかに言葉が負荷されている章句があります。それは、5章3節の「心の貧しい人々は、幸いである」と6節「義に飢え渇く人々は、幸いである」で、それぞれ、3節の「心の貧しい」は、心がなく「貧しい人々」であり、6節の「義に飢え渇く」という言葉は、「義」という言葉が追加されております。
 そして、どちらが古い形のイエスの言葉を残しているのか、と言えば、おそらくルカに記されている、それぞれ単純に「貧しい人々は幸いである」「飢え渇く人々は幸いである」という言葉がイエスに近い言葉であると考えられます。
 また、もう一点、ルカ福音書における「幸い章句」と読み比べたときに見えてくる違いを指摘しておきます。ルカ文書においては、「幸いな人々」とは、「あなたがたである」という形で、二人称で語られていたのに、マタイにおいては、「その人たちのものである」と三人称で語られている点が大きな違いです。そして、聖書解釈学の中において、釈義などにおいては、イエスが文字通りの「貧しい人々」「飢え渇く人々」に対して、語ったこれらの言葉にそれぞれ「心の(プネウマ)」と「義に(ディカイオス)」を加え、三人称にすることでイエスの言葉を、教会内で語りやすい形にして、マタイ福音書の著者は福音書に記したのだ、という形で説明されます。
 そして、特に5章3節において「心の」という言葉が追加されたことについて、様々な議論があります。そして、多くの注解書においても、多くの神学者もこの点について様々な説明がされております。「心の」は、ギリシャ語の「プネウマ」という単語で、「霊」「精神」「良心」などを指す言葉です。私の恩師も、この箇所の翻訳については、いろいろとブツブツと言っておりました。直訳しますと「霊において貧しい人々」です。ですから新共同訳ならび日本語訳の伝統に沿った「心の貧しい」とは違う、ということでした。また遡ってみて、文語訳聖書では「幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。」【1917】と訳されておりました。
 また、15世紀に来日したバレトにおいては、「スピリトの貧者は天の国をもつによってベアトなり」と訳されております。おそらく、「プネウマ」のもつ「霊」という意味合いを、上手く訳せなかったのか、相応しい日本語がなかったのか、そのままのカタカナで訳されております。さらに、また日本語における「心の貧しい人」とは単に、「どん欲な人」「ケチな人」を指したりします。そのことを指摘し意識した訳として、わたしたちが使っている新共同訳聖書のテスト版として出版された共同訳聖書では、
この箇所を『ただ神により頼む人々は、幸いだ』と訳しました。そして翻訳の解説には、『日本語における「心の貧しい人」は単なる精神的貧困者を指すから』という注が付されております。その翻訳は「その言葉の意味内容を良くくんだ訳」と言えますが、「あまりにも大胆」ということで採用されませんでした。

「貧しい人々」(神に対して謙遜な人々)
また、「プネウマ(霊)において貧しい」という言葉は、イエスが活動した当時には、宗教的に特別な意味が付与されていました。この場合は「霊の貧者」といった訳が相応しいですが、神への信仰心、憧れから自らを「霊の欠けた者」として捉える言い方で、この言い方は旧約聖書にもクムラン教団でも、現われる言い方でした。こうした違いは多神教的な日本と一神教文化における「霊の貧者」という表現が「謙虚・謙遜」を指す、ということが現われるような文化上の違いがあることからも翻訳が難しい言葉です。
 違う視点から考えてみたい、と思います。それは、イエスは実際に誰に向かって語った言葉だったのかという視点です。いったいどのような人々でしょうか。実際に貧しさの中にある人々なのか、それとも実際には豊かかもしれないけれども、イエスの周囲に神の導きを求めて、やってきた人々なのか。想像するしかないのですが、イエスが他の箇所で語った言葉から考えてみたとき、やはり実際の「貧者」を思い描かざるを得ません。
 マタイ福音書19章16説から22節には、イエスに対して、「良いことは何か」と問うた青年がいました。(P.37)
「19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
19:23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。
19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。」


 こんなことを金持ちの青年に言ったイエスが、「心の貧しい人々」は幸いです、と言うだろうか。実際に貧しさの中にある人々に向けて、「貧しい者は幸いなり」と言ったのではないだろうか。さらに深めて考えるのであれば、イエスはなぜこのようなことを「貧しい人々」に向かって言えたのか?実はここのところを問題にするべきかも知れません。誰に対して述べたのか、よりは、なぜイエスはこのような言葉を言ったのか。わたしたちに何らかの導きをもたらそうとしたからではないのだろうか。そうして考えてみたとき、「心の」という言葉がついているとかいないとか、「義」という言葉がついているとかいないとか、はあまり本質的な問題ではない、ように考えることが出来ないでしょうか。

「幸いである」ために
 誰に対して語られたよりは、これらの言葉を私たち自身が、どう受け止めるべきなのか?ということが本質的な課題であると言えるでしょう。これらの言葉を通じて、イエス・キリストは、わたしたちに「心を貧しくして」神に向かい、神の「義を求め」、隣人に対して「憐れみ深くあり」、「心清く」、「平和を実現するために」働くことを求めておられるのだ、ということには間違いないでしょう。そして、ここには、十戒や律法とは違う「積極性」が求められている、のが特徴と言えます。わたしたちが知っているように、十戒においても、その他の律法の諸規定においても、「〜してはならない」と消極的な形、否定の形で戒めが述べられております。しかし今日の箇所、「幸い章句」においては、すべてにおいて、積極的に、なすべきこととして、捉えられるのではないでしょうか。
 文字どおり積極的に今日の箇所を読むのであれば、こうなるのではないでしょうか。「心貧しくして」神を求め、「悲しみを我慢することなく」悲しみ、「柔和で」あり、義を求めて、憐れみ深くあって、心清く、「平和を実現するため」、また「迫害を恐れずに」働きなさい、と受け取るべきでしょう。そして特に、そうした積極性が、ただ単に「平和であれ」ではなく「平和を実現する人々」というような呼びかけにも現れているのではないでしょうか。

トルストイとドストエフスキー
 これらの幸い章句においても、イエス様が語った様々な言葉にしても、喩えにしても、わたしたちは、「従えているかいないか」に立たせ、今日の聖書の箇所における「幸い章句」にしても、これに続く様々な言葉にしても、わたしたちに大きな衝撃を与えています。
 山上の垂訓について、興味深い評論があります。高名な二人の文豪が比較されやすいロシア文学の巨匠トルストイとドストエフスキーで山上の垂訓について、全く逆の捉え方をしていると紹介されることがあります。
 『戦争と平和』、『復活』などを記したトルストイ。彼はこれらの言葉に対して、「完全に到達すべき言説」として捉えて、可能であろうと考えていました。そして、その生涯の後半では、これらのイエスが語った幸い章句を中心に、キリスト教の原点に返ろうという理想主義的な活動も行っていました。しかし彼自身、その理想と自分との差異、ギャップに生涯苦しんでいた、と言われています。
 またドストエフスキーの場合は、このように考えていました。ここで言われていることは「不可能」である、と。不可能なこととして捉えて、「人間とは何か?善悪とは何か?」の問いが込められているのだ、と理解していたそうです。ドストエフスキーが残した作品である『カラマーゾフの兄弟』には、作品の中における戯曲ですが『大審問官』として知られているお話しがあります。現実主義者の次男イワンが宗教家の三男アリョーシャに対して、神が人間に対する信頼だけ、1人1人の宗教性や倫理性だけでは、世の中は良くなることはない、ということを示すために語ったお話です。
 15世紀のカトリック教会という設定ですが、実際に復活したイエスに対して、「カトリック教会」の大審問官と言われる権力者はイエスを逮捕して、牢屋に閉じ込めてしまい、尋問をします。復活したイエスに対して、大審問官が言うわけです。「お前の役割はもう終わったのだ」と。かなり長い論述で私の理解も間違っているかも知れませんが、端的に言うとこうです。イエスが山上の垂訓によって語ったような理想主義的な考え方では、1人1人の倫理観ではけっしてこの世は良くならない、と。政治であっても宗教であっても団体となれば堕落してしまう。しかし、そうした堕落した教会であるかも知れないけれども、世の中の秩序を守るために教会はあるのだ、だからもうイエスの言葉は必要が無い、復活したからといって誰がお前の言葉に耳を傾けるのか」という内容です。
 非常に強い教会批判であり、政治への批判と言えるでしょう。しかし、そうした言葉もドストエフスキーの神への疑問であり、問いの投げかけと言えるのではないでしょうか。

神の動的な応答者へ
 主なる神の前における私たちの「貧しさ」とは何でしょうか。わたしなりには、言うのであれば、常にイエス・キリストを通じて道しるべを与えられているのに、その結論、結果の姿を知らないからです。しかし、強くその道、救いを求めているということは確かなことです。そして、その「貧しさ」を大切にすることによって、本当の豊かさへと繋がっていくことではないでしょうか。神の前においても、そして隣人に対しても「貧しくありたい」と思います。またどんなに苦しい状況におかれたとしても「諦めない」信仰、「神が共にいる」という信仰を守ることに繋がるのではないでしょうか。
 3.11震災の後に、よく言われるようになった言葉があります。「本当の強さ」とは「人に依存すること」「人に頼ることである」。キリスト者も同じかと思います。本当の強さとは、自分1人で歩むことではなく、主なるイエス・キリストと共に歩むこと、そして多くのあらゆる隣人たちと共に歩むことではないでしょうか。


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