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『共におられる神』(教会報の巻頭言)

2012.12.22(22:53) 179

『共におられる神』

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイによる福音書1:22〜23)


 『ヤコブへの手紙』という映画を見た。ヤコブという盲目の牧師のところに、12年間、刑務所に入っていた女性レイラがやってくる。ヤコブはレイラに自分のところに届く相談などの手紙を読み、祈りの言葉などを記した返事を書く仕事を手伝ってもらう。しかしレイラは、ヤコブを受け入れようとせず、毎日、ヤコブ牧師への手紙を届けにくる郵便配達人とも反目してしまう。また手紙を読んで返事を書くという毎日の仕事にも嫌気がさしたレイラは手紙を隠すようになり、当然、返事を出すことも出来ず、次第に手紙が届かなくなってくる。そうした中、役割を失ったと絶望してしまうヤコブ牧師、そして、そこを出て行こうとしたレイラも自分に行く場所がないことに気づき絶望してしまう。結論において、詳しく述べることはしないが、ヤコブ牧師とレイラにとって最後に訪れる救いは、「助け手」と「受け手」という関係を超えたものであった。
 イエスは、赤子として私たちのところに来られた。力ない存在として現れた。赤子とは究極の「受け手」ということができるだろう。しかし、わたしたちは赤子の笑顔や泣き顔に心動かされて、「助け手」として動かされてしまう。そして「助け手」である私たち自身が癒やされ、平和を与えられ「受け手」となることがある。「神は我々と共におられる」という名を持って生まれた私たちの救い主は、一方的に「助け手」として立つ神ではなく、「受け手」として生まれることで、身をもって「共にある」ことを示そうとしたのではないだろうか。
 主なる神は、わたしたちの究極の隣人として立っている。旧約聖書における「共にある」とは、他の民族、他の人と共にいないけれど、自分たち、自分とは「共にある神だ」という考え方があるだろう。しかし、イエスにおいてはどうだろうか。弱さを基礎にして、互いに受け入れる「弱さの相互受容」という関係を求めているのではなかろうか。神とは完全の存在であり、人は不完全な存在である。しかし主なる神はあえて、わたしたちの「受け手」となることで、「共にある」歩みをはじめたのだ、と考えることはできないだろうか。そして神の支配と平和を作り出すための仲間として私たちを招いているのではなかろうか。困難や不安の多い時代になったが、我らと「共にある」神の導きを信じて歩み続けたいと思う。
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2012年12月
  1. 『共におられる神』(教会報の巻頭言)(12/22)
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