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「自分を裁くとき」マタイ福音書25:31~46

2012.11.28(17:04) 176

「自分を裁くとき」
(2012/11/25)
マタイによる福音書 25章 31~46節

終末と救いというモチーフ
 今日の箇所、テーマは終末における救いと裁きです。そして、この箇所は、マタイ福音書において、最後の説教、メッセージとなる言葉です。マタイ福音書において、イエスと弟子たちは、マタイによる福音書21章の冒頭にエルサレムに入ります。その後、神殿における宮清め、神殿の境内において、両替商や神殿で捧げるための犠牲獣を売っている売店を壊して廻る、宮清めを行います。その後、イエスは様々なたとえ、言葉を述べるのですが、より明確にイエスの存在について述べたもの、キリスト者、イエスに従おうとする者が大切にしなければ教え、という要素の強まりを感じるものが多くなってきています。
 例えば、マタイ福音書22章15節から22節に収められている「皇帝への税金」という小見出しがつけられた箇所。この世的な権威と主なる神の権威どちらにあなたがたは従うのか?イエスは私たちに問いかけていると言えないでしょうか。22章20節21節。
「「22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。 22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」」

 私たちは、どちらに従っているでしょうか?ファリサイ派の人々は、イエスを罠にはめようとして、意地悪な質問をします。皇帝に税金を納めることを拒否すれば、皇帝侮辱罪で捕らえることが出来る、律法を守ることを重んじれば、律法違反を行っていると神殿に逆らう者として捕らえることが出来る。しかし、イエスは、この意地悪な質問に対して、質問で答えている。問いを投げかけた者に対して、問いを返して、その意地悪な意志を明らかにし、更にあなた自身、誰に従っているのか?「皇帝に従っているのか?神に従っているのか?」と問い返しているのです。
 そして、こうしたあり方は、他のたとえにも現れていると思います。
わたしたちが良く知っている「善きサマリヤ人のたとえ」。ルカによる福音書の10章25節からです。あの物語自体は、よく知られていますが、どういった形で始まるでしょうか?読み直してみましょう。ルカ10章25節から29節です。(P.126)
「10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
 神の子であり、この世の救い主であるイエス。そのイエスさまに対して、誰もが聞きたいことがあります。それはどうすれば、救われるのか?善きサマリア人のたとえにおいても、律法の専門家が質問しています。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と。それにイエスは質問で返し、この専門家は「神を愛すること」と「隣人を愛すること」と答えます。100点満点の答えです。しかし、これで終わらない。28節29節。「10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。」

 正当化しようとして、というのはより神の近づこうとしてでしょう。そして、「隣人と誰か?」という問いにイエスは「善きサマリア人のたとえ」を答えとして、答えている。この譬えは、聞き手に疑問を促しています。「自分の隣人とは誰だろうか?」サマリヤ人とは、ユダヤ人にとっては敵のような存在、そんな人が隣人なのか?律法に従うことによって、自分の隣人である強盗に襲われた人を助けられない人々、祭司やレビ人のあり方はどうなのだろうか?そして、ある意味、祭司やレビ人に近づきたい、と思っていた自分はどうしたらいいのだろうか?そんな思いを、この律法の専門家は抱いたのでないでしょうか。

羊飼いと羊、そして山羊

 今日のテキストの話に戻りたい、と思います。今、二つの聖書の箇所において、イエスは問いを投げかける形の答えを語っていることが多いことを触れましたが、今日のテキストは、それとは全く逆です。はっきりと書いてあるのです。救われるためにはどうしたらよいのか?はっきりと言っているというのが特徴の一つです。
 イエスさまが「栄光の座につくとき」要するに、終末のとき、この世の終わりのとき、また1人1人にとって正しいのか正しくないのかが示されるとき、どのようなことが起こるのかが、記されている。
 羊と山羊は昼間には同じ牧場、野原で草を食むように羊飼いは同じ場所で放し飼いにされています。が、夜になるとパレスチナにおいては、一般的に分けられていたようです。寒さが弱い山羊は小屋や洞穴に寝させ、羊は寒さに強いので夜であっても屋外の囲いの中に入れるために分ける。そして救われる人、祝福される人に言うのです。
34節の言葉。「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』
また、逆に救われない人々、逆に左側に人々に言います。41節の言葉。
「25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』と。」

隣人愛=無償の奉仕
 非常に厳しい言葉であります。変な言い方ですが、これが事実だとしたら、どうでしょうか。誰でも、困っている人々。ここに書いてあるような状態にある人々を助けたら、神の救いに入れる、天国に行けるとしたら?「飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢にいる人」が目の前にいて、その人を助けたら、神さまに祝福されて、神の国に入ることができるとしたら、誰でもするでしょう。
 しかし、ここにこの言葉の矛盾する点があります。それは、神さまのこうした意志に気づいてしまったら、この救いは成り立たないということです。右側に分けられた羊に当てはまる人。「正しい人」と呼ばれる人は、主なる神の言葉に対して、こう答えているのです。25章37節から39節。
「25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』」
 この「正しい人」当人には、まったくそうした意識になしに隣人に対する愛を実践しなければならない、ということです。そして、この箇所を読んでしまった人は、いくら隣人愛を実践しても、適わない事になってしまう。

宣教の困難さ
 また、こんな読み方もあります。それは単に「小さい者」ではなく、「最も小さい者」とされているところから出てくる理解ですが、このたとえをキリスト教宣教の文脈で見る、という見方です。初代教会において、「最も小さい者」とは、キリスト教の伝道者を指すという見方があります。たとえば、使徒として最も広く活動したパウロ。自らテント職人として働きながら、自ら生活費を稼ぎながら、使徒として伝道者としての働きを進めました。そうした人を各地の教会が支えてきた。そして、イエスさまの活動も、イエス様と12弟子たちの活動だけではなかった。私たちが名前も知らない、その存在を知らない人々の多くの支えがあったからこそ、神の計画としてのイエス様の歩みがあり、エルサレムへの至る道があり、十字架刑と復活があり、使徒の時代になっての教会の歴史があった。そうした歩みにつらなりなさい、という進めと読むことができる。
 そうした意味でいうと、この言葉。「教会の枠の中で、同じ思いをもっている人々と支えなさい」「支え合いなさい」という勧めになってくる。福音を伝えるのには、多くの困難があり、飢えや渇き、そして宿がないとき、病気になることや命の危険や逮捕されるような危険があった。そうした存在を支えることが、キリスト者としてあるべきことなのだ、ということになる。

自分を裁くとき
 しかし、そうするとうがった見方をすれば、それは仲間同士の中での倫理観、隣人愛になってしまうのではないか、という疑問が出てきます。すると「最も小さき者」を宣教者、伝道者とみる見方にも疑問が出てくる。そして、今日の箇所において、「なすべきこと」として記されていることを完全に果たすことができる人はいないのではないか、と思います。善きサマリヤ人のたとえが語られた時代のように、旅の途中に強盗に襲われて、倒れている人には出会わないかも知れません。しかし、これほど、高度に情報化やマスコミ等が発展した社会において、厳しい状況におかれている人々はたくさんおります。しかし、そうした情報にあふれすぎて、自分1人の力だけではどうしようもならない、というのが、現実的な判断でしょう。そして、身の回りのことから始める、ということ。仲間を集めるために働きかけるというのが現実的かも知れません。
 しかし、どこまで言っても、今日の箇所に現れている「正しい人」の地平の立つことができないでしょう。わたしたちは神さまの計画を知ってしまっているからです。この箇所を読まずに、正しいことをできる人、「小さき者」を守れる人こそ、完全な人と言えます。そして私たちが常に、この言葉を胸に「隣人愛」を実現していくとしたら、それは「自分で自分を裁くことではないか」と思うのです。理想としては、無心に「隣人愛」を実現することでしょう。が、やはり不可能ではないか、と私は思っています。

最も小さき者
 その上で、最終的に考えることですが、やはりこの「最も小さな者」とは、十字架への道を歩まれたイエス・キリストのこととして受け取るべきではないか、ということです。この箇所は最初に触れましたように、受難物語の一部です。エルサレムにおいて、宮清めを行った後、語られた譬えです。聞いている人々は、考えていたと思います。「隣人愛」の話よりは、自分が「救われるかどうか」が知りたい。弟子たちは「誰が一番偉いか」知りたい。どのくらい「正しいのか」知りたい。
 しかし、その答えとして、イエスさまが歩んだ道は、十字架への道でした。王となる道ではありません。それは、たしかにキリスト、メシアの歩みでした。しかし、誰一人として、その歩みが、栄光の歩みであるとは理解出来なかったはずです。信仰を持つこと、神の祝福を求めることとは、そうした弟子たちや周囲の人と同じことかもしれない。「最も小さき者」とは、私たちが栄光を求める中で、見過ごしてしまうような存在、と考えることはできないでしょうか。
 来週からアドベントです。イエスも私たちは誰でも、この世に裸で「最も小さき者」として、この世に現れました。しかし、その弱さに私たちは神の創造の力強さと愛を見る事はないでしょうか。その神の導きを信じて、今週も歩み出したい、と思います。



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2012年11月
  1. 「自分を裁くとき」マタイ福音書25:31~46(11/28)
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