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『本当に恐れるべき存在』マタイ福音書 10:26~33

2012.10.31(12:00) 168

『本当に恐れるべき存在』
(2012/10/26)
マタイによる福音書 10章 26~33節

マタイにおけるイエスの言葉
 今日与えられた福音書の言葉は、マタイ福音書に収められている言葉であり、迫害状況にある者への言葉として受け取ることが出来ます。マタイによる福音書には、わたしたちが親しみ、キリスト者にとっての指針として知られている山上の垂訓が納められており、5章の3節から7章の最後までがその部分にあたります。そして、その中でも特に、「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」で始まる5章の3節から12節が幸い章句として、広くキリスト教徒に対する教えと知られております。その中における10節から12節をお読みしたいと思います。(P.6)
「5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」」

 イエスさまは、これらの言葉において、迫害される人々に対して言葉を述べております。細かく触れてみます。10節において、言われている「義のために迫害される人々」とは、神の教えに従うが故に迫害される人々。そして、11節においては、イエスを主なる神、救い主であると証しするが故に迫害される人々に触れ、12節において、そうした迫害は小さいことで、天において、神の国においては、大きな報いがあるのだ、そして過去の神の使いであった預言者たちも同じように迫害された、と述べています。
 そして今日の箇所も、今お読みしました5章10節から12節の内容と同じように、どのような迫害にあったとしても、くじけてはならない、という勧めであります。ただ、そのことを詳しく、その理由、根拠となる考え方、捉え方も含めて語られているのが、今日の箇所、10章26節から33節と言えます。

イエスの言葉に従うこと
 今日の箇所、10章26節27節をお読みします。
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」
人々とは自分の迫害者のことでしょう。そして、「覆われているもので現されないものはなく」といった言葉は、内容的には二つのことを指し示していると言えます。それは、正しい者が必ず来たるべき時には、神の支配の中で神の守りの中に置かれる、ということ。そして、一方において不当な迫害者がそれとは逆の運命に落ちるということです。
 マタイ福音書においては、イエスの言葉は私たちに二つの運命を提示することが多いように思います。そしてそれはしっかりとした結果をもたらす、ということです。先ほど、触れました山上の垂訓においても、たしかに行動の進め、指針となる言葉です。ということは、言葉どおりに行うことが出来るか出来ないのか、という分岐点に立たされることになる。言い方を変えますと、その言葉に従えば救いがある、従うことが出来なければ救われない、ということになります。
 そして、おもしろいことですが、そういった場合に、わたしたちの運命は誰が決めることになるでしょうか。神さまではなく、自分自身、神に言葉を投げかけられているあなたがた自身、わたしたち自身が自分自身で運命を決めるのですよ、ということになってくる。運命は自分できめるもの、自己決定の論理、自己責任の論理ということもできるでしょう。たしかにそうです。主なる神、またイエスさまによってキリスト者として、神の愛される者として、歩むべき方向は示されている、それに従えなければ、神から離れるしかない。とても厳しい言葉と言えます。

創造の主の前に
 進む箇所では裁きに関する言葉が記されています。10章28節。
「10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
 この箇所、「体は殺しても」とありますが、「魂も体も滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」とありますので、肉体的な痛み、拷問などを受けたとしても、それを恐れてはならない、体だけでは無く、魂を滅ぼすことが出来る存在、この世の創造主である神、すべての存在の始まりと終わりとつかさどる存在である主なる神をのみ恐れなさい。
他の存在は恐れる必要はない、肉体的な痛み、心理的な痛みを伴うかも知れないが、それは魂の滅ぼすほどの怖さは無い、ということです。しかし、創造の主という信仰、神の姿は、ただ単に裁きのみをかたるわけではないのです。次の箇所29節をお読みします。
「10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」
 この世を創造したのは主なる神である。そして、私たちもその神に創造された被造物であり、誕生にしても、その終わりにしても、すべての運命を握られている。ですから、イエスによって示された神の教え、導きに従うことが出来なかったら、私たちの運命は当然、好ましくないところへおかれる。それでこそ、この世をつかさどる神である、と言えるかも知れません。しかし、先ほどお読みしました29節においては、そうではない、ということが述べられているのです。
 二羽の雀というのは、とても小さな命で更に状況的に言えば、この雀たちは神殿において、人が神に犠牲を献げるために売られている雀です。そして1アサリオンという金額が記されておりますが、とても小さな金額、1日の賃金の18分の1だということです。そうした価値の小さい雀だと思われる存在であっても、神の許しがなければ「地に落ちることはない」と言われている。

創造の主の愛
 これらの言葉が語られた状況を振り返ってみたい、と思います。イエスさまは、これらの言葉を誰に対して述べたのでしょうか。また山上の垂訓にしても、誰に語られたのでしょうか。おそらくイエスさまが訪ねていった、当時の社会規範の中においては、最も底辺にいた人々ではなかったか、と思います。日常生活においても、律法を守ることも出来ず、神殿に献げ物をささげることも、祈ることもなく、祭司や一般の人々から避けられている状況の中で過ごしていた人々。そして、とても神殿に捧げるための理想的な犠牲獣であった山羊や羊を買うこともできない人々であり、更にいえば、最低限の犠牲獣として売られていた雀さえも買うことができない人々に対して、語られたのではないか、と思うのです。
「10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」

 そういった人々にとって、雀はただの雀ではなく、自らの生活のすべてを捧げた象徴かも知れない。そして、そうした存在であっても、神さまは見過ごすことはない。また髪の毛一本さえもあなたがたは神の守られているのだ。そうした思いを基本として、そうした思いの上において、神はわたしたちを裁くのだ、という言葉ではないでしょうか。

神を恐れるということ
 こんな想像をしてみたことは無いでしょうか。神さまを信じる、神さまを恐れる、ということの逆の状態とはどのような状態なのか?と。私たちは福音書の物語において、大きな勘違いをしているのではないか、と思うことがあります。それは聖書に登場する人、特に福音書に登場する人すべての人たちが、神さまを正しく信じている人か、間違って信じている人か、のどちらかの人であったかと考えていないでしょうか。また、祭司たちやファリサイ派や律法学者の人々は見た目の上では神さまを信じていたけど間違っていて、イエスを受け入れた貧しくされている人々こそ正しかった、というように思っていないでしょうか。わたしも神学校に入るまではそう思っていたのですが、いろいろ考えてみると、そうではなく大まかにいって、3種類の人がいたのではないか、と思っています。あくまで括弧付きですが、正しく神さまの教えを理解していた人々、そして間違って理解していた人々、そしてもう一つ、それは神さまのことなんか自分たちには関係ない、と思っていた人々です。
 神さまを信じている状態と逆の状態とは「神さまを信じていない」ということではなくて、「神さまなんか関係ない」「自分の生活に関係ない」という状態と言えないでしょうか。そして、イエスさまが語りかけた弱い立場に置かれた人々とは、当然、神さまを信じていた人も信じていない人もいたと思いますが、一番多かったのは、神さまを信じたとしても、自分の運命が変わるわけがない、と絶望していた人々ではなかったでしょうか。

恐れるべき存在
 そうした人々には、イエスは語りかけたのではないでしょうか。「正しい形で神を恐れなさい」「神の教えは隠されているが、あきらかにされる」「小さな雀でさえも神さまは思っている」「髪の毛一本でさえも数えられている」と。神から遠く離れている、と思っているあなたがた、神さまと自分は関係ないと思っているあなたがたも神さまから思われているのですよ、守られているのですよ、と呼びかけていた。そして、あなたがたの生活は神に関係ないわけでは無く、深く関係しているのですよ、という呼びかけであったのではないでしょうか。
 そして、言うわけです。32節の言葉
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」
 ここで興味深いのは、神さまを「信じているか信じていないか」でも「愛しているか愛していないか」ではなく、「仲間」という関係において、救われる、という勧めになっていることです。33節においても、「信じているか信じていないか」ということではなく「知っている」ということだけです。難しいことは言わない、イエスさまのことを仲間だと思っているか?神さまを知っているか?というもっとも単純なことで、神さまは救って下さるのだ、とおっしゃっているのです。
 さらに勧めていうのであれば、実はもっとも単純な問いこそ、難しい問いであることはないでしょうか。元々の問いに戻ってみたい、と思います。では、わたしたちは神による裁きを恐れるが故に、神を信じるのでしょうか。イエスさまが求めたのは、そういう神さまの信じ方ではなかったと思います。マルコ福音書の冒頭、イエスはこのように語っております。マルコ福音書1章15節。
「1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」
 神の国は近づいた、というのは、神の支配が近づいた、ということです。そして、悔い改めて、というのは今までとは違う信じ方で、福音(良い知らせ)を信じなさい、ということです。イエスの周囲にいた人々の立ち場で聞くとすれば、こういうことでしょう。神さまは離れているのでも、無視しているわけでもない、近くにいて、わたしたちのすべてを守っている、愛そうとしている、そして神さま自身があなたがたに信じて欲しい、と思っているのだよ。ということではないでしょうか。
 そして、わたしたちが本当に恐れるべき存在は、神さまは自分たちに関係ない、自分などつまらない存在だ、と思ってしまう、わたしたち自身のこと、自分自身ではないか、と思います。わたしたちが「畏れ」や圧力によって、動かされることがあります。そして、そうした弱さから、主なる神の導きから離れてしまうこと、これこそ恐れるべき状態ではないでしょうか。わたしたちは、イエスさまを仲間として、神を知ること、で良いと思います。しかし単純なことこそ難しいものです。でもそうした原点に返ることが大切だと思います。まず主なる神が私たちに呼びかけて下さり、助けようとしている、ということ。そのことを胸に今週も歩みだしたい、と思います。


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2012年10月
  1. 『本当に恐れるべき存在』マタイ福音書 10:26~33(10/31)
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