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教会だよりの原稿『つまずかない生き方』

2012.09.29(17:45) 161

教会で発行している通信に載せた原稿です。
ちょっと前の説教の短縮版ですけどね。
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『つまずかない生き方』       

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。…人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」」(マルコによる福音書9:42-43/49-50)

 ここで「地獄」といわれているのは、実際にエルサレムの南にある「ヒンノムの谷」(ゲー・ヒンノム)という土地である。その谷では紀元前7世紀頃、当時のユダヤの地は宗教的にかなり混乱した時期、その一つの神に子供を焼いて捧げるという儀式が、この谷で行われていたことに由来する。また詩編23編に現れる「死の陰の谷」(新共同訳)を連想させる。子供を捧げ物とするような社会は、まさに倫理が崩壊したときの地獄に似た状態である。それはただの一つの事例、一時の事象ではなく、その異教的混乱と非倫理的状態の継続はイスラエル民族国家の破滅へと繋がったと言えるだろう。
 主イエスは、マタイ福音書11章6節において「11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」と言っている。イエスの活動、歩みに従う人には、今までの歩みと異なる歩みを始めるに当たって、大きな『決断』が求められた。イエスの弟子たちは、まさに家族と、今までの生活のすべてを捨てて、イエスに従うという決断を行い、エルサレムへと昇るイエスの後に従った。その狭間に立たされることを「つまずき」と言っているのではないだろうか。
 振り返って、わたしたちにとっての信仰とは、ただ個人の内なる問題にとどまらないだろう。信仰を持つことで、家族や友人との関係においては、どのような変化がもたらされるだろうか。自らは、「塩」を得た、信仰を持ったとして、今までの生活や家族を捨てて、すべてを捧げる献身の道に入るということ、周囲の思いをすべて無視するということは、なかなか出来ない。また完全に自分を捨てるという道を選ぶことは、自らの意思に従った積極的な選択だと言えるだろうか。神の導きに従った、という意味では積極的な意思ではなく、受け身的な決断とも言える。こんな言葉がある。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ福音書8:34)イエスは、この言葉で「今までの自分、過去の自分を捨てて、自分の十字架、与えられた課題を背負って、わたしに従いなさい」と言っているのではないだろうか。神はわたしたちに与えられている状況も含めて、愛して下さっている、受け入れて下さっている、という信仰。そして、どんなに苦しい状況であっても、わたしたち1人1人と共にいてくださっている、そんな信仰が与えられたい、と思っている。

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2012年09月
  1. 教会だよりの原稿『つまずかない生き方』(09/29)
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