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『罪からの逃走』ヨハネによる福音書8:1~11

2012.08.31(06:59) 153

『罪からの逃走』
(2012/8/26)
ヨハネによる福音書 8:1~11

律法に対して/赦し手として

 今日の物語は、ヨハネ福音書の本文をよく見てみますと、〔〕の中に入れられております。これは、もともとのヨハネ福音書の写本には見られないもので、後から挿入されたということを示しております。そして、その神学的内容からしても、その違いから後から入れられたもの、挿入されたものと考えられます。ヨハネ福音書におけるイエスを救い主として強調すること、重んじられていることは、イエスが「この世の光」であるということであります。しかし、この物語においては、イエスは律法に対する優位性、もしくはその知恵、そして赦しの神、主としての姿が強調されております。こうしたイエスの姿は、ヨハネ福音書においては、見られないものであります。
 また、この逸話、ある写本においては、ルカ福音書においては、律法学者とファリサイ派との対決の物語の後に納められております。この逸話が、律法学者とファリサイ派との対決物語として読まれていたことを示しています。そして、わたしたちはどちらかといえば、この物語より、律法に関するイエスの知恵と同時に、イエスの前に引き出された女性に対するイエスの態度、この女性を助けた物語である、という読み方など、様々な捉え方があるのが、この逸話の特徴であると言えます。

律法学者とファリサイ派にとっての律法
 テキスト本文の話に移ります。この女性は、神殿の中、境内において、イエスの前に律法学者とファリサイ派の人々によって、イエスを貶めるために連れてこられました。8章6節に「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。」とあります。そして、質問の内容としては4節5節です。
「8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

 律法学者とファリサイ派の人々のこの問いはたくみな罠となっております。「姦通の罪」は、十戒の第5戒「姦淫してはならない」にも含まれており、この違反は重大なものとして、違反に対しては、テキストにあるとおり石打ちの刑とされています。イエスの敵対者たちは、イエスがこの女性は石打ちであると答えれば、イエスに希望をかけた民衆の支持を失うということ。また「赦す」と答えれば、十戒の第五戒の戒めを破ることとなり、イエス自身が石打ちの対象となり、その立ち場を失ってしまいます。このように「許すべき」「許さないべき」、どちらの答えを述べたとしても、イエス自身が失脚する、立ち場を失うという良く出来た質問を投げかけているのです。

「この女性」にとっての律法

 また、この女性の立ち場にたって、この逸話について考えてみたい、と思います。この女性は「姦通の罪」によって捕らえられて、イエスの前に連れて来られました。しかし、ここで考えてみたいのは、姦通の罪を犯したのであれば、その相手の男性がいるはずですが、ここにおいてはまったく触れられていないのです。ここに一つのおかしさがありますが、当時の時代背景、家父長制的な家族制度と男性中心的な社会においては、どれほど男性に落ち度があったとしても、立ち場の弱い女性の方にその罪の責任が負わせられるという構造を想像することが出来ます。そして、さらに言えば、これらの人々は、その後の態度から、この女性と関係を持った、人々の一族とも想像をすることも出来るでしょう。
 そして、この女性、イエスと敵対者たちとの会話においては、何も発言していません。おそらく、自らもどこかで後ろめたさを持っていた、と考えることが出来ます。そして、自分自身が罪深い存在である、という自覚があったのでしょう。そうした意味において、この女性は、イエスと神の前において、誠実であった、正直であった、と言えます。

石を投げなさい

 この場面には、律法学者とファリサイ派の人々とイエスだけではなく、神殿ですから他にも人はいたはずです。そして、言うなれば公開裁判と処刑の場所となることを、幾人かの人は期待していたと言えます。イエスの敵対者たちは当然、イエスがその立ち場、権威を失い、人々の支持を失うさまを期待していたでしょう。そして、もう一方でこの女性がどのように裁かれるのか?そして、どのように処刑されるのか?といった趣味の悪い期待を持った人もいたでしょう。
 「石打の刑」はユダヤ人たちにとって律法に記された正式な処刑方法、死刑の方法であります。ローマ帝国がユダヤ人を支配していた時代、正式にはユダヤ人のみで裁判において極刑である死刑の判決を行うことも、禁止されていました。しかし、こうした倫理的な規定ともに、姦淫など十戒に関わる法律の違反に関しては、行われていたものと思われます。そして、処刑の方法について、順序について律法にもちゃんと記されています。申命記17章5節から7節。〔P.308〕
「17:5 この悪事を行った当の男ないし女を町の門に引き出し、その男ないし女を石で打ちなさい。彼らは死なねばならない。17:6 死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。17:7 死刑の執行に当たっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」
 今日の箇所で、イエスに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と問われて人々は、誰もこの女性に石を投げることが出来ず、「年長者」より順に立ち去っていった、と記されています。ここにおいて、年長者の人からこの女性に石を投げることを期待されていたのでしょう。しかし、誰もこの女性に石を投げることは出来ず、立ち去ってしまったというのです。なぜでしょうか?
 この問いに正解はない、と思うのですが、わたしとしてはこんな想像をしています。それは、誰もこの女性が姦淫をしたという事実を見た人はいなかったのだろう、ということ。そして、イエスを陥れるためにこの女性は利用されてしまい、誰も彼もが、確かな罪を確認することなく、全体的な雰囲気によって、連れて来られてしまったのではないか、と想像しています。
 そして、「罪を犯したことのない者が石を投げなさい」と言われて、ここに集っていた人々は、罪という事柄が、誰か自分では無い人の問題では無く、自分の問題であるということに気づかされたのではないでしょうか。イエスの言葉によって、自分の罪を振り返ることとなり、この女性に石を投げることが出来なかった。さらに立ち去ってしまったということは、自分の罪、過ちを認めて、神の前に立つ、ということが出来なかった、と言えるのではないでしょうか。

主なる神の導き
 そして、イエスとこの女性を取り囲んでいた人は誰もいなくなり、イエスとこの女性のみになりました。9節の言葉をお読みします。
『「8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」』
 「残った」という表現。誰も彼もイエスの問いに答えられず、神の前に立つことが出来ず、立ち去ってしまった中で、この女性のみが神の前に立つ姿勢を持っていたと捉えることは出来ないでしょうか。10節の言葉。
『8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」』
 ここまで触れませんでしたが、イエスは、意地悪な質問を受けた後から「罪を犯したことのない者が石を投げなさい」という勧めをした後、この女性と対話するまで、ひたすら地面に指で何かを書いていたと記されています。これも不思議な行為です。イエスは何を書いていたのでしょうか?文字でしょうか?それとも絵でしょうか?何かしらの図面?などでしょうか。
 これも想像するしかありませんし、いろいろな捉え方があるでしょう。わたしもいろいろ考えていますが、現在のところは、この女性の立ち場にたって物事を考えていたのではないか、という想像です。姦通の罪とは要するに、家族制度、家父長制の秩序を守るための律法ということが出来るでしょう。もし、この女性のみでだけではなく、相手の男性も裁かれるとすれば、いわゆる姦通の罪は、夫婦間、家族間の裏切り行為である、として捉えることが出来ます。しかしここで女性のみが裁かれていること。このことにイエスは何らかの痛みを持って、いろいろ考えていたのではないか、という想像です。
 この女性のみがイエスの前に残りましたが、先ほど触れましたように、罪ある存在として神の前に立つ姿勢を持った存在と捉えることが出来ます。11節において、イエスは彼女に言います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」罪という言葉が二つありますが、岩波訳の聖書においては、この言葉を訳し分けて、このように訳されております。
「「私もあなたを断罪しない。行きなさい。〔そして〕これからはもう過ちをやめなさい。」」

 この女性は、イエスの前に残ることによって、自らの罪を認め、自分の罪を受け入れた、と言えます。そして、その罪をイエスさまに受けられて、新しい歩みを始めることとなりました。しかし、他の人々は律法に記された罪を自分と主なる神の関係においてではなく、自分では無い人に適用しようとしました。更に、その罪のあるなしを自分のために利用しようとしました。そして、神の前にも立つことが出来ず、その場を立ち去ってしまいました。彼らは自ら、神との断絶、そして律法の意味から離れた歩みを始めてしまったのです。
 私たち自身を振り返って、どうでしょうか?罪があるかないかは大きな問題ですが、その罪を神の前において認めるということが出来ているでしょうか。また、自分の正しさを自分では無い誰かを裁くことによって、示そうとする、明らかにしようとする律法学者やファリサイ派の人々のような行為を行ってはいないでしょうか。
 イエスさまは、地面に文字を書いて、立ち去っていく人の姿を見てはいませんでした。なぜでしょうか?改めて、罪とは何か?と考えていたのではないか、と思います。また、罪を罪人とするのは、イエスにおいてでも、自分では無くその人たち自身である、という考えがあったのでは無いでしょうか。主なる神の前で罪を認めたこの女性は、罪を認めたからこそ、神との関係を持った神と共なる歩みを始めることとなりました。
 わたしたちの歩みも主イエスの導きに従った者となることが出来ることを祈ります。

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