FC2ブログ

タイトル画像

『神の子という代償』(ヘブライ人への手紙 9:15~22)

2012.07.20(18:42) 149

『神の子という代償』
(2012/7/15)
ヘブライ人への手紙 9章 15~22節

主の群れとして/主の神殿として

 今日、わたしたちにテキストとして与えられましたヘブライ人への手紙は、内容から手紙というよりは、論文や講話といった文体に近いものです。そして、もともと「ヘブライ人への手紙」という題名が付けられていたわけでは無く、その中身が、ユダヤ人たち、律法や神殿を重んじる人々に対する内容だった、ということからこの書名が付けられました。また他の手紙が、具体的に立っている教会がある町や地域の名前を付けて「ローマの信徒への手紙」や「ガリラヤの信徒への手紙」と「〜の信徒へ」や「宛先である個人名」、「テモテ」「テトス」「フィレモン」、また「差出人」として、「ユダ」や「ヨハネ」「ペトロ」などの名前が付けられているのに対して、「ヘブライ人への手紙」は唯一、民族の名前を付けられていることは、一つの特徴と言えます。
 そして内容ですが。書簡を通じて、律法によって重んじられている言葉にあふれております。「大祭司」、「神殿」、「モーセ」、「幕屋」、「生け贄」、「契約」と言った言葉がそれにあたります。そして、さらにそれらが、イエス・キリストという存在が、私たちに与えられたことによって、それらが与えられていた役割、位置がどのように変化したのか、またイエス・キリストという存在を神殿や大祭司と言った言葉によって、説明しようとしております。

大祭司として
 例えば、イエスが大祭司であるという記述が何度か出てきます。ヘブライ人への手紙4章14節にはこのように記されています。〔P.405〕
「4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」
 大祭司とは、神殿の中においても、最も重要な役割をする人であります。そして、大祭司しか出来ない役割がありますがありました。それは、至聖所と呼ばれる契約の箱が置かれた神殿の一番奥にある部屋に、1年に一度だけ入ることが出来る、という役割です。
そして、そこにおいて、すべてのユダヤ人たちが「気がつかずに犯してしまった罪」の汚れを浄める、という儀式を行っていました。
 そうした儀式が必要なのは、ユダヤ人たちにとって間違ったこと、律法から逸脱した行為、「罪」は、献げ物をささげるなどして、罪によって発生した「汚れ」を浄める必要、無化する浄化する義務が生まれます。そして、誰もが「悪いことをしたと意識している」罪については、献げ物などをささげて、その「汚れ」を浄めている。しかし、気づかずに侵してしまった罪を浄めることは出来ない。だから、1年に一度大祭司が、神殿の一番奥の至聖所に入って、その罪を浄める、という儀式を行っているのです。

神の小羊
 そして更に、このような記述があります。ヘブライ人への手紙7章27節。〔P.409〕
「7:27 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」
 神殿に捧げる献げ物は、大きく分けて、5つに分けられます。一つめは、日常的に捧げる動物の献げ物。2つめは、穀物の献げ物。3つめは、神との和解の献げ物。4つめは、罪や汚れを取り除く献げ物。5つめは、償いの献げ物、これは誰かに損害を与えたときに捧げる献げ物です。そして日程が決まっているものや、その都度捧げるものなどがあるのですが、イエスさまが自らを「いけにえ」と捧げたことは、ただ一度だけで、すべての罪が贖われた、償われた、というのです。
 そして、このことは様々な形で、聖書には証しされています。たとえば、「神の小羊」という言い方があります。神の小羊という場合、イエス・キリストのことを指し、ヨハネ福音書において、バプテスマのヨハネがはじめてイエスさまに出会ったとき、イエスに対して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1:29)と述べております。また、パウロもイエスさまについて、小羊という表現を用いています。コリントの信徒への手紙一5章7節で「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」と記しております。そして、イザヤ書53章における苦難の僕の歌、イエスさまの十字架刑を予告とも思える箇所にも、このように記されております。イザヤ書53章6節7節。〔P.1150〕

「53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」


血による贖い
 今日の箇所、ヘブライ人への手紙9章15節にはこのように記されております。
「9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」
 新しい契約の仲介者。神と私たちを結ぶ間に立つ存在である、と。イエスという存在が現れるまでは、モーセがシナイ山において主なる神と交わした契約、そしてその契約の徴として与えられた律法、そして神殿が神に近づくもの、人が救いにいたる道、であったわけです。しかし、イエスが現れ、死んでくださったことによって、新しい仲介者となったのです。そして、さらに遺言に関する捉え方が語られ、イエスさまが死ぬことによってこそ、人の救いが実現するのだ、と説明し、血に関する言葉が続きます。幕屋を完成させたときに、血によって浄めたこと、血による清めが無ければ、契約もなく、罪の赦しも無い、ということが語られます。それと同じように、イエスさまも十字架にかかって血を流さなければ、契約とは言えない、そのために血を流されたのだ、ということが語られます。

死の意味、血の意味

 血を注ぐということ、神殿の建築においても、血が祭具や建物に様々な箇所に注がれました。わたしが以前、平塚の教会にいた頃、ちょうど平塚のカトリック教会が会堂を建て直して、完成式のミサに出席させていただいたのですが、聖水を祭壇や建物のいくつかの柱にかけていました。それも浄める、という意味がありますが、同時に神に献げる、という意味がある、という話を聞きました。たしかに、プロテスタント教会の献堂式も、「会堂を神に献げる式」と書きますよね。「清め」という意味と同時に「捧げる」ということが、儀式に込められているわけです。
 血を注ぐ、という事柄。ある意味でグロテクスな感じがします。しかし、ユダヤ人の感覚で言えば、あくまで命を献げる、という意味が込められております。よく知られておりますが、ユダヤ人たちにとって血液を口にすると言うことは、とんでもないタブー(禁忌)なのです。その理由としては、血液は命の元であり、神の関わることなので、人が口にすることははばかれる、という意識が根底にあります。
 また人は様々な死や痛みに出会うことによって、よりよい生き方を目指すようになる。そうした意識を持つようになるのではないでしょうか。また、目の前に理不尽な死が会ったとしたら、そのような死が再び起こるようなことがあってはならない、そのようなことが起こらないために何をなすべきだろうか、誰もがそのように考えるでしょう。そして、「人間とはどうあるべきか?」「どのような生を生きるべきなのか?」「どのような死を死ぬべきか?」という尊厳ともいうべき課題が出てくると言えます。
 そして、ユダヤ人たちが「血を流す」ということをその歴史の中で、律法に記されているから重んじてきたという面と、遊牧民として生きる中で、自分の家畜の血を流すことによって、自分たちが生きてきた、という経験。「血を流す」という行為にそうした感情、心の動きを持っていたのではないか、と思うのです。家畜として飼ってきて、ある種の家族として育ててきて、何かしらの祭りのときや神の捧げるときに、家畜を屠って、裁く。悲しいとか、悲しくないとかでもなく、生き物の命を献げ、また自分の命としていく、そうした繋がりの中に、自分もいて、またその犠牲獣もいた、そんな気持ちが根底にあったのではないでしょうか。

聖なること/契約という視点から

 振り返ってみて、イエス・キリストの十字架刑はどのような死であったでしょうか。キリスト者は、「イエス・キリストの十字架刑」を救いとして、また愛として受け取ります。しかし、これはとても奇妙なことです。そして、聖餐式においては、パンをキリストの肉として、ぶどう酒を血として、いただきます。これもとても奇妙なことです。「肉を食べ、血を飲む」野蛮な宗教だとして、キリスト教が異端視扱いされた時代もありました。また大胆に言ってみて、どうでしょうか?わたしたちは地球の反対側のまったく知らない人の死に対して悲しむことが出来るでしょうか。また2000年前の人の処刑に対して、悲しみを感じることが出来るでしょうか。悲しむことは出来ないかも知れない。しかし、わたしたちはイエス・キリストの死、その血に自分たちの救いを見ているわけです。
 それはなぜか?わたしたちがイエスを自分たちの神として信じているから、というだけではなく、福音書を通じて、また聖書全体を通じて、知らされる神の意志に、主なる神の愛に、心が震えるからでは無いでしょうか。わたしたちが生きていく上で、大切にしなければならない何かをそこから感じるからではないでしょうか。
 そして、イエスの十字架刑を考える上で、忘れてはならないことはキリストを「大祭司」として、表現する箇所もありましたが、「神さまご自身がわたしたちのために血を流された」ということが重要ではないか、と思うのです。福音書の中には、イエスさまが「涙を流された」という記事があります。全能の神でありながらも、わたしたちの悲しみを悲しんで下さる神さまです。そして、同時に私たちの罪、神という立場であれば、どうでもよいこと。小さなことに自らの血を流して下さる神だ、ということです。
 私たちはこの世において、多くの人が苦しみの中にあること、痛みの中にあることを知っています。しかし、わたしたちは小さき存在で、そのすべてに思いを届けることはできません。しかし、イエスさまの十字架を通じて、イエスさまの流された血、背負われた十字架にはそうした人の痛みと言えます。イエスさまへ誠実な信仰によって、そうした悲しみや痛みと繋がることが出来るのではないか、と感じています。

スポンサーサイト




周縁自体


2012年07月
  1. 『神の子という代償』(ヘブライ人への手紙 9:15~22)(07/20)
次のページ
次のページ