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『気づきを礎(いしずえ)として』(ヨハネ4:5-26/ミカ4:1-6)

2012.06.30(20:15) 139

『気づきを礎(いしずえ)として』
(2012/6/24:沖縄の日・教団創立・旧6部9部弾圧記念礼拝/川崎教会)
ヨハネによる福音書 4:5~26/ミカ書4:1~6

キリスト教にとっての平和

 今日、与えられた箇所ミカ書4章3節には、こんな言葉が記されております。
「4:3 主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」
 今日の礼拝は、「沖縄の日」として守られております。わたしは沖縄へは平和運動や教会関係の集会などで、おそらく20回近くは行っているのではないか、と思いますが、一番最初に沖縄を訪ねたとき、伊江島という島を訪ねました。伊江島には「ヌチドゥタカラの家」(命こそ宝の家)という場所があります。もう亡くなられてしまいましたが阿波根昌鴻さんという方が作られました。今も伊江島には、米軍の基地が存在して、島の半分以上が米軍の用地として使用され、日夜、米軍の落下傘部隊の訓練が行われております。
 阿波根昌鴻さんは、戦前伊江島に農業を教える学校を伊江島に作ろうとしていました。しかし戦争のために、一人息子さんを無くし、さらに学校を作ろうと思っていた土地は、米軍によって強制的に基地とされてしまいました。その後、ひたすら平和の尊さ、基地撤去を訴えて、戦い続けていました。今から10年前にお亡くなりになりましたが、彼はキリスト者でありました。「ヌチドゥタカラの家」には、反戦平和資料館として、戦中の資料が展示されており、その壁には聖書の言葉が記されています。
「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ」(聖書)そして、もう一つの言葉がありました。「基地を持つ国は基地で滅び、核を持つ国は核で亡ぶ」(歴史)と。

ユダヤ人とサマリア人(異なる存在との出会い)

 今日与えられたヨハネ福音書4章には、イエスさまとサマリアのある女性の出会いが記されております。イエスと弟子たちは、エルサレムからガリラヤ地方に向かうため、サマリアを通りました。そして、シカルという町の井戸のそばにイエスが座っていたときサマリアの女性がそこに水をくみに来ました。
 イエスはその女性に「水を飲ませてください」(4:7)と頼みました。そして、その女性は声をかけられたことに驚いていますが、イエスとの応答を通して、イエスに対して、「預言者ではないか」と告白するに至っています。しかし、ただイエスを自分の預言者である、神の使いである、ということでこの話は終わっていません。まず、イエスが声をかけたことに対して、疑問を投げかけています。また、続く箇所においても、「5人の夫がいた」という話が込められていますが、この記述は、実際にこの女性に5人の夫がいたというよりも、サマリア地域にあった5つの異邦人の町があったことを、この女性に当てはめて語られているようです。そして、20節から26節においては、ユダヤ人はエルサレムにある神殿において主なる神に祈り、そしてサマリア人は過去に神殿が建てられていたゲリジム山において祈ることを常にとしていた。そしてお互いにお互いのことを間違っている、と考え、憎み合っていたわけです。そして、そうした状態がイエスさまの存在によって、歴史が切り替わることによって、違う場所で祈るようになる、と説明するわけです。

気づきによって

ある牧師が、「自分が牧師とさせられたのは、他の人以上に聖書を読む必要がある存在だったから」と冗談のように言っていましたが、わたしも同じかもしれない、と思います。そして不思議なことに同じ聖書の箇所でも、日々いろいろな発見があることがうれしいことです。
つい先日も大きな発見がありました。そして、そのきっかけは、わたしの子どもの話からでした。わたしの上の子どもは、現在幼稚園にかよう4歳児で、3年保育の真ん中のクラスにいますが、当然礼拝にも出て、家でも聖書の絵本やお話を聞くのですが、この間、創世記22章に納められていますアブラハムがイサクを捧げるという物語を教会で聞いたあとのことです。こんなことを言い出しました。
「おれ、神様きらい。」「なんで?」「だって、子供を殺して捧げろ、っていうのでしょ」「怖いから、嫌い」…。
 笑い話といえば、笑い話なのですが、たしかにおかしな話なのです。わたしなどは、子どもの頃から、この逸話に対して、違和感を持ったことはありませんでした。アブラハムは正しい人で、強い信仰を持っているんだな、すごいなあ、としか理解していませんでした。そういった意味で言いますと、子どもの頃からアブラハムの立場で、絵本を読み、お話を聞いていたわけです。しかし、子どもの立場、イサクの立場にたってみたらどうでしょうか。神さまは、誰のことでも大切にしてくれる。イエス様も「子どもは神の国に入ることができる」と言っている。そして誰でも愛してくれている、そんな神さまが「子どもを殺しなさい」と言うだろうか。
最近、出た本に『ラビによる聖書解釈』があり手に取り、その内容に驚かされました。その本は現代のユダヤ教のラビが日本のキリスト教主義大学で行った講演が元になっており、様々な材料を提供してくださっているのですが、要するに、アブラハムがイサクを殺そうとしたことは間違った行為だったのではないか、神さまが求めていた答えではなかったのではないか、と記されていたのです。要点だけを申しますと、あの逸話の最初にある「神はアブラハムを試された」という言葉ですが、この言葉によって始まるお話は、あくまで「試み」であって、その結果に正解が記されているわけではない、ということです。そして、本当の正解は、神さまにイサクを捧げるのではなくて、「わたしはそんなことはできない」というべきではなかったか、ということでした。神さまへの愛と自分の子どもへの愛を比べることはできない。そして同時に、神さまへの愛と隣人への愛は比べることはできない。そして、「いくら信仰によるものであっても人がしてはいけない境界線、限界が記されている」というのです。
そして、『ラビによる聖書解釈』には、そのような解釈に続けて、このように記されています。
「実際、この解釈では、神はまさに最後の瞬間まで、アブラハムが拒否するのではないのかと期待して待っていたことになります。しかし、それが起こらず…神は彼をとめさせるために天使を送らなければならなくなりました。この解釈において、神は確かにアブラハムをテストしました。しかし、神は次のことを知ってショックを受けたのです。人間は、ある行為がどこか神に仕えるものであると確信するならば、愛する子どもをさえ殺すというようなところまでも突き進む決意をするということです。」
 先ほど、触れました沖縄の伊江島にすんでいた阿波根昌鴻さんが作ろうとしていた命をはぐくむための学校は、基地となってしまいました。しかし、基地にしても世界中どこを探しても、「この基地は人を殺すためにある」とは言わないでしょう。誰もが、「人を助けるためにある、人の命を救うためにある」と言います。そしてミカ書の言葉のように、「鋤(すき)や鎌(かま)を剣や槍にするのは、人の命を救うためだ」というでしょう。
 そして、ユダヤ人とサマリア人の関係においても、神さまになるべく近づきたい、ために、間違った考え方の人を戒めなければならない。「正しい神殿はここだよ。」「いや、違う!ここだ」「それは間違っている」「おまえたちは純血な神の民ではない」そんな考え方をお互いにしている。隣人の立場に立とうとせずに、自らが神に近づこうとする。神への愛のみに集中している状況があります。

沖縄という存在
 昨日、6月23日は「慰霊の日」でした。しかし、8月15日のように戦闘が終わった日ではなく、軍隊の組織的な戦闘が終わって、その後、ドロヌマの消耗戦が始まった日です。9月半ばまで戦争は続き、民間人に多大な犠牲を生んでしまった日々の始まりの日です。そして未だに、米軍基地に囲まれた状況が存在します。沖縄は戦後でしょうか?そして日本は?
 インターネット上でこんな見出しの記事を見つけました。「傷痕は癒えることない」。たしかに67年経っても、大事な肉親や友人を戦争によって失った痛みは癒えることはないでしょう。しかし同時に、日本の中でたった0.6%の面積しかない沖縄に、全国の74%の米軍基地の存在するという現状を指しているとしたら、「傷痕は癒えることない」という見出しは、とても適切です。しかし今も、新しい兵器や基地が押しつけられようとしている現状があります。そうした状況から見たとき、その傷に寄り添おうとする気持ちはあるのか、ということになります。また昨年ある機会に、こんな話を聞きました。以前の沖縄の論調では、自分たちが「米軍基地があることによって、苦しんでいるので、そうした基地を他の県に作ることも反対」という意見が主流であったようです。しかし最近は、ある種のあきらめでしょうか、実際に他県に基地を作ってもらって、その苦しみを味わって欲しい、という意見が多くなっているようです。沖縄からヤマト(日本)が見捨てられようとしている、あきらめかけられている、と言えるかもしれません。

新しくされるため(気づきについて)
 わたしたちは誰もが固有の人生を歩んでいます。そして自分のことさえもわからないときがあります。ましては自分ではない他者、隣人のことを正確に知ることなどできるわけがありません。そして、ユダヤ人にとってのサマリア人のように、サマリア人にとってのユダヤ人のように、まるっきり敵対関係の人もいるでしょう。そして現代的に言えば、イスラエル人とパレスチナ人、日本人と在日コリアンの方々、韓国、北朝鮮、中国の方々かもしれません。そして沖縄の人々もそういう存在でしょう。近しい存在でありながら、立場に違いによって見えないことがある。そして、むしろ自分ではない他者によって、自分自身を見るかもしれません。
 イエス様は、「良きサマリア人のたとえ」を通して、「人に寄り添うこと」「隣人への愛」とは何かを教えてくださいました。あのたとえも、自分たちが持ってしまう枠を壊さなければならないという指針として捉えることはできないでしょうか。時々、わたしは未来のことを考えたときに絶望的な気持ちになることがあります。しかし同時に、こんなわたしだからこそ、イエス・キリストの導きを必要としているのだ、と思い直します。
 また、キリスト教会は、2000年間もそうした歩みを続けていたのではないか、と考えるのです。信仰を持つということは、私たちが、しっかりとした道しるべをもつことです。心を尽くして、神を愛するということにつながることで、神をどこでどのように礼拝するか、に関わります。しかし、わたしたちは神に集中することによって、ユダヤ人がサマリア人に対して、差別心を抱き、アブラハムが自分の息子の命を捧げようとしたような危うさを抱きやすいのではないでしょうか。そして、だからこそわたしたちは、イエス様を通じて、もう一つの戒めとして「隣人への愛」を与えられているのではないでしょうか。。
 そして、そうした隣人たちとの出会い、思いを「礎」にして、新しい歩みを始めること。新しい礼拝を始めること、それが、わたしたちが主なる神、そしてイエス・キリストから与えられている道ではないでしょうか。常にわたしたちに伴い、先を歩まれる主に従って新しい一週間の歩みを始めたい、と思います。



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2012年06月
  1. 『気づきを礎(いしずえ)として』(ヨハネ4:5-26/ミカ4:1-6)(06/30)
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