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「全会一致は無効!?」(その2)

2010.11.18(21:56) 71

「全会一致は無効?」(その1)の続き。

『ミシュナ・サンヘドリン』4の1には、
「死刑裁判では、全員が無罪を主張してよいが、全員が有罪を主張してはならない。」
「死刑裁判では、無罪判決はその日に終えてよいが、有罪判決は翌日になされねばならない。」
とあった。

なぜ、このような規定があるのか。
いろいろ想像してみた。

まず一つ目に規定。
「全員が無罪」することは良いが、「全員が有罪を主張してはならない」。
その場で、結論づけてはいけないとも読めるが、
そのときの勢いで決めてはならない、ということだろう。
また、全会一致とは一見非常に厳格な規定に思えるが、
そうではなく、「みんながそういっているから」という無責任につながりかねない。
そんなことを想定しての規定かな、と感じる。
二つの目の規定。被告の生命に関わる「有罪判決」。
その場の雰囲気だけで結論づけてしまうことへの恐れがあるだろう。
一晩寝て、本当にその判断で良いのか、過ちはないのか。
考える時間を持つということだろう。

石打ちの刑でもその被疑者の罪を訴えた人間が最初に石を投げる、
ということを聞いたこともある。
ヨハネ福音書8章にある「姦通の女」の記事で、
イエスは「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
と言っているが、このイエスの言葉は、そんな規定があったことを示唆させる。
そのような規定があれば、当然、最初に石を投げる者の責任は大きく、
よほどの確信がなければ、投げることは出来ないだろう。

裁判員制度にしても、法と前例に従って、
結論を出していく。厳正になされるべきであろう。
しかし、どのような判断においても、裁判員は
判決を出した責任を追っていくことになるだろう。
また、法にしても前例にしても、それだけで判断するのであれば、
逆にいって裁判員など必要ないのだろうか、と思う。

ミシュナの規定は、どれほど法と前例にしたがった、
公平な厳正な裁きといっても、裁きは人に行われることという現実。
つくづく人の不完全性をよく見定めた規定である、と感じた。

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2010年11月
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