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『信仰の結晶と原点としての十字架』(名古屋堀川伝道所巻頭言)

2016.04.27(14:23) 311

『信仰の結晶と原点としての十字架』

 受難週の記事に、どのような経過で記されたのか分からない記事がある。一つは、ゲツセマネの園でのイエスの祈り、もう一つは十字架上において、イエスが二人の犯罪者にかけられた言葉である。十字架上で、一人はイエスをののしり(ルカ23:39)、もう1人はイエスに救いを求めた(ルカ23:42)、とある。これらの言葉は誰も聞くことは出来ず、誰かが伝えたということは考えられない。だが、このように考えられないだろうか、と思う。実は、これらの記述は、原始教会のキリスト者たちが、それぞれの信仰生活の中でイエスの出来事を思い起こして編み上げた、裏切りの後悔や復活への感謝といった様々な感情の動きや祈りの結晶だ、という考え方である。
 福音書が記された時代、キリスト教会がユダヤ教から独立していく過程であり、それは同時に、迫害の経験の積み重ねの時でもあった。ゲツセマネの祈りは、イエスの歩みの思い起こし、あの時イエスは何を祈っていたのか、自分の状況をイエスに重ね、「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)と祈った一人の弟子の祈りではないだろうか。また、十字架上のイエスと二人の犯罪者の対話、迫害の中において、教会を離れ、棄教する人も当然いただろう。そして、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(ルカ23:39)と主イエスを罵倒する人の言葉であり。またそれとは逆に、どんな迫害の中においても、神やイエスを呪うことなく歩んだ人は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)と祈った言葉と思える。
 受難週の物語は、キリスト教における信仰の原点である。そして同時に、原始教会における十字架へのイエスの歩みに思いを寄せた様々な祈りと記憶の結晶であると言えないだろうか、と感じている。

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マリアを母として 《教会報クリスマスメッセージ》

2013.12.22(19:50) 245

「マリアを母として」

「1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。」…
「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。」(ルカ福音書1:38/47〜50)


 ルカ福音書1章47節から55節は、「マリアの賛歌」と呼ばれている。また、ルカ福音書は、マタイ福音書において父の家系が重んじられているのに対して、ルカ福音書はイエスが「女性を通して」この世に生まれた、ということを重んじ、そのことが何を示しているかを、この賛歌に込めた、と言える。ユダヤ人社会は「父権制と母権制」「父と母」そして「男と女」という二項対立と上下関係に基礎づけられている。イエスが「女性を通して」誕生したことは、こうした関係や二項対立を否定している、と言える。
 ビートルズの名曲「Let it Be」の歌詞の冒頭、「苦しみ悩んでいる時には、聖母マリアが現れて、貴い言葉をかけてくださる。 “すべて なすがままに”」(When I find myself in times of trouble. Mother Mary comes to me.Speaking words of wisdom,"Let it be.")」〔アルバム『LET IT BE』歌詞カードより〕という部分がある。「Let it be」という言葉を、どのように訳すべきだろうか。作詞したポール・マッカトニー自身は、このマリアは、ビートルズの解散を考えて思い悩んでいた時期に、夢に現れた母メアリーのことを指している、とコメントしている。グループと自分の進むべき道に関して、積極的なある決断をする思いがあったのか、またその運命に身を委ねる思いであったのか、どちらの理解も出来る。
 「マリアの賛歌」には、「はしため」に過ぎない自分としての、受け身的な忠実さ、また「控えめ」を美徳とする女性の理想的姿として捉える場合が多いように思う。たしかに、この「お言葉どおり、この身に成りますように」とは、神への忠実さを示している。が、同時に、「マリアの賛歌」に示されている、主なる神によって与えられた信仰的な決断の積極性を示す言葉として受け取ることは出来ないだろうか。クリスマスの時、マリアの賛歌を、その先の道を主なる神に委ねる信仰者の積極的姿勢が込められた祈りなのだ、として受け取りたいと思う。


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※教会の月報のクリスマス号巻頭言の原稿をアップします。
 某神学大学のクリスマスメッセージと内容がかぶっていて、
 びっくりしましたが、有名な曲ですしね。
 あくまでパクリでは無い、ということで…。

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『2本の平行する直線』使徒言行録4:32-35

2013.06.22(23:49) 213

『2本の並行する直線』

※ 教会だよりに掲載した原稿です。

「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」(使徒言行録 4:32〜35)

 とてつもない大きな一枚の紙の上で、とてつもなく長い2本の直線の関係を考えてみたい。1つの関係は、どこかで交わる点がある2つの直線。たしかにただ1点においては、交わるかも知れないが、その1点を中心にして、両端においては離れ続けるしかない。しかし、その同じ2本の直線が平行だったとしたら、永遠にその2本の直線は同じ距離を保ち続ける。そして交わることはないのだが、同時に離れるということもない。
 教会という集団は、礼拝共同体、信仰共同体、告白共同体、などと表現される。そして、そうした様々な要素の濃淡、バランスの違いによって、教派的な伝統やその教会の持っている特徴を捉えることも出来るだろう。使徒言行録に収められている初代教会の姿を「原始共産共同体」と表現することがある。食料や金銭を提供する人がいて、それと共に食する関係、そして誰も「貧しい人はいなかった」。違う表現をすれば負い目を互いに分かち合う関係だったと言えるだろう。現代の教会においても、1人1人のキリスト者や教会において目指すべきところは異なるだろうが、違いがあったとしても、その違う他者の喜びを喜び合うことを求めていく動きを諦めないこと、そうした意識がキリスト教のより良い深化に繋がっていくのではないだろうか。
 先に挙げた2つの直線の関係のように、人と人の関係も近くなることもあるが、同時にそれは離れてしまう可能性を秘めているもので、人と人との間にしても、教会同士の関係においても、永遠に交わらないちょうど良い関係、距離を探し続けている存在かもしれない、と思うことがある。だが、わたしたちにとってイエスは、どのような存在であろうか。主イエスと私たちとの間は交わることが出来ない大きな違いがあるだろう。しかし、そのイエスは私たちの想像も出来ないほど近くにいて、永遠に共にいて、絶対に交わらず、同時に離れることが無い、平行する直線のもう一本だ、といえないだろうか。たとえ紆余曲折を経て困難な道の中にあったとしても、必ず隣にいる存在、それが主なる神であり、イエス・キリストなのではないだろうか。

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「和解の希望として」(ボツ原稿)

2013.03.14(15:44) 190

『和解の希望として』
「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」(マルコによる福音書15:37〜39)

 ロバート・デ・ニーロ主演の『ミッション』という映画がある。18世紀の南米、スペイン統治下を舞台にした作品で、デ・ニーロ演じるスペイン人のメンドーサは西洋の奴隷商人のリーダーであり、同じスペイン人であったがキリスト教を先住民へ宣教しようとしていた宣教師たちとは対立していた。ある日、ある争いから実の弟を殺してしまい、後悔から抜け殻のようになってしまう。だが、敵対していた宣教師の説得と導きによって宣教師会に入る。まずメンドーサは、自らの罪を贖う意味もあってか、背負いきれないほどの大きな荷物を背負って、山や川を越えて先住民たちの村へ向かっていった。そしてその途上、誰から見ても苦しい困難な状況から、メンドーサが奴隷また商品としてしか見ていなかった先住民の一人の手によって、解放されるということが起こった。
 百人隊長の回心も同じではないだろうか。処刑の担当として多くの人の命を奪ってきた。その中で、当時の横暴な裁判や不完全な制度によって、罪無き人の命を殺めてきた。自らの役割とはいえ、深い罪意識を持っていたのではないだろうか。当然、多くの受刑者が不満を述べ、百人隊長を罵倒し、また赦しを哀願して絶命していっただろう。ゴルゴダの丘は、処刑される者だけに裁きの場ではなく、百人隊長にとっては永続とも思えるほど続く裁きの場であったと言えないだろうか。が、そこに神の子が現れたのだ。主イエスは不平も言わずただ主なる神に「なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)と祈るのみで、刑の執行を受け入れ、大声を上げて絶命した。百人隊長は、その叫びから、「この人は私と同じだ」また「わたしの叫びを叫んでいる」と感じたのではないだろうか。
 東日本大震災にしても、多くの災害にしても、問われていることは、いかに被災者、犠牲者、受苦者と共にあることか、ということである。百人隊長も十字架を背負っていた。それが「神の子だった」という告白に至らせたのだと感じる。「この人は神の子だった」という百人隊長の言葉。紛れもない信仰告白である。無力に抵抗もせず、神へ祈り、叫んだイエス、そして、そこに神を見た百人隊長は自らの運命を共にする存在としてのイエスに「共にある神」の姿を見たのだろう。あらゆる事柄における加害者と被害者という枠を超える「赦し」と「和解」の希望が示されているように感じる。


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『共におられる神』(教会報の巻頭言)

2012.12.22(22:53) 179

『共におられる神』

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイによる福音書1:22〜23)


 『ヤコブへの手紙』という映画を見た。ヤコブという盲目の牧師のところに、12年間、刑務所に入っていた女性レイラがやってくる。ヤコブはレイラに自分のところに届く相談などの手紙を読み、祈りの言葉などを記した返事を書く仕事を手伝ってもらう。しかしレイラは、ヤコブを受け入れようとせず、毎日、ヤコブ牧師への手紙を届けにくる郵便配達人とも反目してしまう。また手紙を読んで返事を書くという毎日の仕事にも嫌気がさしたレイラは手紙を隠すようになり、当然、返事を出すことも出来ず、次第に手紙が届かなくなってくる。そうした中、役割を失ったと絶望してしまうヤコブ牧師、そして、そこを出て行こうとしたレイラも自分に行く場所がないことに気づき絶望してしまう。結論において、詳しく述べることはしないが、ヤコブ牧師とレイラにとって最後に訪れる救いは、「助け手」と「受け手」という関係を超えたものであった。
 イエスは、赤子として私たちのところに来られた。力ない存在として現れた。赤子とは究極の「受け手」ということができるだろう。しかし、わたしたちは赤子の笑顔や泣き顔に心動かされて、「助け手」として動かされてしまう。そして「助け手」である私たち自身が癒やされ、平和を与えられ「受け手」となることがある。「神は我々と共におられる」という名を持って生まれた私たちの救い主は、一方的に「助け手」として立つ神ではなく、「受け手」として生まれることで、身をもって「共にある」ことを示そうとしたのではないだろうか。
 主なる神は、わたしたちの究極の隣人として立っている。旧約聖書における「共にある」とは、他の民族、他の人と共にいないけれど、自分たち、自分とは「共にある神だ」という考え方があるだろう。しかし、イエスにおいてはどうだろうか。弱さを基礎にして、互いに受け入れる「弱さの相互受容」という関係を求めているのではなかろうか。神とは完全の存在であり、人は不完全な存在である。しかし主なる神はあえて、わたしたちの「受け手」となることで、「共にある」歩みをはじめたのだ、と考えることはできないだろうか。そして神の支配と平和を作り出すための仲間として私たちを招いているのではなかろうか。困難や不安の多い時代になったが、我らと「共にある」神の導きを信じて歩み続けたいと思う。

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  1. 『信仰の結晶と原点としての十字架』(名古屋堀川伝道所巻頭言)(04/27)
  2. マリアを母として 《教会報クリスマスメッセージ》(12/22)
  3. 『2本の平行する直線』使徒言行録4:32-35(06/22)
  4. 「和解の希望として」(ボツ原稿)(03/14)
  5. 『共におられる神』(教会報の巻頭言)(12/22)
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