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荒れ野の40年

2011.07.05(17:03) 93

水曜日の聖書研究で民数記を読んでいる。(創世記から始まってここまで来た)

民数記の一番盛り上がる箇所は、13章14章だろう。
12部族から1名ずつ12名が選ばれ、カナンの地に偵察に行く。
しかし、偵察の結果、自分たちが
とても勝てそうもない強く多くの民族が
いることを見て、尻込みして、神を呪い、エジプトにいれば良かった、と
神の導きに不信を抱き、その結果として、
荒れ野で40年間過ごさなければならなくなった、という場面である。

(幼心に、エジプトからカナンの地まで歩いて、40年かかったと感じていたが、
それもおかしな話、まっすぐ歩けば、一週間ぐらいの距離とか思われるので、
それは間違いだった。)

そして、40年間という期間は、神への導きに不信を持った
20歳以上の人間すべてが死に絶えるまでの期間と説明されている。
ただ死に絶えるのを待つまで、荒れ野で過ごさなければならない、と
いうのは、とても辛いことであろう。

しかしただ死を待っていたとは言えないだろう。
イスラエルの民は、その時をどのように過ごしたのであろうか。
自分の子や孫に対して、後輩に対して、自らの歩みを語り、
同じ過ちを犯さないように、と語りかけたのでは無かろうか。

申命記の最後のシーンでは、ここまでイスラエルの民を率いてきた
モーセが亡くなる場面で閉じられている。
そして、ヨシュア記において、はじめて新しい世代のリーダーとして
ヨシュアが立てられ、カナンの地に入る。

自分たちの過ちを自らどのように背負い、また語るのか?

そんなことを考えさせられるエピソードだね。



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「全会一致は無効!?」(その2)

2010.11.18(21:56) 71

「全会一致は無効?」(その1)の続き。

『ミシュナ・サンヘドリン』4の1には、
「死刑裁判では、全員が無罪を主張してよいが、全員が有罪を主張してはならない。」
「死刑裁判では、無罪判決はその日に終えてよいが、有罪判決は翌日になされねばならない。」
とあった。

なぜ、このような規定があるのか。
いろいろ想像してみた。

まず一つ目に規定。
「全員が無罪」することは良いが、「全員が有罪を主張してはならない」。
その場で、結論づけてはいけないとも読めるが、
そのときの勢いで決めてはならない、ということだろう。
また、全会一致とは一見非常に厳格な規定に思えるが、
そうではなく、「みんながそういっているから」という無責任につながりかねない。
そんなことを想定しての規定かな、と感じる。
二つの目の規定。被告の生命に関わる「有罪判決」。
その場の雰囲気だけで結論づけてしまうことへの恐れがあるだろう。
一晩寝て、本当にその判断で良いのか、過ちはないのか。
考える時間を持つということだろう。

石打ちの刑でもその被疑者の罪を訴えた人間が最初に石を投げる、
ということを聞いたこともある。
ヨハネ福音書8章にある「姦通の女」の記事で、
イエスは「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
と言っているが、このイエスの言葉は、そんな規定があったことを示唆させる。
そのような規定があれば、当然、最初に石を投げる者の責任は大きく、
よほどの確信がなければ、投げることは出来ないだろう。

裁判員制度にしても、法と前例に従って、
結論を出していく。厳正になされるべきであろう。
しかし、どのような判断においても、裁判員は
判決を出した責任を追っていくことになるだろう。
また、法にしても前例にしても、それだけで判断するのであれば、
逆にいって裁判員など必要ないのだろうか、と思う。

ミシュナの規定は、どれほど法と前例にしたがった、
公平な厳正な裁きといっても、裁きは人に行われることという現実。
つくづく人の不完全性をよく見定めた規定である、と感じた。


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「全会一致は無効!?」(その1)

2010.11.18(08:30) 70

聖書研究会の準備をしていたら、ユダヤ人の最高機関である
72人で構成されるサンヘドリン(最高法院)が出てきた。

そこでふと思い出したのだが、「ユダヤにおいて全会一致は無効である」と
いう話を聞いたことがあり、実際のところ、
そんな規定があるのだろうか、と調べてみた。
すると、『ユダヤ人と日本人』という本にそのような記述があったらしい。

さらにメールで恩師の上村静先生に
聞いたところ「無い」ということだったが、
ネット上で調べてみたら、『イエス時代の日常生活』(山本書店)に
関係する記述があるということで調べてみました。

「…もしサンヘドリンが全員一致で有罪の宣告を下したときは 判決は『繰り越しとなった』。あるラビはこの形式は 偏見の理由で免訴を意味する、またあるものはこれは 少なくとも『反省させること』を意味するものと解釈した。」(『イエス時代の日常生活 Ⅱ』27ページ)

前後の文脈はイエスの裁判を問題にしており、
夜間に行われたこと、全員一致であったこと、
そのことで無効ではないか、ということ。

そして、サンヘドリンの規定のようなものである
『ミシュナ・サンヘドリン』4の1に、

「死刑裁判では、全員が無罪を主張してよいが、全員が有罪を主張してはならない。」
「死刑裁判では、無罪判決はその日に終えてよいが、有罪判決は翌日になされねばならない。」

という記述があることを知らされた。

ちょうど、裁判員裁判で初の死刑判決が出た日でもあったので、ご紹介。

続く。



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贖いとファラオ(出エジプト記の6章2節から10章29節)

2010.09.08(07:03) 46

今日の聖書研究会の内容ですが、ざっくりとポイントだけ。

「贖い」という言葉。キリスト教でしか使わないかも知れないし、どういう意味?と聞かれても難しい言葉。
聖書関係の事典によれば、「財産の買い戻し」「(宗教的行為として)献げると誓った物の代わりに献げる物」「神の救済」という順序で意味が発展していった、と記されている。
贖いといえば、イエス・キリストの十字架上の死による贖いが思い出されるが、神に対して、罪を赦されるため犠牲獣を献げることになぞられている。そして、その犠牲獣が特別な存在、価値が高ければ高いほど、赦される罪の度合いも大きい。信仰告白には「十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ(え))として神にささげ、我らの贖ひ(あがない)となりたまへ(え)り」という言葉がある。

ファラオは災いが重なる中で、徐々に態度を変えていく。「イスラエルの民が語り伝え、主であることを知るため」(出エ10:2)とあるが、それだけのためにエジプトの住民が災難に遭うのは、ちょっと…と思う。他の方法はなかったのか。災いと癒しと形は全く逆であるが、奇跡が神の力があらわれるためという思想は新約聖書にも見られる。(「神の業がこの人に現れるため」(ヨハネ9:3))もう一点、一連の災いにおけるファラオの態度のように、何度も罪の告白と取消を繰り返す例は聖書中見当たらないということだ。しかし、人間長いこと生きていれば誰でも…と、思ってしまう今日この頃。

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預言の言葉

2010.08.20(18:22) 40

説教の準備で、預言者について、いろいろと読み直している。

未来を「予言」するのではなく、神から預かった言葉を語る「預言」をする。
しかし、誰も耳を貸さない、というのが世の常。
預言者は人々が誤った方向へと向かうことを戒めるために現れる。
そしてその言葉は当然耳に痛い、耳に痛いのが預言の言葉とも言える。

最近、いろいろなブログを読むようになったが、言葉の力を感じる。
Twitterにしても、掲示板にしても、ものすごい勢いで、言葉が伝わっていく。
しかし、そうした伝わる言葉というのは、力のある言葉、
多くの人に好まれる言葉と言える。

預言者が現代に現れたら、やっぱり駅頭に立つより、
国会前に立つより、ブログやTwitterでも書くのだろうか。
そして、預言者の言葉は多くのリンクを張られ、
リツィートされ、伝えられるのだろうか。

パソコンに向かう預言者の姿を
ビジュアル的に想像してしまった。



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  1. 荒れ野の40年(07/05)
  2. 「全会一致は無効!?」(その2)(11/18)
  3. 「全会一致は無効!?」(その1)(11/18)
  4. 贖いとファラオ(出エジプト記の6章2節から10章29節)(09/08)
  5. 預言の言葉(08/20)
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